平成23(2011)年8月14-17日(日-水)旅行記録、「神武天皇大和討ち」孔舎衛坂での敗戦

←聖地日本の神社のトップページへ戻る

平成23(2011)年8月14-17日(日-水)旅行記録、
「神武天皇大和討ち」孔舎衛坂での敗戦から

 平成23(2011)年7月8日(金)
「かねての計画の通りに動くか」
 という自分自身の声に突き動かされて、大阪府から奈良県にある神武天皇の残りの史跡を訪ねることにした。
 参拝旅行を担保するために、平成23(2011)年7月9日(土)にまず宿を取った。
✓ฺ 8月14日(日)と8月15日(月)は「グリーンパレス広陵」(奈良県北葛城郡広陵町大字笠168 0745-55-5755 )
✓ฺ 8月16日(火)は宇陀市榛原の「保養センター美榛苑」(宇陀市榛原区福地255 TEL0745−82−1126 )。

  ネットカフェ(ヒーリン・フィーリン)(橿原市曲川町7-1-27 TEL0744−29−1755 )。

鳥見社(とみしゃ)に行くことは考えよ・・」
 という助言があったのは平成21(2009)年5月31日(日)のことで、鳥見社(とみしゃ)を参拝することに対して、「時」を置くことにしていたのだ。
 かねてからの計画を実行に移す段階に来たのだ。

 39ヶ所で祝詞奏上

►【7ヶ所】2011年8月14日(日)、「神武天皇大和討ち」難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑
►【4ヶ所】2011年8月14日(日)、石切劔箭神社の下社・上社、宮山。
►【5ヶ所】2011年8月14日(日)、盾津顕彰碑、「神武天皇大和討ち」孔舎衛坂での敗戦
►【2ヶ所】2011年8月15日(月)、枚岡神社、神津嶽(かみつだけ)
►【4ヶ所】2011年8月15日(月)、第16代 仁徳天皇陵古墳から日本武尊陵
►【2ヶ所】2011年8月15日(月)、第一次天孫降臨の2番目の降臨場所
►【2ヶ所】2011年8月16日(火)、日本武尊琴引原白鳥陵、耳成山登山
►【8ヶ所】2011年8月16日(火)、磐余邑顕彰碑、桜井市の鳥見山、九頭龍、第32代崇峻天皇稜
                  【論考】桜井市の鳥見山
►【3ヶ所】2011年8月17日(水)、宇陀市鳥見山の鳥見社から八咫烏神社
►【2ヶ所】2011年8月17日(水)、三重県亀山市の日本武尊稜、女房のお墓参りと2つの神社の参拝。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2011年8月14-17日(日-水)の旅行での未訪問地
►【4ヶ所】2011年8月14日(日)の孔舎衛坂で未訪問
►【3ヶ所】2011年8月15日(月)讃岐神社、第10代祟神天皇のとき創建された大坂山口神社・・
►【14ヶ所】三輪山登山は日を改める、第10代祟神天皇陵・第12代景行天皇陵。
►【3ヶ所】宇陀市の3つの水分神社

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

〔1〕千引の岩戸開きが行われたのは、平成7(1995)年11月26日(日)(旧暦10月4日)の日の出から夜半にかけてでした。
 翌日の平成7(1995)年11月27日(旧暦10月5日)の午後、伊邪那岐尊と伊邪那美尊がようやく出会うことができ、この日から未完で終わってしまっていた国生みが再開されたのです。
 未完の国生みが完結されたのは、平成20(2008)年11月24日(月)21:00です。

〔2〕天照大神の天之岩戸開きが行われたのは、平成21(2009)年9月23日(水)のことでした。

 ただ、この時の岩戸開きは、岩戸を封じている鍵を開けただけのものなので、天之岩戸は開ききっていません。
 いつでも開けられる状態になったということでしょう。
 おそらく、この岩戸を完全に開けるのは素盞嗚尊なのかもしれません。

〔3〕その肝心の素盞嗚尊の動きをうまく理解し切れません。

 天照大神が岩戸に籠られた責任を負わされて、追放の憂き目にあわれた素盞嗚尊の復権を図らなければならないのですが・・・
 大田種子は、日本武尊を素盞嗚命の転生だとしています。
 素盞嗚命によって八岐大蛇の尻尾から取り出された草薙剣を、日本武尊は伊勢で倭姫命から預り、東国の遠征に発たれて行きます。
 そして木曽路から愛知に入ったところで息吹山に横たわる大蛇のことを知り、草薙剣を持たずに息吹山に出かけ難を受けました。
 三重県亀山市の能褒野王塚古墳(のぼの)で日本武尊は神上がられ、葬儀の時、御棺のなかに冠・笏・御衣裳を残して白鳳(しらいとり)となって西に飛び立って行ったといいます。
 白鳳(しらいとり)の行方を追うと、日本武尊琴引原白鳥陵(御所市)のところに尾羽を四つ枝に置き、旧市の日本武尊陵(羽曳野市)にも四つの羽を残してあったと、大田種子は記録しています。
 宮簀姫の父が、第12代景行天皇に「熱田神宮」創建の許しを得て、能褒野王塚古墳(のぼの)に残された「冠・笏・御衣裳」、日本武尊琴引原白鳥陵(御所市)と旧市の日本武尊陵(羽曳野市)にそれぞれ残された「尾羽を四つ」を集めて熱田神宮に納めます。
 そして「草薙剣」も熱田神宮に納められました。
 こういう風にみてくると、日本武尊の3つの御陵(三重・奈良・大阪)と熱田神宮、それに耳成山に、素盞嗚尊復権の大きな鍵が置かれているような気がします。
 行ってみて何を感じてくるかによって、次の行動の指針にしようと思います。

 このページを作成している平成23(2011)年7月19日(火) 台風6号の影響で奈良県に被害という報道。

 同日朝には桜井市江包(えつつみ)で、素盞鳴(すさのお)神社の神木が倒れているのを住民が見つけた。
 「江包・大西のお綱祭り」(県指定文化財)で綱を結ぶために使われる神木といい、直径は1メートルを超すが18日夜からの強風で折れたとみられるという。
 江包地区の礒川栄信区長(67)は
「えらいことになった。残念だが、来年の祭りの対策を考えなければ」
 と話していた。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

 桜井市は今回の旅行で中心的に周る地域です。
 この事件も三輪山登山中止の理由の一つです。
素盞鳴(すさのお)神社の神木が倒れている」と報道されるこのタイミングに注目すべきか。

 

〔4〕神武天皇の即位は「神の世の事柄を一応岩戸に隠されて人皇」として即位されたものなので、大きな岩戸閉めでした。
 神武天皇の主要な足跡を丹念に調べて追いかければ、神武天皇が「一応岩戸に隠された神の世の事柄」が顕われてくる理屈です。
 西欧の神話との関わりからみて、宇宙や太陽系との霊脈を断つことに神武天皇の役割があったと思われます。
 銀河系や太陽系との霊脈を断ち、地球に内在する霊脈のみで神代の混乱を立て直そうとされたのです。
 「時」は、神武天皇が「一応岩戸に隠された神の世の事柄」が顕われてくる段階にきていると感じられます。
 そのため、2008年8月から和歌山県・三重県・奈良県の神武天皇の足跡を追ってきました。
 今回の旅行で一応一区切りです。
 神武天皇の史蹟を訪ねることによって宇宙や太陽系との霊脈が新たに結び直され、その象徴となる太陽系第10惑星の発見につながっていくことを祈ります。
 このページを作成している平成23(2011)年8月3日(水)

【宇宙】地球の『100兆倍』の水、120億光年も彼方に発見という記事(2011.07.26の記事)

 地球からはるか120億光年離れたクエーサー(准恒星状天体)に、地球上の海水の100兆倍の水が存在することが、科学者らの研究で明らかになった。
 地球の340億倍の質量を持つこのクエーサーを分析していたコロラド大学ボルダー校のジェーソン・グレン准教授らが、数百光年の範囲に広がる大量の水蒸気を発見した。カリフォルニア工科大学がハワイ島マウナケア山に設置している天体望遠鏡で、分光器を使って観測された。
 120億光年離れた天体を観測すると、見えるのは120億年前の姿だ。宇宙は136億年前のビッグバンで誕生したと考えられているが、その16億年後にはすでに水が存在していたことになる。

NASA提供
 引用先:http://www.cnn.co.jp/fringe/30003490.htmlからの引用

 神武天皇の史蹟を訪ねることによって宇宙や太陽系との霊脈が新たに結び直され、その象徴となる太陽系第10惑星の発見につながっていく動きに重なってくれていることを祈ります。

 

〔5〕人皇の世になって、神代の考え方が失われていき、大きな混乱が生じてきました。

 第9代開化天皇のときのアジア経営のとき、渡来人が多数移民した影響で日本古来の伝承と伝統が希薄化し日本各地の聖地が荒れ果てていきました。
 第10代祟神天皇の時、日本各地の荒れ果てた聖地の復興が図られました。
 三輪神社に大田種子が招きいれられ、三輪神社の祭祀の復興が図られたのは第10代祟神天皇の時ですし、豊鋤入姫命によって天照大神を祀る地の探索に着手されたのも第10代祟神天皇の時です。
 渟名城入姫命は日本大国御魂神(奇彦命)を祀り、市磯長尾市に引き継がれます。
 伊勢の地が、倭姫命によって再発見されるキッカケになったのは第10代祟神天皇の時だったといっていいものです。
 第16代仁徳天皇の御世、アジアを統治する必要から日本国内で儒学が隆盛を極めていき、神代の考え方が衰退していきました。
 第26代継体天皇の御世にいったんは神代の考え方が復活しましたが、時代の勢いに押されて、今度は仏教が隆盛を極めて行きます。
 仏教の「大日如来」とは、日本の「ある神」が「天照大神」になりたくて作り上げた太陽仮面です。
 日本の「ある神」が、日本の天照大神というバックボーンを背景に「大日如来という太陽仮面」の考え方を外国で説かせた。
 時期をみて、「大日如来という太陽仮面」を日本に逆輸入したというのが実相でしょう。
 日本に「大日如来という太陽仮面」が持ち込まれ、政治的に利用され始めると日本という国は乱れ放題。
「大日如来という太陽仮面」が日本に持ち込まれてしまったため、日本の神々は「菩薩」に変じて、「大日如来という太陽仮面」の影響下で衆生の救いを説かざるを得なくなった。
 私は、高野山に行ったし、比叡山にも行った。
 室生寺にも行ったし、三井寺にも行った。
 天照大神がおられる日本にあって、「大日如来」という考え方は権力闘争の隠れ蓑。
「大日如来」がいるところに争いの火種があるといってもいい。
 聖徳太子さん、そういうことだったんだよ。
 空海に最澄、こういうことだったんだよ。

 今回の旅行は〔3〕〔4〕〔5〕の課題に力点が置かれています。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 平成23(2011)年7月28日(木)の女房の夢と美穂の夢、さらに私の体調不良を考慮して、三輪山登山、大和神社にある高龗神社の参拝は中止にしました。
 中止にしたおかげで時間に余裕が出来て、春日県の下居神社(おりい)倉橋の九頭神社(女神とする)倉橋の九頭龍神社(男神とする)を発見することができました。

  平成23(2011)年7月28日(木)の女房の夢と美穂の夢

 朝早く起きて、三輪山の整理を始めた。
 女房が起きてきて夢の話をする。
「40畳くらいある大きなテラスハウスが売りに出されていて、そこに家族で見に行った。
 中に数名の人がいて、お父さんは見知らぬ人と意気投合したらしく話始めている。
 翌日、またそのテラスハウスに行ってみると、3人の業者さんが、
『また、あいつ(私のこと)が来ている』
 と後ろ指さされているようで心良く思われていない風だった。
 お父さんは、また昨日話をした人をそこに見つけてそちらに行こうとしていた」
「自分達はそのテラスハウスを買いたくとも、業者さんに売ってもらえないのだと感じた」

 続けて、

「美穂が、今回の旅行は行かない方がいいと言ってたよ」
 美穂を起こして話を聞いてみると、何回か同じ夢を見たのだという。
「十二単のような衣を着た人が今回の旅行はやめた方がいいよと、言ってくるんだよ」
「顔を見ようとすると、太陽の光に反射されて輝いていて良くみえなかったんだよね」
「展地が座るイスに座ってテーブルの下を覗き込み、カメたちをみて、可愛いねっていうんだよ」

(※)旅行から帰ってきた平成23(2011)年8月22日(月)の追記

 石切劔箭神社(いしきりつるぎや)の楼門の屋根にある3本の矢と逆矛の剣は、あまりにも天気が良すぎて写真の納まりきらない。
 光度が強すぎて蒸発してしまうのだ。
 しかも、石切劔箭神社(いしきりつるぎや)には亀池があった。
 亀のお腹に願を書き、池に放すのだ。
 石切劔箭神社(いしきりつるぎや)の宮司さんから宮山の話を聞いて、宮山に登っていくことを諦めている。
 美穂が見た「十二単のような衣を着た人」とは、石切劔箭神社(いしきりつるぎや)に縁深い方だったようだ。

 こういう夢が続いたので、三輪山登山、大和神社にある高龗神社の参拝は中止することにしました。

← 日程表のトップに戻る

【7ヶ所】2011年8月14日(日)、難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑・・

難波之碕顕彰碑から第16代仁徳天皇陵

大阪天満宮
大阪市北区天神橋2丁目1番8号
http://www.tenjinsan.com/
難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑
→ 19箇所の顕彰碑はこちら
大阪府大阪市中央区天神橋2丁目の大阪天満宮境内の聖蹟顕彰碑

 ◆ 『紀元二千六百年(昭和15年-1940年)を奉祝する国家的な記念事業』からの引用。

 光輝ある紀元二千六百年(昭和15年-1940年)を奉祝する国家的な記念事業を行ふため、昭和10(1935)年10月内閣組理大臣の諮問機関として紀元二千六百年祝典準備委員会が設けられ、次いで、昭和11(1936)年7月1日官制を以て紀元二千六百年祝典評議委員会が設けられ、本格的にその審議に当り、左の事業を決定したのであつた。
 本年(昭和15年-1940年)7月10日、神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑建設地たる大阪市天満宮境内に於て全聖蹟地の顕彰施設起工祭を執行(とりおこな)つたのである。
 本工事は、大体本年中に完成の見込であるが、遅(おそ)くも、来年早春の期には全部竣工するであらう。

 平成23(2011)年8月6日(土)の夢。

 自宅で仮眠をとっていると、神武天皇の足跡が一つに連なり、大きな輪に変わっていった。
 昭和15(1940)年7月10日、難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑が建立された大阪天満宮境内において、神武天皇の全聖蹟地(19ヶ所)の顕彰施設起工祭が執り行われている。
 ということは、当時の人々の記憶の中に入り込めば、難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑で全てを代表できるということでもあるらしい。
「神武天皇の足跡が一つに連なって、大きな輪になっていく」という夢は、神武天皇が「神の世の出来事を岩戸に隠された事柄」が現れ出てくる象徴夢になっているのだろうか。

 平成23(2011)年8月14日(日)6時に到着。

 大阪天満宮は、とても大きな神社だ。
 大阪府の中心地だけあって、早朝にも関わらず、参拝される方が多い。
 摂社の大将軍社に「意富加牟豆美神」(おおかむつみ)が祀られているのを知ってとても嬉しくなった。
 これまで、「意富加牟豆美神」(おおかむつみ)がどこに祀られているかを機会を捉えて調べていて、結局どこに祀られているか調べきれていなかったのだ。
 私が神事(かみごと)に関わってすぐ、女房の「むつみ」と付き合うようになり、商売のつながりで仲良くなった「睦美」さんから『新版 ひふみ神示』 (TEN BOOKS)を紹介してもらっていた。

 黄泉平坂において、伊邪那岐尊は「桃の実をひふみとられて」黄泉醜女に投げつけた。

 そして、自分を救ってくれたその桃に「おおかむつみのみこと」「オオカムツミノミコト」と名づけた。
 桃の実に2つの名があることと、私が神事(かみごと)に関わってすぐに2人の「むつみ」が現れたことの縁の不思議さを常に感じていた。
 黄泉平坂の戦いの時の伊邪那岐尊はまだ気づかれていなかったのだが、この「桃の実」こそ、伊邪那美尊が伊邪那岐尊を思うが結実されたものであった。
 つまり、「伊邪那美尊の化身」そのものであったのだ。
 このことを平成9(1997)年に知ってから、なおさら「意富加牟豆美神」(おおおかむつみ)がどこに祀られているか調べていたのだが、調べきることが出来ないままになっていた。
 それが今回の旅行の最初の神社で発見することができた。
 位置的には難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑と向かい合う形で祀られている。

大阪城
大阪市中央区大阪城1−1
大阪城のホームページ
豊国神社(ほうこく)
大阪市中央区大阪城1−1
豊国神社(ほうこく)の公式サイト

『Wikipedia』(ヴィキペディア)「生国魂神社(生國魂神社)」からの引用

 『Wikipedia』(ヴィキペディア)「生国魂神社(生國魂神社)」によると、大阪城築城のさい、「生国魂神社」や「高津宮(こうづぐう)」が遷座させられている。
 石山本願寺建立の際には、この神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)隣接地に遷座して建立したとも言われる。
 そうだとすると、神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)の最初の鎮座地は、石山本願寺が建立された場所だったということになる。
 近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する現在の天守閣周辺ということになる。
 戦国時代には、石山本願寺建立の際に隣接地に移転させられた生国魂神社(生國魂神社)は、石山合戦(終結は天正8年−1580年9月10日)で石山本願寺とともに焼失した。
 天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。

大阪城のある土地周辺は、神代の聖地としての霊脈があるところらしい。

 石山本願寺建立の際、神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)隣接地に遷座して建立したとも言われる。
 当の石山本願寺は織田信長との石山合戦において消失している。
 この石山合戦の戦火に神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)も消失した。
 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、織田信長の遺志を引き継いでこの地に大阪城を築城された。
 現在の天守閣の位置が神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)の本殿があったところらしい。
 また、豊臣秀吉は大阪城築城のさい、神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)第16代 仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」を遷座させ、そして、第一次天孫降臨の聖地にあたる生駒山の岩を切り出して礎石として使用し、大阪城を築城されている。

 ということは、織田信長ー仏教ー第16代仁徳天皇ー人皇初代神武天皇ー第一次天孫降臨の天之火之明尊

を貫ける場所になっているということだ。
 大阪城の礎石に向かって祝詞を奏上すると・・・

・・・生駒山と神代の昔の霊脈が人の世の記憶を通して呼び起こされる理屈になる。

◆ 大阪の地図を編集し始めると、平成23年7月16日(土)から秀吉が氷川神社(練馬区高野台)の拝殿に現れるようになった。
 平成23(2011)年7月16日(土)は「ウロウロ」していたのだが、翌日の平成23(2011)年7月17日(日)からは、端座して私たちを迎えてくれているかのように見える。
 今回の旅行の調査をしているとき、大直根子の記述から、「日本武尊」は「賤しき氷川神」の転生とする箇所を再発見したので、「氷川神社(練馬区高野台)」の拝殿に現れることのできる人物とは、「氷川神」に関わる人物と見るのが妥当だと思う。
 平成23(2011)年8月6日(土)に記録として残す。

 平成23(2011)年8月14日(日)、次に大阪城に向かった。

 大阪城は、大阪を代表する観光名所だ。
 こういう観光地は日中にやってくると身動きとれなくなる。
 伊勢神宮や出雲大社もそうだが、早朝が一番いい。一番いい空気を吸える。
 7時過ぎに着いたがそれでも観光客の数が多い。
 豊国神社(ほうこく)から入り、大阪城へと回った。
 大阪城の天守閣に向かって祝詞を奏上した。
 途中から秀吉が豊国神社(ほうこく)に立った。

 秀吉は次のように言った。

「お館様にこの城を一番見ていただきたかったのじゃ」
「ここに立てば日本の全てに通じる」
「日本を統一したこの城を、お館様に見て欲しかったのじゃ」

 秀吉のこの言葉を聞いて、祝詞を奏上することができなくなった。

 人の世のそれぞれの史跡に思いが託されていて、そして生きている。
 多くの人は自覚せず今の世を生きているが、間もなく「人の世」が終わり、神の世に移る。
 「人の世」から「神の世」に移るときの激変にどれだけの人が耐えられるだろうか?
 秀吉の意思に基づき、気を取り直して祝詞奏上を続けた。

第16代 仁徳天皇の
「高津宮(たかつのみや)」

大阪市中央区法円坂1丁目

 難波宮跡にあったとされる『高津宮跡(たかつのみやあと)』からの引用

 第16代 仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」はどこに置かれたかは江戸時代より諸説があり、明治に入ってからも、盛んに論争されているが、主なものを挙げてみると
@「延喜式」神名帳の「宮中神62座」に見える神社で、現在の「坐摩神社」「生国魂神社」が、元は高津宮内に祀られていたのを拠り所とし、これらの神社の旧地の位置から高津宮を「現大阪城の地」に比定する説。
A「日本書紀」仁徳天皇14年の条に『大道を宮中に作る。南門より直ちに指して丹比邑に至る』とあるところから、南門大道の位置比定より法円坂1丁目にあった「旧陸軍第8連隊兵営内の平坦地」に比定する説。
B「日本書紀」仁徳天皇12年の条にある『高津宮の北に掘られた堀江』を今の大川に当たるとして、「大阪城外濠南方の高台」に比定する説。
C「日本書紀」仁徳天皇38年の条では『仁徳天皇と皇后の八田皇女が高殿に登って暑さを避けた時、「菟餓野」から鹿の鳴き声が聞こえた』とあり、この「菟餓野」が現在の大阪市北区兎我野町付近の野だったとして、「上町台地の北端」を比定する説。
D近年上町台地の法円坂一帯で7世紀の難波宮が発掘されており、高津の宮も法円坂周辺にあったと見る説。
 現在ではDが最も有力な説とみなされている。

第16代 仁徳天皇の
高津宮(こうづぐう)

大阪府大阪市中央区高津1-1-29

 『高津宮(こうづぐう)』からの引用

 浪速の地を皇都(高津宮:たかつのみや)と定め、大阪隆昌の基を築いた第16代仁徳天皇を主神とする神社。
 第16代仁徳天皇は高殿に昇り、人家の炊煙の乏しいのを見て、人民の窮乏を察し、諸税を3年間止めて庶民を救済した仁政を行ったという。
 この仁政を慕い、866年(貞観8年)、清和天皇の勅命によって旧都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いてお祭りしたのを創始とする。
 以後、皇室をはじめ時の幕府等の度々の造営寄進を重ね、浪速津の守護神と仰がれたのだが、1583年(天正11年)豊臣秀吉の大阪城築城の際に比売古曽社の現在地に遷座した。
 1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲により、神輿庫1つを残してことごとく焼失、1961年(昭和36年)に社殿以下復興完成した。
(「高津宮案内記」参照)

神武天皇の
生国魂神社(生國魂神社)

大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9

 『Wikipedia』(ヴィキペディア)「生国魂神社(生國魂神社)」からの引用

 石山本願寺建立の際には、この生国魂神社を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。
 また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、生国魂神社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。
 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。
 天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。
 このときに造営された社殿は、「生国魂造」と呼ばれる、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである。
 元和元年(1615年)の大坂夏の陣で炎上し、徳川秀忠が再建した。
← 日程表のトップに戻る

【4ヶ所】2011年8月14日(日)、石切劔箭神社の下社・上社、宮山・・

盾津(たてつ)顕彰碑

石切劔箭神社(いしきりつるぎや) 大阪府東大阪市東石切町1-1-1
 伝記上の創建は、神武天皇二年に、宮山に上之社(上ノ宮)が建てられたとされている。
 さらに、第10代崇神天皇の代に下之社に可美真手命が祀られたとされる。
 実際の創建年月は、過去に戦乱で神社が焼失し、資料が残っていないため不明。
 当初は上之社が本社だったが、明治5年(1872年)6月に下之社に上之社を合祀し、下之社が本社となる。
 同明治5年(1872年)12月に上之社を分離して村社に列する。
 明治40年11月に再び上之社は本社に合祀されるが、昭和47年(1972年)3月に跡地に上ノ宮を再建。
 物部氏の有力支族である穂積氏が祭神を祀ったとされ、物部氏ゆかりの神社である。
 本社の南に大きな絵馬殿があり、屋根上には劔箭が天をさしている。
 現在の運営は単立の宗教法人である神道石切教本庁である。

 ご由緒|石切劔箭神社(石切さん)からの引用

 当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神(あまてらすおおかみ)の御孫にあたられる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄、饒速日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)の二柱をお祀りしています。
 御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。
 尊は神武天皇の御東征に先立ち、天照大神から十種(とぐさ)の神宝(かんだから)をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天降りになりました。
 そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。
 尊はその一族の家長である長髄彦(ながすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)とも呼ばれた三炊屋媛(みかしやひめ)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。
 その後年月を経て神武天皇の東征に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢(あめのはばや)を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。
 また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。
 可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。

○ 可美真手命は島根県に赴かれ、そこで神上がられている。

 とすると、饒速日命の御亡骸は、生駒山の北麓にある饒速日山か、石切神社(上の社)背後の石切神社の元宮がある宮山に納められている可能性が強い。
 天之火之明尊の亡骸は、生駒山ではなく、桜井市の鳥見山に納められた可能性が高い。

哮峯

石切神社(上の社)
境内に登美霊社と婦道神社がある
大阪府東大阪市上石切町2丁目1302


石切神社(上の社)の境内にある登美霊社
大阪府東大阪市上石切町2丁目1302
 登美夜毘売(とみやひめ)とも呼ばれた三炊屋媛(みかしやひめ)を祀っている。
 饒速日命の妃であり、宇摩志摩治の母であり、長髄彦(ながすねひこ)の妹。

石切神社(上の社)の境内にある婦道神社
大阪府東大阪市上石切町2丁目1302
 石切神社(上の社)の境内の左奥に婦道神社があり、弟橘姫命を祀っている。
 弟橘姫は穂積氏の忍山宿彌の娘とされ、物部氏と同祖である。

石切神社の元宮がある宮山
大阪府東大阪市上石切町2丁目

 ◆引用先:http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/shinwa04.html

 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。
 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。

 ◆引用先:http://blog.goo.ne.jp/reizan2007/e/a4fb25ec8125837b6b018a697bc7d057/?ymd=200905&st=0

 石切神社上之社の背後にある「宮山」山中には、ニギハヤヒとウマシマジを祀ったとされる「元宮」の地があります。
 上之社から一旦歩道にでて、辻子谷ハイキングコースとなっている住宅地や漢方薬工場の立ち並ぶ急なコンクリートの坂道を辿る。
 道の脇には幾多の石仏がたてられていて、夜泣き地蔵さんを過ぎたあたりで左に分岐して山道に入る。
 神社の方や、地域の方から「けもの道ですよ」と聞いていたが踏み跡はきれいについている。

 ◆ 平成23(2011)年7月23日(土)、天之火之明命の御陵は生駒山周辺にはなかったと気づいた。

 天之火之明尊の御陵は、長い間探していた場所だった。
 平成23(2011)年7月22日(金)石切神社(上の社)登美霊社婦道神社宮山の関係を追って、ようやく気付いた。
 桜井市の鳥見山の「白庭」伝承をどういう風に解釈するかが鍵だったのだ。

 平成23(2011)年7月23日(土)の朝起きて、天之火之明命が神上がられた場所(御陵)が特定ができたと思う。

← 日程表のトップに戻る

【5ヶ所】2011年8月14日(日)、盾津(たてつ)顕彰碑、神武天皇孔舎衛坂での敗戦・・

盾津(たてつ)顕彰碑

盾津(たてつ)顕彰碑
→ 19箇所の顕彰碑はこちら
大阪府東大阪市日下町6丁目10番の孔舎衙小学校東側の聖蹟顕彰碑
 神武天皇一行は、日下津に到着され、生駒山直越道から大和に入ることを決められる。
 孔舎衛坂で敗戦し、日下津まで兵を引き、盾を並べて防戦されようとしたところから、盾津と呼ばれるようになった。

哮峯

春日神社 大阪府東大阪市善根寺町6丁目7-67
「神武天皇御東征孔舎衛坂古戦場」碑
大阪府東大阪市善根寺町6丁目7-67
春日神社の境内にある。
 春日神社
 古戦場碑

「龍の口霊泉」碑
大阪府東大阪市善根寺町1丁目山中(標高280mくらい)
 日下之直越道を越えて大和に攻め入ろうとしたとき、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した肘の傷を洗った場所とされる。
 そこは「龍の口霊泉」である。 「五瀬の命が汲み給ひし霊泉と言ひ伝へらる」と石碑に記されている。善根寺町の人は地酒をこの水で作るという。

孔舎衛坂(くさえのさか)顕彰碑
→ 19箇所の顕彰碑はこちら
大阪府東大阪市善根寺町1丁目山中(標高280m)
 春日神社の境内地に車を置いて、南の道路を東北方向に向かって登っていくと第二阪奈道路にでた。
 通過交通の多い第二阪奈道路の車の途切れを待って向こうに渡る。
 山道を道なりにしばらく登っていくとまた、第二阪奈道路にでるので、同じように向こうに渡る。
 第二阪奈道路に沿って山を登っていく道を歩いていくと、「龍の口霊泉」碑の鳥居が見えてくる。
 「龍の口霊泉」碑に向かって右手に孔舎衛坂顕彰碑へ行く藪の道がついてある。
 藪道を踏み分けていくと、孔舎衛坂顕彰碑を設けているちょっとした高台にでた。

 ちょうどここでカメラの電池切れ。

 面白い縁だと思った。
 神武天皇が退却されたと思われる場所周辺で、カメラの電池切れで道を引き返すことになった。

梶無神社
大阪府東大阪市六万寺町3-14-31
引用先:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/naka-kajinashi.html
※創建由緒
 当社の創建由緒・年代ともに不詳だが、梶無神社略記によれば、
 「社伝によると、神武天皇は御東征の砌り、御船を白肩津から入江深く溯らせて来られたが、生駒颪により浪高く、梶折れ海上を漂揺する危機に立ち至られた。
 天皇は祖神の御加護を求め祈祷を籠められた為、さしもの強風も鎮まり波も穏やかになって、附近の丘に御船を付けて上陸することができた。
 天皇は、祖神の御加護を深く歓ばれて、その上陸した処に祖神のニニギ尊とコノハナサクヤヒメ命を祭神として祠を建て、神々に感謝をなされた。
 この祠が後年梶無神社になったと云われている」
 とあり、神武天皇創建との由緒とともに社名・梶無もこれによることを示唆している。
 今、当地を含む河内の一帯は住宅等が密集する市街地となっているが、古代においては、神武東征に際して天皇が上陸しようとした河内湖・日下の入江に続く低湿地だったことから、日下の地でニギハヤヒの抵抗にあって南へ廻航した神武が、嵐にあって当地に漂着したとの伝承を生み、それを以て当社創建としたのであろう。
 神武の上陸地であり、当社の旧地と推測される梶無の地について、河内誌に「社の北に地名梶無あり」とあることから、その後の史料は、当社の北(現四条町附近)あるいは西北の地(現神田町付近)としている。
 一方、郷土誌・六万寺には
 「日下の入江から南に入り込んだ低湿の地に近い下六万寺町墓地(現下六万寺町3丁目3番・東から延びる標高約9mほどの舌状台地上という)付近からは、5世紀頃の祭祀遺物である石製模造品が出土し、附近には土師器・須恵器の破片が散布している。
 ・・・
 梶無神社は、その名称や縁起から水または船と密接な関係をもつ氏族によって水辺の祭祀がおこなわれていたようである。
 ・・・
 この附近こそが、伝承にいう神武天皇が上陸され、祖神のニニギ尊とコノハナサクヤヒメ尊を祭神として祠を建て祀られたところではないかと推定する」(大意)
とあり、また当社略記は
 「この5世紀頃の祭祀遺物出土の地が神武天皇上陸の地とも云われ、また後三条天皇延久4年(1072・平安末期)の太政官牒によると、この祭祀遺物が出土した西側から、今の近鉄線の南側に至る範囲に六町四方の『梶無里』があったことが分かる。この梶無里は、梶無神社の所領または神田の所在地であったとも云われる」(大意)
 と記している。
 平安時代の梶無里には、当社の北・四条町、西北・神田町、西方・下六万寺町のいずれも含まれるようだが、上記祭祀遺物の出土状況から現下六万寺町3丁目3番附近(現六万寺保育園附近−市販地図)とするのが順当だうが、今、この附近に当社との関係を示唆するものは何もないという。
 また、下六万寺附近にあった祭祀施設(祠)をもって当社の創建とすれば、そこから現鎮座地へ遷ったことになるが、その経緯・時期などを示す史料はない。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

グリーンパレス 広陵町
奈良県北葛城郡広陵町大字笠168番地
0745−55−5755

← 日程表のトップに戻る

【2ヶ所】2011年8月15日(月)、枚岡神社、神津嶽(かみつだけ)・・

枚岡神社 大阪府東大阪市出雲井町7番16号
 社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのに始まると伝えられる。
 神津岳(かみつだけ)あるいは神津嶽(かみつだけ)の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。
 中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神として信仰された。
 白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。
 神津岳山頂には現在も奥宮がある。

 枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。
 神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。

神津嶽(かみつだけ)の
枚岡神社の本宮(元宮)

大阪府東大阪市出雲井町7番16号
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述に基づけば、天児屋根命が神上がられたのは、神武天皇即位前15年(紀元前685年)のことである。
 御亡骸は枚岡(平らな岡という意)に祀ったという。
 ちょうどの枚岡神社の本宮(元宮)にあたる神津嶽(かみつだけ)は「平らな岡」になっている。
  ◆ 天児屋根命の遺言と神上がり
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P192-195 )
  天鈴(あすず)三十三穂(みそみほ)  天鈴33年とは、紀元前685年であり
 神武天皇即位前15年である。
春日神(かすがかみ) 百五十六万(ももいそむよろ)  
二十五歳(ふそゐ)なり 天二枝命(ふたゑ)に曰く  
「わが齢(よわひ) 極(きわ)まるゆえに  
神伯父(かんおじ)お 汝(なんじ)に授(さづ)く 神伯父(かんおじ)とは、奈良町における神祇伯と同じような位か。
勤(つと)め」とて 三笠山(みかさ)に帰(かえ)り  三笠山とは、奈良市の市街地の東にある春日大社後方の山。
 若草山の南にあり、春日山の西峰をなす。
 標高282メートル。
 若草山をさしていうことも多い。
親(たら)祭(まつ)り 「汝(なんじ)天押雲(おしくも)」  
しかと聞(き)け 昔(むかし)仕(つか)えて  
御鏡(みかがみ)お 賜(たま)えばわれら  
左(さ)の臣(とみ)ぞ わが子(こ)ら和(やわ)せ  
たとうれば 春(はる)は濡手葉(ぬるてば)  
夏(なつ)青(あお)く 紅葉(もみじ)は強(つよ)く  
冬(ふゆ)は落(お)つ たとえ落(お)ちても  
な恨(うら)めぞ 陰(かげ)の忠(まめ)なせ  
この愛(め)でる ゆえは飛鳥(あすか)お  斑鳩の地に宮を定めた火之明尊は、翌日飛鳥に遷宮することを決めるという暴挙を行った。
 それに対し諫言した、天古屋根命(春日神)と奇彦命は臣の座から自ら退いた。
落(お)ちたとき 忠(まめ)お忘(わす)れず  
このゆえに 御孫(みまご)に召(め)され  
忠(まめ)なせば つひに鏡(かがみ)の  
臣(とみ)となる また大物主(ものぬし)は  
右(みぎ)の臣(とみ) 初(はつ)良(よ)き秋(あき)の  
弓(ゆみ)剣(つるぎ) かくのごとし」と  
酒(さけ)勧(すす)め その盃(さかづき)お  
請(こ)ば「否(いな) 子(こ)から授(さづ)けぬ」  
時にまた 「鏡(かがみ)の臣(とみ)お  
敬(うやま)うが 遺(のこ)る教(のり)ぞ」と  
神となる 二月(きさらぎ)十一日(そひか) 2月11日に神上がる
天押雲命(おしくも)は 四十八日(よそか)喪(も)に入(い)り  
山背(やましろ)の 忍穂井(おしほい)に納(おさ)む 忍穂井〔6の注41〕
 溥泉の『朝日神紀』に「藤岡忍穂井ト云所ハ、山田原外宮・・」「天村雲命ノ霊ヲ祭ル御井の社の、上・・・」「・・・山ト云、此山ノ麓ノ湧ル。井ノ御水ヲ忍穂井・・」と損傷箇所によって途切れながらも宇治山田の外宮、天村雲命の霊(みたま)を祭る御井のことなどがわかる。
 外宮域内の多賀宮に御井があり、下御井神社と称している。
 これとは別に上御井神社(かみのみいじんじゃ)別名「忍穂井」が藤岡山(外宮敷地内)の麓にあり、度会神主の祖先がこの水を高天原から授けられて日向の高千穂に降り、次に丹波の天の真名井に移され、豊受神の伊勢遷祀とともにこの地に移されたという伝承を有している。
 この上御井の水を御饌に用い、それに異常があるときは下御井の水を使う習わしがある。
 この、高天原ー日向ー丹波の真名井ー外宮という軌跡は、天照神の遷宮経路、すなわち、日高見(高天原)ー丹波の真名井(宮津の宮)ー伊雑の宮に類似している。
東向(ひがしむ)き これ姫神(ひめかみ)の  
罷(まか)るとき 木(き)は山背(やましろ)に  
居(い)ますゆえ 息栖(いきす)の宮(みや)の  
西向(にしむ)きぞ 諸民(もろたみ)慕(した)ひ  
喪(も)に入(い)るは 天(あめ)喪(も)のごとし  
猿田彦命(さるたひこ) 禊(みそぎ)に泡(あは)の  
胸騒(むなさわ)ぎ 太占(ふとまに)見れば  
「斎(ゐ)むの身(み)は 鏡(かがみ)ヱヽなる  
中一人(なかひとり) 憂(うれひ)あり」とて  
これ祭り 受けぬ憂(うれ)いと  
驚(おどろ)きて 宇治(うぢ)に至(いた)れば 伊勢の国の宇治の宮
三笠山(みかさやま) なお馳(は)せ登(のぼ)る 大和の国の三笠山
春日殿(かすがどの) 早(はや)仮納(かりおさ)め 春日社
喪中(もなか)ゆえ ともに喪(も)に入(い)り  
神輿(みこし)なし 明日(あす)枚岡(ひらおか)に  大阪府の東部、生駒山西麓に枚岡神社がある。
 平いらな岡の神津嶽(かみつだけ)の本宮が枚岡の地名の起こりになった。
 奈良市春日野町の春日神社第三殿、第四殿の祭神である天児屋根命と比売神は、この枚岡神社から遷座したものである。
 『延喜式祝詞』の「春日祭」にも枚岡より遷座した旨が記されている。
 
送(おく)るとき 猿田彦命(さるたひこ)が請(こ)えば  
許されて 神輿(こし)開(ひら)くれば  
猿田彦命(さるたひこ) 「われ常(つね)に請(こ)ふ  
魂返(たまかえ)し 御家(おゐゑ)と天二枝命(ふたゑ)  
一文(ひふみ)あり 今(いま)われ一人(ひとり)  
受(う)けざる」と 千々(ちち)にぞ悔(くや)む  
時(とき)に神(かみ) 目(め)お開(あ)き曰(いわ)く  
「汝(なんじ)良(よ)く 忘(わす)れず来(きた)る  
御裳裾(みもすそ)よ 請(こ)ふはこれぞ」と  
授(さづ)けます 猿田彦命(さるた)受け取り  
問(と)わんとす 早(はや)目(め)お閉(と)じて  
答え無し 行幸(みゆき)事(こと)なり  

【4ヶ所】2011年8月15日(日)、第16代 仁徳天皇陵古墳から日本武尊陵 ・・

難波之碕顕彰碑から第16代仁徳天皇陵

第16代 仁徳天皇陵古墳
(大仙山古墳)

大阪府堺市堺区大仙町
 日本各地を周り始めてから、時々第16代仁徳天皇陵のような形をした鍵穴を映像としてみることがあった。
 そのときは仁徳天皇陵だと自覚することもなく、「神代へつながる鍵穴が具象化されたもの」と理解してしまっていた。
 ところが、滋賀県高島市において、『秀真伝(ほつまつたゑ)』の隼総別皇子と第16代仁徳天皇の関わりを知ってから、隼総別皇子を失うに当たって第16代仁徳天皇の果たした役割の大きさを自覚するようになった。
 私が見ていた鍵穴は具象化されたものではなく、ストレートに第16代仁徳天皇のメッセージが届けられたようだ。
 第16代仁徳天皇からのメッセージが届いていた、とこれまで考えたことすらなかった。

 平成23(2011)年8月7日(日)、朝の体操で拝殿に行くと語りかけられた。

 背の高さにして5メートルから6メートルくらいある人物が氷川神社(高野台)の拝殿に立って、
「そなたたちに迎えを遣わそう」

 といわれる。

 平成23(2011)年8月7日(日)は、家族全員でハリー・ポッター「死の秘宝」(パート2)を見に行き、その後でジョイフルに買物に行った。

 ジョイフルから帰って来て、すぐに美穂と光宮(みや)のお買い物に出た。

 光宮(みや)の買い物の途中で、雷を伴う大雨になった。
 美穂の買い物の時、女房と美穂を残して、私と光宮(みや)で新座に向かった。
 その時、雷雨の中、雷が車の右側の電柱に落ちて火花を散らした。
 直前にある信号灯がパッと消えた。
 雷が落ちてきたのは、高校2年生(16歳)の時以来だ。
「光宮(みや)と一緒に新座に行くな」
 と言われたような気がしたので、すぐに引き返した。

(※)「大雷のをの神」とは「荒の神」〜『ひふみ神示』第10巻水の巻 第10帖。

 『ひふみ神示』第16巻の「アレの巻」は三典さんが訳された箇所だ。

 夜、高校時代の同級生だった oda からクラス会のお誘いの電話だった。

「今年は1組と6組の合同クラス会だという」
 第16代仁徳天皇が強調されていると思った。
 第16代 仁徳天皇陵古墳(大仙山古墳)に訪ねてくるように、という明確なメッセージになっていると思った。

平成23(2011)年8月15日(月)に参拝。

 第16代仁徳天皇陵の説話を聞いてショックを受けた。
 枚岡神社神津嶽(かみつだけ)の枚岡神社の本宮(元宮)を参拝してきた後だっただけに、特に、その衝撃は大きかった。

 その説話というのは・・・

 第16代仁徳天皇に鹿が突進してきて、仁徳天皇の前で突然倒れたのだという。
 どうして急に倒れたのか調べてみたところ、鹿の耳に百舌鳥(もず)が入り込み、百舌鳥(もず)が耳の中で鹿の耳を食いちぎり鹿の突進を止めたのだという。
 この説話から百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)との陵号が与えられている。

 実際、こういう事件があったのだと思うが、このことの示すご神意は何か、と私なら考える。

 鹿は神使に立つことがあるため、天皇(あめのすめら)の勅使を「鹿」の漢字を用いた「清雄鹿人」と表記する。
 しかも、鹿は春日大社の祭神の使いである。

 今日聞いた説話の意味は次のようだと思った。

 仁徳天皇の周辺に「百の舌」をもって語る人々(儒教者)が増えて、「百の舌」をもって語る人々(儒教者)から、ご神意を伝える人が失脚させられたり遠ざけられたりしている、とまずは捉える。
 隼(はやぶさ)という「鹿」を倒し、「百舌鳥(もず)」を選んでいるという警告でもあった。
 第9代開化天皇の時に本格的に着手されたアジア統治は、第15代応神天皇の時に成熟期を迎え、帰化人の手を通して漢字や儒教が伝えられるようになっていた。
 そういう時代背景から、第16代仁徳天皇の治世の時には、帰化人も2世代目、3世代目に入り、帰化人の勢力が台頭してきたのだろう。

 これが第一の意味である。

 神武天皇が銀河系や太陽系との霊脈を絶ち、地球に内在する霊脈で神代を立て直そうとされた結果の影響のため、惟神の伝統が失われ、ご神意を示すのに「百の舌」(多くの言葉)が必要な時代に突入してきた、ということでもある。
 鳥は「十理(とり)」でもあり、神代の理でもある。
 神代の理を表現するのに「百の舌」(多くの言葉や人物)が必要になった、ということでもある。

 これが第二の意味だ。

 私の右耳の下顎に、「鹿」のようにも「蜘蛛」のようにも見えるアザがある。
 小学校から中学校にかけての思春期のとき、私は「鹿」のように見えるこのアザがとても嫌で何回か手術をして取り去ろうとしたことがあった。
 しかし取り去ることは出来なかった。
 しかも、小学校4・5年の頃、「もずが枯れ木で」を愛唱歌にして歌っていた私にとって、第16代仁徳天皇の「百舌鳥」と「鹿」の話は、衝撃的なものであった。

      もずが枯れ木で

    【作詞】サトウ ハチロー
    【作曲】徳富 繁

    もずが枯木で鳴いている

    おいらは藁を たたいてる
    綿びき車は おばあさん
    コットン水車も 廻ってる

    みんな去年と 同じだよ

    けれども足んねえ ものがある
    兄さの薪割る 音がねえ
    バッサリ薪割る 音がねえ

    兄さは満州に いっただよ

    鉄砲が涙で 光っただ
    もずよ寒いと 鳴くがよい
    兄さはもっと 寒いだろ

第15代 応神天皇陵
大阪府羽曳野市誉田


第14代 仲哀天皇陵
大阪府藤井寺市藤井寺4丁目


日本武尊陵
大阪府羽曳野市軽里
藤井寺市藤井寺と羽曳野市の境界にある
 三重県亀山市の能褒野王塚古墳(のぼの)で日本武尊は神上がられ、御棺のなかに冠・笏・御衣裳を残して白鳳(しらいとり)となって西に飛び立って行ったという。
 白鳳(しらいとり)の行方を追うと、日本武尊琴引原白鳥陵(御所市)のところに尾羽を四つ枝に置き、旧市の日本武尊陵(羽曳野市)にも四つの羽を残してあったと、大田種子は記録している。

平成23(2011)年8月15日(月)に展地とともに参拝。

 拝殿に着いたとき、いいタイミングで白鷺が飛んできてくれた。
 今の時代に白鳳(しらいとり)はいないが、白鷺ならいる。
 こういうタイミングに神社周りに妙味がある。

第14代仲哀天皇陵・第15代応神天皇陵・第16代 仁徳天皇陵古墳

← 日程表のトップに戻る

【2ヶ所】平成23年8月15日(月)、第一次天孫降臨の2番目の降臨場所

【地図】第一次天孫降臨の2番目の降臨場所  

高貴寺 大阪府南河内郡河南町平石539
磐舟神社 大阪府南河内郡河南町平石456
  紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨のとき、天之火之明尊は斑鳩宮(哮峯)を置かれた。
  しかしその翌日、飛鳥宮への遷宮を決めた。
  この暴挙を諫しめるため、奇彦命と天之児屋根命は官職を辞すことになった。
  それでも飛鳥宮への遷宮は強行されたようだ。
  飛鳥宮造営のため、この地に降臨されたのだろう。
  こうして、この地にも天孫降臨伝承として伝えられるようになったのだろう。

平成23(2011)年8月15日(月)に参拝。

 高貴寺で祝詞を奏上し帰ろうとすると、
「ちょっと待たれよ」
 と拝殿のなかから声がした。
「このようなことをして、何の得があるのか」
 と問われた。
 その声の人物に答えた。
「私に得があるかどうかはわからない」
「神社周りは苦労ばかり多くて、個人的な損得でいえば損な役回りになることが多いと思う」
「しかし、第一次天孫降臨のとき天照神の託された天火之明尊の事跡を追わなければならないと感ずるものがあるのでここにやってきた」

 後ろを振り返らずに高貴寺をあとにした。

 次、磐舟神社に着いた。
 磐舟神社に着いた瞬間、やはりここが第一次天孫降臨の第二の降臨場所だと思った。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

グリーンパレス 広陵町
奈良県北葛城郡広陵町大字笠168番地
0745−55−5755

← 日程表のトップに戻る

【2ヶ所】平成23年8月16日(火)日本武尊琴引原白鳥陵、耳成山登山

日本武尊琴引原白鳥陵 奈良県御所市冨田
 三重県亀山市の能褒野王塚古墳(のぼの)で日本武尊は神上がられ、御棺のなかに冠・笏・御衣裳を残して白鳳(しらいとり)となって西に飛び立って行ったという。
 白鳳(しらいとり)の行方を追うと、日本武尊琴引原白鳥陵(御所市)のところに尾羽を四つ枝に置き、旧市の日本武尊陵(羽曳野市)にも四つの羽を残してあったと、大田種子は記録している。



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

葛城山から三輪山

耳成山 奈良県橿原市木原町490

 ◆「大和三山(畝傍山・天香山・耳成山)|月の光」からの引用◆

 大和三山は畝傍山は出口(いづぐち)で出口、天の香山は鼻で、耳成山は耳で三山を至上がお踏みになると大変なことになるのである。
 (大正5年4月2日、旧2月30日、大正天皇橿原行幸)
 日本はこの山があるので世界で一番尊いのである。

〔レ〕天の香山〜嗅山(かぐやま)、鼻成山(はななすやま)、花の山(はなのやま)。

 三種の御神器にては、神璽であり、玉体(ぎょくたい)であり陛下の御鎮台であります。

〔レ〕畝傍山稜威日(うねび)出日(うねび)日出山(うねびやま)口成山(くちなすやま)

 三種の御神器にては、大皇鏡(おおみかがみ)の鎮台である。

〔レ〕耳成山〜聴く山(きくやま)にして、気山(きやま)である。また真釣山(まつりやま)である。

 三種の御神器にては、草薙神剣(くさなぎしんけん)の御鎮台である。
 世界の一切の物事を聴こしめし玉ひて、その物事一切に相当する言霊を以て、天秤釣(まつり)に真釣り(まつり)、善悪正邪理非曲直を厳重に切り分け、定め極め給ふてふ、草薙神剣(くさなぎしんけん)の御鎮台であります。
 剣は釣極(つるぎ)の意味である。
 両刃の釣合(つりあい)を尊みて、つるぎと読むのであります。

 平成23年7月28日(木)に、三輪山登山の中止を決めたとき、耳成山登山も中止にしていた。

 しかし平成23(2011)年8月9日(火)、氷川神社での朝の体操から戻ってくるときに、
「登られよ」
 という声が私の心臓の中から聞こえてくる。
 この声を聞いたとき、耳成山のことだと瞬間的に思った。
 こういう声には私はすぐに従う。

 平成23年8月16日(火)日本武尊琴引原白鳥陵の参拝を終え、耳成山へ向かうと突然大雨。

 日本武尊琴引原白鳥陵の参拝を終え、耳成山に向かう途中、強い大雨が振り出したことにはショックを受けた。
 私が聞いている言葉の一つづつがご神意に沿っていない可能性がでてきたので、非常に困惑する大雨だった。
 この大雨が、耳成山に到着しても「大雨」のままだったら、桜井市の鳥見山の登山を含めて、参拝は中止にすべきだろうと思った。
 大通りを左折して、耳成山が見えるようになると、この突然の大雨はカラリと晴れ、瞬く間に青空が見えるようになっていった。
 私たち家族が神社の参拝をしていると、降っている雨がウソのように止んでくれることが多い。
 参拝の時間を確保してくれて、参拝が終わるとまた振り出すのだ。
 こういう不思議さには慣れっこになっている私でも、今回の天候の激変には驚いてしまう。
 神の力の不思議さよ。

 耳成山口神社の参拝を終え、頂上の三角点に向かった。

 祝詞を奏上すると、頂上三角点に、日本刀が現れてきた。
 前回来た時も日本刀を見たことを思い出した。
 草薙剣とここで見ている日本刀は関係あるのだろうか。

耳成山口神社 奈良県橿原市木原町490
 延喜式内大社で、成務天皇五年に神託により創建。
 天平2年(730)の東大寺正倉院文書にその名が見える。
 寛延年中に耳成山には、山頂に「天神社」と
 現在地の「耳成山天神宮」の2社があったそうです。
 「耳成山天神宮」は目原坐高御魂神社とされます。
 祭神;大山祇神、 高皇産霊神
 境内社;金刀比羅神社・稻荷神社
 大同元年(806)には、「風雨祈願のため使いを遣わして奉幣す」の記録があり、それ以後貞観元年(859)の祈雨神祭など、雨乞いの神事がたびたび記録に残されています。
 天神は農耕神であり、水の神でした。

← 日程表のトップに戻る

【8ヶ所】平成23年8月16日(火)磐余邑顕彰碑、桜井市の鳥見山、九頭龍

磐余邑(いわれのむら)顕彰碑 奈良県桜井市吉備、春日神社北側
→ 19箇所の顕彰碑はこちら
春日神社(吉備) 奈良県桜井市吉備640番
 「神武天皇大和進入」で推定している岩室にある皇大神社が「磐余邑」伝承地であろう。
 神武天皇の大和への最初の上陸地が桜井市慈恩寺佐野であったことを考えると、桜井市の春日神社(吉備)北側のこの地は、陣中深く入りすぎた場所であり、磐余邑(いわれのむら)顕彰碑を建立するには難点があるものと思われるが、顕彰碑が建立されているために参拝。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )  

等彌神社 奈良県桜井市大字桜井1176番地
等彌神社(とみ)(公式サイト)
桜井市の鳥見山 奈良県桜井市大字桜井
鳥見山中霊畤顕彰碑
(とみのやまのなかのまつりのには)
奈良県桜井市等弥神社南側
→ 19箇所の顕彰碑はこちら

 ◆ 南生駒村 鳥見霊畤址磐座碑の西面碑文

   神武天皇即位之四年立
   靈畤於鳥見山中郊祀皇
   祖天神明申大孝世稱磐
   座茲慶即是也本村有志
   合謀建碑欲傳聖蹟於無
   窮焉于時昭和十四年四
   月也

    南生駒村聖蹟顕彰會

◆ 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀された「下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とあるのは、「神武天皇大和進入」の推定では、宇陀市の「墨坂伝承地」にあたる。
 「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たるのであろう。
 神武天皇即位の大礼のとき、星の使いをされた天富命が、祭主になっている。
 第10代祟神天皇のとき、「下小野榛原(しもつおのはりはら)」に相当していた宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、宇陀市の墨坂神社に祀りかえられた。
 宇陀市というのは、「星の使い」に深く関わる土地であることも示されたのだと思う。

 天富命の伝承を踏まえた大田種子の記述に従えば、上のようになるのが自然な気がする。

 しかし、皇紀2600年祭のとき、奈良県のそれぞれの町の名誉をかけて関連する町々で大論争を巻き起こしたといわれる。
 「鳥見山中霊畤」伝承地に選ばれればそれだけでも名誉なことであった。
 その影響を受けて、奈良県内には「鳥見山中霊畤」伝承地が6箇所あることになった。
 桜井市の鳥見山は「白庭」伝承をもっており、神武天皇即位四年の伝承と絡めて語るには不適切な観が拭えない。
 紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨と神武天皇即位後4年では時間の開きが155万年もある。
 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)は宇陀市のものが有力であるにも関わらず、桜井市になぜ、鳥見山等彌神社の伝承が残るか今まで判らないままでいた。

平成23年8月16日(火)桜井市の鳥見山に登った。

 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)の「下小野榛原(しもつおのはりはら)」とあるのは、天富命の住居に注目すれば宇陀市の「墨坂伝承地」と墨坂神社である。
 「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たる。
 それでは、桜井市の鳥見山等彌神社に伝承されている霊畤(まつりのには)伝承は何か、という問題が残る。

 山頂付近にある「白庭」が鍵だと思う。

 紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨を遂行された天之火之明尊は、第一次天孫降臨から65万年後の紀元前898,627年頃神上がられ、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊(あめのほのあかり)の養子として天下られている。
 饒速日尊(国照宮)が天之火之明尊の喪祀りを行われるとき、御尊骸をどこに納めたのか、という問題意識は私が日本各地を周り始めた当初からもっていた。
 この白庭(あるいは白庭山)か鳥見山頂上が天之火之明尊の御尊骸を納められた場所だと思う。

 天之火之明尊の御尊骸は天に引き上げられた、とも伝えられている。

 天之火之明尊の御尊骸が天に引き上げられたとするのなら、どこから引き上げられたかという問題となっても現れてくる。
 もし天に引き上げられたとするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上から引き上げられたのだ。
 埋葬されたするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上に納められたのだ。
 どちらの観点から眺めてきても、桜井市の鳥見山は有力な候補地足りえる。

 大粒の汗を垂れ流しながら、山を一歩づつ踏みしめて登って行くと感じてくるものがある。

 「白庭」伝承は生駒市にもある。
 しかも生駒市の「白庭」伝承は強さを持っている。
 しかし、生駒市の伝承の強さは「弓矢など」伝承の強さであって、御尊骸を納めたという伝承ではない。
 天之火之明尊が神上がられた紀元前898,627年頃、大和は湖で大和湖という様相だったようだ。
 生駒山から大和三山まで湖水になっていたらしい。
 大和湖周辺の神宿れる場所を「白庭」と呼んでいたと考えられるかもしれない。
 だから生駒市にも白庭伝承があり、桜井市の鳥見山にも白庭伝承がある。

 神武天皇即位四年春の鳥見山中に霊畤(まつりのには)の本質は、「御祖神」を祀ることにあった。

 だから、桜井市の鳥見山頂上で第一次天孫降臨の「御祖神」にあたる天之火之明尊を祀り、宇陀市の鳥見社で「御祖神」として鵜葺草葺不合尊を祀られたのだ。

 (※)下の地図は『少年つぶやきぐさ』からの引用です。
神代の河内湾湖(標高60メートルラインか?)大和湖・河内湖

 高貴寺の住職が、磐舟神社の地に天孫降臨伝承があると残されているという。
 紀元前1,552,847年に天之火之明尊が生駒山北麓の哮峯に降臨し、翌日に磐舟神社に再降臨された。
 こうして、天之火之明尊の天孫降臨伝承が生駒山北麓の哮峯磐舟神社の2箇所に残されることになった。
 天之火之明尊の養子に入った饒速日尊(国照宮)は第一次天孫降臨から65万年後の紀元前898,627年頃、交野市の磐船神社に降臨され、神武天皇と長髄彦の決戦後に神上がられた。
 そして、御尊骸は石切神社(上の社)の裏にある宮山に納められた可能性が高い。
 第一次天孫降臨における天之火之明尊の降臨場所、饒速日尊(国照宮)の降臨場所、天之火之明尊と饒速日尊(国照宮)が神上がられた場所、それぞれ特定できたと思う。
 第一次天孫降臨の降臨場所を特定してみて思うのだが、神武天皇が、生駒山から二上山(南に磐舟神社がある)にかけてのラインから大和に入ることは不可能だったのだ。
 天照神の意向に基づいて天孫降臨された天之火之明尊の降臨地は、天之火之明尊が降臨されたその瞬間に誰も犯すことの出来ぬ聖地になってしまう。
 だから神武天皇でも突破できない。
 長髄彦がご神意に反することを行っていたとしても、神がいったん決定を下された陣容をコロコロ変えていいわけがない。
 長髄彦に審判を下せるのは、饒速日尊か天照神の意向を汲んだ勅使のみであった。
 神武天皇のときは、天照神が神上がられてから6万年経ているので、天照神の勅使を受けるには無理があった。
 天照神は、第一次天孫降臨以前に、大和統治のための補助路として、八咫烏命が守ってこられた熊野(和歌山)から大台ケ原(奈良)を越える「飛鳥路」を残されていた。
 天之火之明尊は第一次天孫降臨の時、「飛鳥路」を利用されなかったので、この「飛鳥路」は「天照神」の加護がそのまま残されているものだったらしい。
 こうして、神武天皇は天照神が切り開かれた「飛鳥路」を通って吉野を通り、大和に入ることが出来たのだ。
 しかし、神武天皇は大和に入ることができても、長髄彦に審判を下せていない。
 審判を下すことが出来たのは饒速日尊だったという事実のもつ意味を、もっと深く捉えておく必要があったらしい。
 今回の旅行で、第一次天孫降臨とは何で、第二次天孫降臨とは何であったのかを「人の言葉」で示せるようになった。
 つまり「やり遂げた」のだ。
 第16代仁徳天皇の御世、神の理(十理−鳥)を「百の舌」で語るようになって神代の風潮が廃れていったが、「百の舌」で語られたことの中から、神の世への戻り道を見出すことが出来た。
 平成8(1996)年から15年、ようやくやり遂げた。

 平成23年8月16日(火)桜井市の鳥見山頂上にある霊畤(まつりのには)で祝詞の奏上。

 祝詞奏上を終えると、
「そなたは何を望むのじゃ」
 と尋ねられた。
「これまでは、かなり無理を承知でやってきた。精神的にも経済的にもかなりハードだったと思う」
「まず、人として生まれたからには、人としての幸せを感じて生きていけるような生活を送りたい」
「次に、伊勢神宮の第62回式年遷宮に仕事として関われるようになりたい」
「神事(かみごと)で得たお金で自分がやりたいことをやる」
「ウェールズが予言的に遺した東京ソーシャルカレッジをつくることも私の課題だと思う」
「次の時代の政治や文化の指導者を養成する学校を作りたい」

「そのようなことなら既に手はずが整っておる」  

 という返答であった。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )  

春日県の下居神社(おりい) 奈良県桜井市大字浅古1282

 祭神・彦八井耳命が皇位を弟に譲り、宮居を去って春日県へ降居したため、「下居(おりい)」という。

 ◆ 日子八井と神八井耳

 参考:http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45938710.html
 神武直系子孫には大きく二種があって、ひとつは薩摩・大隅の隼人らしき「海系譜」の人である吾平津姫(あいら・つ・ひめ)の皇子であるタギシミミ。
 ひとつはヒメタタライスズヒメというどう見ても多々良を名前に持つ鉱物氏族の「山系譜」の女神の皇子たちである。
 その山系譜の皇子の中に表題の二人の神がいる。
 この系図は『古事記』重視したもの。
 『新撰姓氏録』では日子八井は神八井耳の子。
 『日本書紀』では日子八井は存在しない。
 この不思議な神・日子八井を祖とするのは阿蘇神社系譜の中で草部吉見系阿蘇神社氏族ということになる。
 熊本県蘇陽町にある草部吉見神社にはその神の陵墓比定地がある。
 ここは高千穂町にも近く、すぐそばには猿丸太夫の墓もある。もう何度も過去のブログであるかわかつワールドに書いている。
 高千穂町と椎葉町のちょうど中間点にこの神社は建っている。
 そして、階段を下りてゆく神社である。
 つまり旧池?のあった窪地に建っているのである。
 その背後のこんもりした森の裏側に日子八井陵墓比定地は存在する。

 ◆ 『秀真伝』が伝える蹈鞴五十鈴姫の御子は二人

 神八井耳命と神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)。
 下居神社(おりい)の祭神は「彦八井耳命」。
 同じような名として、「彦八井命」(耳がついていない名)があり、『新撰姓氏録』・『阿蘇氏系図』では神八井耳命の子としている。
 下居神社の祭神名には、「神八井耳命」と「彦八井命」(耳がついていない名)の混在が見られる。
 神八井耳命が「身知津彦尊(みしりつひこ)」〔31−12〕と名を変えて天神地祇を祭ったとする『秀真伝』の記述と多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ)との関連からみて、多神社の方が『秀真伝』の伝承を直接的に伝えているようにも見える。
 しかし、春日県の下居神社(おりい)も、皇位を弟に譲り、宮居を去って春日県へ降居したから「下居(おりい)」という風に直接的な伝承を含んでいる。
 ここでは、2つの考え方が同時に成立しうる「何か」があると捉えておく。

 ◆ 奉祝記念

 第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子は山形県の出羽三山神社(月山・湯殿山・羽黒山)を御開山・庄内平野を干拓され偉大な足跡を残された蜂子皇子は、桜井市の倉橋・下・浅古の三ヶ大字の郷官・下居神社を奉持され、山形県東田川郡羽黒町手向の地に、下居社を御鎮座
 遠い大和の産土の地を偲ばれました。
 平成五年五月八日出羽三山御開山一四〇〇年祭に公式参拝の折、当郷官末社・下居社に奉幣参拝し歴史上の太節を永久に後世に伝承するものであります。

 上記の「奉祝記念」碑で羽黒町の人は、

「蜂子皇子は、桜井市の倉橋・下・浅古の三ヶ大字の郷官・下居神社を奉持され」
 としている。
 第32代崇峻天皇の第3皇子・蜂子皇子も下居神社(おりい)に関わってきた方だったのだ。

 ◆ 下居神社(論社3社)

 神明神社(桜井市大字下居)
 下居神社(桜井市大字浅古)

 下居神社(桜井市下)

◆ 奈良県を本格的にまわり始めた平成20(2008)年8月16日(土)、神八井耳(かむやいみみ)命の御陵比定地とされている八幡神社(八井神社)の参拝を済ませている。
 その神八井耳命が降居(おりい)し、宮を構えたという記述を知って非常に驚いた。
 おそらく、この地に降居(おりい)し、最初に宮を構え、次に多神社へと遷宮していったのだろう。

◆ さらに、下居神社(おりい)に出羽三山の奉祝記念が立っているのを知って、またまた驚いた。

 平成7(1995)年11月26日(日)(旧暦10月4日)、千引の岩戸開きが行われたのは出羽三山のある庄内の地だった。
 平成5(1993)年5月8日に私と同郷の方達が、奈良県のこの地を訪ねてきてくれたことが、平成7(1995)年11月26日(日)(旧暦10月4日)の千引岩戸開きにつながる古い記憶が揺り動かされた可能性もある。
 私が千引の岩戸開きの記念祭を第32代崇峻天皇陵がある桜井市で行って欲しい、と思ったのだが、違う角度で、第32代崇峻天皇陵がある桜井市で記念行事が行われていたのだ。
 ただただ驚くばかりだ。

倉橋の九頭神社(女神とする) 奈良県桜井市倉橋
倉橋の九頭龍神社(男神とする) 奈良県桜井市倉橋
 倉橋の九頭神社を女神とし、倉橋の九頭龍神社を男神とするらしい。
 地図によると、倉橋の九頭龍神社(男神とする)の東側に「神山鉄工所」があり、箱根の九頭龍神社本宮と神山の位置関係を想起させる。
 平成23(2011)年7月11日(月)にみた「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」は、この2つの神社周辺で見たのだ。
黒くて細いワカメ
 そして、「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」は、平成23(2011)年7月10日(日)に私が捉えた二重連星に襲い掛かっていった。
王星の二重連星
 「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」が九頭龍を九頭龍たらしめているのだ。
 平成23(2011)年7月28日(木)に三輪山登山を中止した結果、下居神社(おりい)倉橋の九頭神社(女神とする)倉橋の九頭龍神社(男神とする)を発見できた。
 「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」はこの場所に潜んでいたのかもしれない。
 これが、火の国の「忌み嫌う気持ち」に隠れていた「怒りと憎しみ」の霊的実体である。
 翌平成23(2011)年7月29日(金)に、
 男「やり遂げよ」
 女「やり遂げてください」
 といってきたのは、ここの祭神だと思う。

 九頭龍は、八岐大蛇とともに神の世を崩壊させる役割を果たしてしまったのだ。

 ようやく九頭龍の姿を脱して、本来の神の姿に立ち戻れるのだろうか?
 平成7(1995)年から私がやってきたことを信じるのみだ。

◆ 九頭龍に関わる主要な神社は以下のとおり。

✓ฺ 青森県の善知鳥神社(うとう)
✓ฺ 新潟県糸魚川市の能生白山神社
✓ฺ 新潟県妙高市の関山神社
✓ฺ 長野県戸隠の九頭龍神社
✓ฺ 福井県平泉寺白山神社に伝わる九頭龍
✓ฺ 滋賀県大津市の三井寺の九頭龍
✓ฺ 箱根の九頭龍神社本宮
✓ฺ 奈良県桜井市倉橋の九頭神社(女神とする)九頭龍神社(男神とする)

 思えば、神社周りの初めから九頭龍には関わってきたような気がする。

 これで一段落することができるだろうか。

 平成23年8月16日(火)九頭神社(女神とする)の小さい磐座の前に立った。

 祝詞を奏上するのは小学校3年(8歳)の光宮(みや)だ。
 光宮(みや)の生まれを考慮して、夏休みに入ってから祝詞奏上の練習をしてきたのだ。
 平成23(2011)年7月11日(月)にみた「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」が、小さい磐座を種にして揺らいでいるかのようである。
 何も変哲もないこの場所が核心的な場所だったようだ。
 次、神山鉄工所の西側にある九頭龍神社(男神とする)でも光宮(みや)が祝詞を奏上した。
 すると、九頭神社(女神とする)の小さい磐座に、平成23年8月13日(土)の旅行に出発する日の朝、美穂が夢の話として語り絵で書いてくれた「なまず」が浮かび上がってきた。
 この「なまず」が、平成23(2011)年7月11日(月)にみた「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」と深く関わりがあるということらしい。

     美穂が夢で見た大なまず

 また、平成23(2011)年7月11日(月)にみた「黒くて細いワカメ」のような「黒い筋のような根」が襲い掛かっていった二重連星というのは、桜井市の鳥見山と宇陀市の鳥見山とも深く関わりがあるらしい。

 この「なまず」が浮かび上がってきたのを受けて、2つの神社で私が祝詞を奏上しなおした。

 「なまず」といえば、鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の武甕槌大神が要石によって大鯰を封じ込めるという姿が有名である。
 しかし、今年の研究で判ったことは、「なまず」で象徴されているのは、「白人(しらひと)」であり、シリウス星の霊脈であるということだった。
 シリウス系の霊脈や「白人(しらひと)」を鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の武甕槌大神が要石で封じている、という理屈になるらしい。

 奈良県にあっては、春日大社と若草山で封じているといっていいものかもしれない。

✓ฺ 平成23(2011)年2月1日(火)、西側の崖下で歯が周りについた大きな口。
✓ฺ 平成23(2011)年7月5日(火)白人(しらひと)とはシリウス星の霊脈、和歌山でM5.5。
✓ฺ 平成23(2011)年8月2日(火)、シリウス神話を伝えるドゴン族の描く「なまず」の姿のノンモ。
           ( → 引用先はこちら
           シリウス神話を伝えるドゴン族の描くナマズの姿のノンモ

✓ฺ 平成23年8月13日(土)の旅行に出発する日の朝、美穂が夢の話として語り絵で書いてくれた「なまず」

第32代 崇峻天皇陵 奈良県桜井市大字倉橋
 現在、第32代崇峻天皇陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」は桜井市倉橋にある。
 同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として1889年(明治22年)に決定したという。
 1876年(明治9年)、治定、改修あり。

 ただし、第32代崇峻天皇陵決定の根拠としては乏しい。

 近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。
 同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。
 また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されている。

← 日程表のトップに戻る

【3ヶ所】平成23(2011)年8月17日(水)、宇陀市の鳥見山の鳥見社から八咫烏神社・・

宇陀市の鳥見社 奈良県宇陀市榛原区萩原鳥見山公園
鳥見山公園の霊畤(まつりのには)旧跡 奈良県宇陀市榛原区萩原鳥見山公園
 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀された「下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とあるのは、「神武天皇大和進入」の推定では、宇陀市の「墨坂伝承地」にあたる。
 「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が現在の宇陀市鳥見山公園内にある「鳥見社」に当たるのであろう。
 神武天皇即位の大礼のとき、星の使いをされた天富命が、祭主になっている。
 天富命が祭主になっていることから、宇陀市というのは、「星の使い」に深く関わる土地である、と示したかったのかもしれない。
 第10代祟神天皇のとき、「下小野榛原(しもつおのはりはら)」に相当していた宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、宇陀市の墨坂神社に祀りかえられた。
 第10代祟神天皇のとき、宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、天富命の住居であった宇陀市の墨坂神社に祀りかえられたとき、「鳥見社」にあった「上小野榛原(かみつおのはりはら)」もどこかに祀りかえられたのかもしれない。
 大田種子の記述に従えば、上のようになると思う。

 参考→ 【旅行記録のページ】桜井市の鳥見山

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P269-270 )
四穂(よほ)二月(きさら) ネウエのキナエ 天鈴61年(神武即位4年)2月
勅(みことのり) 「御祖(みをや)の神(かみ)の 神武天皇の父・鵜葺屋葺不合尊のこと
都鳥(みやこどり) わが身(み)お照(て)らし  
仇(あだ)平(む)けて みな治(をさ)むゆえ  
天富(あめとみ)に 賀茂社(かも)お遷(うつ)させ  太玉命の孫に当たる天富命は、神武天皇即位の大礼のとき、三種の神器の受け渡しのとき、道臣命(日の使い)・天田根命(月の使い)とともに、「星の使い」となった。
 現・墨坂神社のある天野の地が天富命の邸跡とも伝えられていることを鑑みると、天富命は、現在の墨坂神社のある地に住んで、京都から遷座された賀茂社を鳥見の山中に設け(霊畤)、鵜葺屋葺不合尊(御祖神)を祀られたのだろう。
 この後、天富命は阿波忌部を率いて千葉県館山市の安房神社のある地に渡り、東国開拓に着手された。
 千葉県に神武天皇の母・玉依姫が祀られているところが多く、鳥見神社が多いのは、神武即位4年に天富命が宇陀市鳥見山(霊畤)で御祖神を祀られた記憶が多大に影響しているのだと思う。
御祖神(みをやかみ) 祭(まつ)る榛原(はりはら)  
鳥見山(とりみやま) 天田根(あたね)お賀茂(かも)の  
建祗命(たけすみ)の 祭(まつ)り嗣(つ)がせて  
国造(くにつこ)ぞ」 正月(むつき)十一日(そひか)は 天鈴62年(神武即位5年)
県主(あがた)召(め)し 神酒(みき)お賜(たま)はる  
初(はじ)めなるかな    

 平成23年8月17日(水)宇陀市の鳥見社で祝詞の奏上。

 祝詞の奏上を終え、帰ろうとすると、
「そなたは何を望むのじゃ」
 と尋ねられた。
 昨日桜井市の鳥見山頂上にある霊畤(まつりのには)で尋ねられたのと同じだった。
 昨日と同じように、声をだして答えた。
「これまでは、かなり無理を承知でやってきた。精神的にも経済的にもかなりハードだったと思う」
「まず、人として生まれたからには、人としての幸せを感じて生きていけるような生活を送りたい」
「次に、伊勢神宮の第62回式年遷宮に仕事として関われるようになりたい」
「神事(かみごと)で得たお金で自分がやりたいことをやる」
「ウェールズが予言的に遺した東京ソーシャルカレッジをつくることも私の課題だと思う」
「次の時代の政治や文化の指導者を養成する学校を作りたい」
八咫烏神社 奈良県宇陀市榛原区高塚字八咫烏42
 平成21(2009)年3月8日(日)室生寺で祝詞を奏上しているとき、
「そなたの苦労を見るに忍びないので、立ち寄っていかれよ」
 と八咫烏命にお言葉をかけていただいた。
 そのとき、お言葉に甘えて、宇陀市の八咫烏神社に立ち寄らさせていただいている。
 影ながらでも守護に入ってくれている神霊が多数居られることを知って、苦労であっても何とかここまでやってくることが出来た。
 今回は、お礼と報告を兼ねて参拝しておきたいと思う。
 奈良を立つ直前に参拝する。

 平成23年8月17日(水)にお礼参り。

 八咫烏命からのお言葉。
「あっぱれであった」
「ここにはもう一度訪ねてくることになるだろう」

 八咫烏命の言葉を聞いて、宇陀市と鳥見山はパウリの宇宙時計で表象される土地だと思った。

 桜井市の鳥見山とは違って、宇陀市と宇陀市の鳥見山は宇宙の星雲地図が表象される地域になっているような気がする。
 宇宙の星雲地図のなかで、八咫烏命の働きを捉えなおすときがやってくるのかもしれない。
 これは、神武天皇の時とは違う次元での物語りなのだろう。

パウリの宇宙時計

← 日程表のトップに戻る

【2ヶ所】2011年8月17日(水)三重県亀山市田村町の能褒野御墓・能褒野神社・・

能褒野王塚古墳(のぼの) 三重県亀山市田村町
能褒野神社(のぼの) 三重県亀山市田村町
 三重県亀山市の能褒野王塚古墳(のぼの)で日本武尊は神上がられ、御棺のなかに冠・笏・御衣裳を残して白鳳(しらいとり)となって西に飛び立って行ったという。
 白鳳(しらいとり)の行方を追うと、日本武尊琴引原白鳥陵(御所市)のところに尾羽を四つ枝に置き、旧市の日本武尊陵(羽曳野市)にも四つの羽を残してあったと、大田種子は記録している。

 平成23年8月17日(水)能褒野神社(のぼの)を参拝して旅行の行程は終了。

 祝詞の奏上を終えると、
「そちは何を望むのじゃ」
 と尋ねられた。
 昨日も桜井市の鳥見山頂上にある霊畤(まつりのには)で尋ねられ、今日も宇陀市の鳥見社で尋ねられた。
 同じように、声をだして答えた。
「これまでは、かなり無理を承知でやってきた。精神的にも経済的にもかなりハードだったと思う」
「まず、人として生まれたからには、人としての幸せを感じて生きていけるような生活を送りたい」
「次に、伊勢神宮の第62回式年遷宮に仕事として関われるようになりたい」
「神事(かみごと)で得たお金で自分がやりたいことをやる」
「ウェールズが予言的に遺した東京ソーシャルカレッジをつくることも私の課題だと思う」
「次の時代の政治や文化の指導者を養成する学校を作りたい」


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )  

国魂神社(津市) 三重県津市西古河町23-16
香良洲神社(津市) 三重県津市香良洲町3675-1

 平成23年8月17日(水)、女房のお墓参りとお礼参り。

  平成8(1996)年6月11日(火)、女房の実家に近い國魂神社に立ち寄り祝詞を奏上すると、國魂神社(津市)から各地に伝令が発せられていった。

 伝令は、

「国常立大神、鎮座まします、国常立大神、鎮座まします、・・・」
 といっていたのです。

 「 鎮座は六月の十日であるぞ。」

 ということで鎮座されるのは国常立大神であることを知ったわけですが、どの規模での鎮座かは、1996年子の年から10年経た2006年に知ることになります。

 國魂神社(津市)には、とても感謝しています。

 今回もお礼参りです。

 平成23年8月17日(水)、女房のお墓参りを済ませ、香良洲神社(津市)に参拝。

 香良洲神社(津市)のご祭神・稚日女尊は、天照皇大御神の妹神で、ビックバーン以前の宇宙の主宰紳であられました。
 前宇宙のビックバーンという宇宙的大惨事を繰り返すことなく、神々が伊勢の大神の指導下でご活動できるようにという願いをいつも込めます。

 ここでも小学校3年(8歳)の光宮(みや)の祝詞奏上。

 光宮(みや)が祝詞を奏上していると、
「やり遂げられたのですね」
「やり遂げていただけたのですね」
 ご祭神・稚日女尊の言葉だと思う。

← 日程表のトップに戻る

平成23(2011)年8月14-17日(日-水)の旅行で行けなかったところ、調査する中で調べた箇所

【3ヶ所】2011年8月14日(日)石切神社(上の社)裏山の宮山、「厄山」と「国見山」

哮峯

宮山にある石切神社の元宮
大阪府東大阪市上石切町2丁目
 ◆ 平成23(2011)年7月23日(土)、天之火之明命の御陵は生駒山周辺にはなかったと気づいた。
 天之火之明命の御陵は、長い間探していた場所だった。
 昨日の平成23(2011)年7月22日(金)石切神社(上の社)登美霊社婦道神社宮山の関係を追って、ようやく気付いた。
 神武天皇が祀られたとされる桜井市の鳥見山中霊畤顕彰碑(とみのやまのなかのまつりのには)が鍵だったのだ。

 平成23(2011)年7月23日(土)の朝起きて天之火之明命が神上がられた場所(御陵)が特定ができた。

 ◆引用先:http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/shinwa04.html
 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。
 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。

 ◆引用先:http://blog.goo.ne.jp/reizan2007/e/a4fb25ec8125837b6b018a697bc7d057/?ymd=200905&st=0
 石切神社上之社の背後にある「宮山」山中には、ニギハヤヒとウマシマジを祀ったとされる「元宮」の地があります。
 上之社から一旦歩道にでて、辻子谷ハイキングコースとなっている住宅地や漢方薬工場の立ち並ぶ急なコンクリートの坂道を辿る。
 道の脇には幾多の石仏がたてられていて、夜泣き地蔵さんを過ぎたあたりで左に分岐して山道に入る。
 神社の方や、地域の方から「けもの道ですよ」と聞いていたが踏み跡はきれいについている。

「厄山」と刻まれた石碑 大阪府東大阪市善根寺町1丁目山中
http://yanase.blog.eonet.jp/default/2008/11/index.html
http://urano.org/kankou/ikoma/ikoma06.html
http://xamin.blog129.fc2.com/blog-entry-1.html
「厄山」と刻まれた石碑

「国見山」という石の塊 大阪府東大阪市善根寺町1丁目山中
◆ 第21代雄略天皇が国見をされた「国見山」と言われる石の塊
 第一次天孫降臨のとき、天之火之明尊の斑鳩宮(哮峰)を築かれたのは、紀元前1,552,847年のこと。
 この時、天之火之明尊も第21代雄略天皇のように国見をされたかもしれない。
 天之火之明尊が崩御され、饒速日尊の時代に移ったとき、この「国見山」が天之火之明尊を象徴するものであった可能性も否定できない。

◆ 引用先:以下は「草香山と饒速日山について」から

 この日下之直越道は、生駒山の最高所の稜線を走る信貴生駒スカイラインとこれに並行する縦走路を、横断(通称灯籠ゲート386m)して山越えする古道で、もとは生駒市側の田原あるいは宝山寺〜南生駒方面に通じていたものです。
 灯籠ゲートの西には、平坦で広い谷間があって、直越道はこの谷に上がってきます。
 ここには高圧線の鉄塔が建ち、古くは「国見山」と呼ばれた山塊(410m)があり、西方の河内平野〜大阪湾まで一望できる見晴しのいい所で、雄略天皇が国見あるいは歌を詠んだ場所と伝えています。
 また、峠に当たる灯籠ゲートから南に続く峯は、「哮峯(たけるがみね)」と呼ばれ、巨岩の露頭には注連縄が張られていたと言われます。
 周辺の峯〜さらに南に高く続いていく峯は、地元では「草香山」あるいは「饒速日山(にぎはやひやま)」と呼ばれていたようで、縦走路を少し南へ行き、スカイライン料金所の南西に位置する平坦な稜線上には、、物部氏の祖神である饒速日命の祭祀と関連するかも知れない巨大な石造物=磐座を最近発見しております(生駒山北嶺上の巨石遺構)。

燈籠ゲート南側の
「哮ノ峯(生駒山の北麓)」
大阪府東大阪市善根寺町
 紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨のとき、天之火之明尊の斑鳩宮(哮峯)が置かれたのだろうか。

 「草香山と饒速日山」からの引用

生駒山北嶺上の巨石遺構  生駒山の分水嶺を南北に通じる生駒縦走路と西側日下方面から上ってくる伝日下直越道との合流ポイントは「灯籠ゲート」と呼ばれ、すぐ東側を縦走路に沿うように信貴生駒スカイラインが走っています。
 縦走路を少し南に行くと稜線沿いには巨岩の露頭が点在し、一きわ高いこの山塊は、戦前には「哮ヶ峯(たけるがみね)」と呼ばれており、注連縄の掛けられた巨岩を西側から行者の拝む姿がみられたといいます。

← 日程表のトップに戻る

【3ヶ所】2011年8月15日(日)讃岐神社、第10代祟神天皇のときの大坂山口神社・・

讃岐神社(さぬきじんじゃ) 奈良県北葛城郡広陵町三吉328
 「かぐや姫」伝承の里。

 『竹取物語』大人の目で読み直すと、これが結構面白い。

 → 『竹取物語』原文はこちら

 「姫」は月の世界で罪を犯したので、罪を祓うために「地球」に落とされたこと。
 月の世界の衣を着ると、地球の感覚ではなくなること。
 月の食べ物(宇宙食)があるといっていること。
 最先端の科学を、数式を用いずに語るとこういう語り口調になるのではなかろうか?
 となると
 奈良県の光陵町の竹林には、最先端の科学を受けられる、土壌があったりして・・
 夢か幻か、科学か御伽噺か。

 『竹取物語』原文はこちら

 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。
 野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり。
 名をば、さぬきの造となむいひける。
 その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。
 怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。
 それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
 翁、言ふやう、
 「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。
  子となり給ふべき人なめり。」
 とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。
 妻の嫗に預けて養はす。
 うつくしきこと限りなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。
 竹取の翁、竹を取るに、この子を見付けて後に竹取るに、
 節を隔てて、よごとに金ある竹を見付くること、重なりぬ。
 かくて、翁、やうやう豊かになりゆく。
 この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。

 → 『竹取物語』原文はこちら

(穴虫)大坂山口神社 奈良県香芝市穴虫
 (穴虫)大坂山口神社
祭神
大山祇命、須佐之男命、天兒屋根命
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/ausaka2.html
 日本書紀崇神天皇九年三月(380)、国中に疫病が蔓延したため天皇はいたく悩まれていた時ある夜、夢に神人が現われて、
「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀り、黒盾八枚、黒矛八竿をもって大坂の神を祀れ」
 と告げたので、天皇はその教えどおりに祀られたところ、たちどころに疫病は平癒し天下泰平となったとある。
 ここでいう「大坂の神」とは北葛城郡香芝町穴虫の当社、大坂山口神社の祭神といわれる。
●「大坂の神」とは、穴虫の当社ではなく、「逢坂」の山口神社だとする説、又、そのいずれでもないという説もあるという。

(逢坂)大坂山口神社 奈良県香芝市逢坂
 (逢坂)大坂山口神社
大山祇命、須佐之男命、稻倉魂命
または大山祇命、須佐之男命、神大市姫命
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/ausaka2.html
 坂集落西部に鎮座。寛永十五年(1638)の棟札によれば牛頭天王社と称し、明治期の「神社明細帳」には祭神天児屋根命・建速須佐之男命・稲倉魂命とあるが、延喜式神名帳葛下郡の「大坂山口神社大 月次新嘗」にあたるとして祭神も大山祇命とする。
 式内社については香芝市穴虫の大坂山口神社とする説が多く、度会延経「神名帳考証」のみが当社をあてる。
●「大坂の神」とは、「逢坂」の山口神社だとする説、又、そのいずれでもないという説もあるという。

http://kamnavi.jp/as/katuragi/oskyama2.htm
日本の射日神話
 第11代垂仁天皇のとき、九つの日輪が出たことがあった。
 そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。
 このカラスは地上から八町(872m)上にある。
 射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。
 これが日本における梯子のはじめである。
 時は第11代垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。
 天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。
 こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。
 それからひゅうがとは日に向うと書くのである。
 その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。
 長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像郎が一体入っていた。
 そこで八つの玉を
 一つは尾張国熱田の社に、
 一つは伊勢の外宮に、
 一つは紀伊国日前宮に、
 一つは信濃国諏訪社に、
 一つは豊前国宇佐八幡宮に、
 一つは逢坂関明神に、
 一つは摂津国住吉社に、
 一つは帝の御宝蔵に収められた。
 例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。
  正徳五年(1715)『広益俗説弁』肥後の学者 幡竜子   以上
 (※)逢坂関明神 当社のことと思われる。

← 日程表のトップに戻る
桜井茶臼山古墳 奈良県桜井市外山
 地元では、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」の墓ではないかとか、あるいは、「長髄彦(ながすねひこ)」の墓ではないかとか伝えているといいます。
 埋葬品などから「ヤマト王権」とのつながりの深い「王者の墓」の風格をもっているといいます。

赤坂天王山古墳 奈良県桜井市倉橋2464
 多武峰から北西に延びる尾根の先端に築かれた大方墳。
 本古墳は、墳丘や石室・石棺の実測庁が行われているが、発掘調査が実施されていないために出土品は明らかでなく、石棺内部も盗掘によって遺物も残されていないが、石室構造や石棺の形式などから築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られている。
 『日本書紀』に崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていた。
 歴史学者・考古学者の間では、今なお本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )  

← 日程表のトップに戻る

【3ヶ所】2011年8月16日(火)に宇陀市で行ききれなかったところ・・

三輪山から大和三山

 宇太水分神社は、芳野(ほうの)川上流より、
  上芳野の水分ーーー童躰、
  古市場の水分ーーー男神、
  下井足の水分ーーー女躰、
  とされている。
 古く古市場あたりで水銀が採取され、化粧品として女神に贈られ、そのお礼を込めたのが、上社に復活した御輿渡御ともいわれる。

惣社宇陀水分神社(上社)
(そうしゃ うだみくまり)
奈良県宇陀市菟田野町上芳野648
「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると「童躰」とされている。
 当社は水分神が高見山から古市場に影向される途中、此処に一時止どまられた由縁によつて創祀されたものらしい(『式内社調査報告』)。
 高見山の山頂には高角神社(たかつの)があり、神武天皇を導かれた八咫烏命を祀られている。

  御祭神

  天水分神
  国水分神
  速秋津比古命
  天之児屋根命
  譽田別命
  他数

宇陀水分神社(中社) 奈良県宇陀市菟田野古市場244-3

 宇陀水分神社(中社)平成12(2000)8月2日(水)にも参拝している。

 前回の平成12(2000)8月2日(水)に参拝し、参拝を終えてから芳野川を右手にみて丹生川上神社中社に向けて車を走らせるとすぐ、急に悲しみの感情が襲ってきた。
 平成12(2000)8月2日(水)当時、芳野川の向かい側に何かある、と深く記憶に留めた。
 平成21(2009)年に奈良県を周ったとき、芳野川の向かいに神武天皇穿邑顕彰碑があるように宇陀市の中でも激戦地の一つだった、と知った。
 深い悲しみの根源は、その地にあったのだ。

◆「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると宇陀水分神社(中社)は、「男躰」とされている。

 古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、大和の東西南北に祀られた水分のうち東に当たるのが中社とされる。

  御祭神

第一殿天水分神 (あめのみくまりのかみ)
第二殿速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
第三殿国水分神 (くにのみくまりのかみ) 

宇陀水分神社(下社) 奈良県宇陀市榛原下井足635
「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると「女躰」とされている。

  御祭神

  天水分神
  国水分神
  速秋津比古命
  天之児屋根命
  譽田別命
  他数

 宇太水分神社(下社)は、所伝によれば第10代崇神天皇15年9月21日勅祭云々とされている。
 延喜式神明帳では、当水分社は葛城、都祁、吉野水分と共に大和の四水分の大社とされていたが、応保年間(1160年)頃より芳野川にそって三所三座(当社の下井足・古市場社・芳野社)に祀られている。
 「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると、 玉岡(古市場)水分は男躰、田山(井足)水分は女躰、中山(芳野)水分は童躰とあって、 かって祭礼には、中山水分から田山水分まで神輿の御渡があったと、伝えられている。
 明治の始め頃までは、本殿を始め、附属の建物はすべて古い形式で(春日造)であったが、明治11年、神社形式令により県社の指定を受け現在の神明造りになっている。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 子守神の第14男に宇陀水分命がおられる。
 この3つの「宇陀水分神社」のどれかが、子守神の第14男の宇陀水分命と推測できると思うのだが、ハッキリしない。
 ここでは指摘だけに留めて置く。
 子守神の第14男の宇陀水分命が祭主となって、天水分神・国水分神・速秋津比古命を祀られたのだろうか?

子守神の御子たち

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

← 日程表のトップに戻る