日本武尊の御陵を祀る能褒野神社(のぼの)【1】トップページ|三重県

『いつもNAVI』のロゴ
三重県亀山市田村町( いつもNAVIによる広域地図
 ⇒ 公式サイトはこちらです。

 平成23(2011)年8月17日(水)、三重県の能褒野

能褒野神社能褒野王塚古墳(のぼの)

亀山市の能褒野神社(のぼの)トップページ

参拝履歴

亀山市の能褒野神社(のぼの)

準備中

亀山市の能褒野神社(のぼの)の拝殿

亀山市の能褒野神社(のぼの)

ご祭神

日本大国魂大神
八千戈大神
御年大神

亀山市の能褒野神社(のぼの)の本殿

亀山市の能褒野神社(のぼの)

【2】息吹神の大蛇、日本武尊の能褒野での神上がり

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P586-591 )
日本武尊(やまとたけ) 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
あるお聞(き)き 剣(つるぎ)解(と)き置(お)き  
軽(かろ)んじて 行(ゆ)き過(す)ぐ道(みち)に  
息吹神(いぶきかみ) 大蛇(をおろち)なして 息吹山の神であろうか
横(よこ)たわる 神(かみ)とは知(し)らず  
日本武尊(やまとたけ) 大蛇(をおろち)に曰(いわ)く  
「これ汝(なんじ) あれかた神(かみ)の 「あれかた」おおよそ、あらかた、の義
使(つか)ひなり あに求(もと)むるに  
足(た)らんや」と 踏(ふ)み越(こ)え行(ゆ)けば  
息吹神(いぶきかみ) 氷立(つらら)降(ふ)らして  
光(か)お奪(うば)ふ 強(し)いて凌(しの)ぎて  
押(お)し歩(あゆ)み わずか出(い)で行(ゆ)く  
心(こころ)酔(ゑ)ひ 燃(も)ゆるごとくに  
熱(あつ)ければ 泉(いずみ)に冷(さ)ます  
醒泉(さめがゐ)や 御足(みあし)痛(いた)むお 滋賀県坂田郡米原町に「醒井」の地名がある
やや悟(さと)り 尾張(おはり)に帰(かえ)り  
宮簀姫(みやづめ)の 家(ゐゑ)に入(い)らずて  
伊勢(いせ)の道(みち) 尾津(おづ)の一松(ひとまつ)  『倭名類聚鈔』に伊勢国桑名郡尾津郷がみえ、『延喜式』に尾津神社が載る。
 現在の三重県桑名郡多度度町戸津か
これ昔(むかし) 秀真(ほつま)下(くだ)りの  
御饗時(みあえどき) 解(と)き置(お)く剣(つるぎ)  
松(まつ)の根(ね)に 置(お)き忘(わす)れしが  
永(なが)らえり 故(かれ)に挙(あ)げ歌(うた)  
置忘(おわす)れど 直(ただ)に迎(むか)える  
一(ひと)つ松(まつ) あはれ一松(ひとまつ)  
人(ひと)にせば 衣(きぬ)着(き)せましお  
太刀(たち)佩(は)けましお 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
いささに 慰(なぐさ)み行(ゆ)けど  
足(あし)痛(いた)み 三重(みゑ)に曲(まが)れば  
三重村(みゑむら)ぞ 杖突(つえつ)き坂(さか)も  
やや越(こ)えて 能褒野(のぼの)に痛(いた)み  三重県鈴鹿市地方から、鈴鹿郡鈴峰村、亀山市東部にかけての野。
 能褒野王塚古墳(のぼの)能褒野神社(のぼの)がある。
重(おも)ければ 虜(とりこ)五人(ゐたり)お  
宇治(うじ)に遣(や)り 大鹿島命(かしまみこと)の  
添(そ)え人(びと)ぞ 吉備武彦命(きびたけひこ)は  
都路(みやこぢ)え 上(のぼ)せ申(もふ)さく  
「その文(ふみ)に 『花彦(はなひこ)申(もふ)す  
臣(しん)六人(むたり) 勅(みこと)お受(う)けて  
秀真(ほつま)討(う)ち 天(あめ)の恵(めぐ)みと  
厳(いづ)により 荒(あら)ぶる神(かみ)も  
服(まつろ)えば 悉(ふつ)く治(をさ)めて  
今(いま)ここに 帰(かえ)れば命(いのち)  
夕(ゆふ)尽(つ)く日(ひ) 請(こ)い願(ねが)わくば  
いつの日(ひ)か 勅(みこと)返(かえ)さん  
野(の)に伏(ふ)して 誰(だれ)と語(かた)らん  
惜(おし)むらく 真見(まみ)ゑぬことよ  
天(あめ)の宣(のり)かな』    
文(ふみ)止(と)めて 君(きみ)曰(のたまわ)く『われ  
東西(きつ)お平(む)け 事成(ことな)れば身(み)お  
亡(ほろ)ぼせる 彼(かれ)ら休(やす)ます  
日(ひ)も無(な)き』と 七掬脛(なつかはぎ)して  
花(はな)降(ふり)お みな分(わ)け賜(たま)ひ  
歌(うた)詠(よ)めば 熱田(あつた)の神(かみ)と  
早(はや)成(な)ると 斎浴(ゆあ)み衣(は)お替(か)え  
南(さ)に向(むか)ひ 人身(ひとみ)辞(いな)むの  
歌(うた)はこれぞと    
熱田宣(あつたの)り    
辞(いな)むとき 東西(きつ)の鹿路(しかじ)と 「鹿路」天皇の命を受けた勅使として歩んだ道
親(たらちね)に 仕(つか)え満(み)てねど  
精奇城(さこくしろ) 神(かみ)の八手(やて)より  天上高天原の精奇城宮に鎮座する、トホカミヱヒタメ八神の八つの手に他ならない。
道(みち)受(う)けて 生(う)まれ楽(たの)しむ  
帰途(かえさ)にも 誘(いざな)ひ千鳥(ちど)る  
懸橋(かけはし)お 登(のぼ)り霞(かすみ)の  
楽(たの)しみの 雲居(くもゐ)に待(ま)つと  
人(ひと)に答(こた)えん    
百度(もも)歌(うた)ひ ながら目(め)お閉(と)ぢ  
神(かみ)となる なす事(こと)なくて  
営(いとな)みす」 歌(うた)は尾張(おはり)え  
吉備命(きび)上(のぼ)り 文(ふみ)捧(ささ)ぐれば  
天皇(すべらぎ)は 心(ゐ)も安(やす)からす  
味(あぢ)あらず ひねもす嘆(なげ)き  
曰(のたまわ)く 「昔(むかし)熊襲(くまそ)が  
背(そむ)きしも また総角(あげまき)に  
平(む)け得(ゑ)たり 真手(まて)に侍(はべ)りて  
助(たす)けしに 秀真国(ほつま)お討(う)たす  
人(ひと)無(な)きお 忍(しの)びて仇(あだ)に  
入(い)らしめば 明(あ)け暮(くれ)帰(かえ)る  
日(ひ)お待(ま)つに こはそも何(なん)の  
災(わざわ)ひぞ 縁(ゆぐり)も無(な)くて  
あから召(め)す 誰(だれ)臣業(とみわざ)お 「あから」急に
治(をさ)めんや」 諸(もろ)に宣(のり)して  
神(かみ)送(おく)り    

【3】白鳳(しらいとり)と化した日本武尊

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P591-592 )
  時におもむろ  
化(な)る鳳(いとり) 出(い)づれば諸(もろ)と  
御陵(みささぎ)の 御棺(みひつ)お見(み)れば  
冠(かんむり)と 笏(さく)と御衣裳(みはも)と  
留(とど)まりて 空(むな)しき抜殻(から)の  
白鳳(しらいとり) 追(お)ひ尋(たづ)ぬれば  
大和国(やまとくに) 琴弾(ことひ)き原に  奈良県御所市冨田に白鳥御陵がある。
 日本武尊琴引原白鳥陵
尾羽四(おはよ)枝(えだ) 置(お)きて河内(かわち)の  
旧市(ふるいち)に また四羽(よは)落(お)つる  日本武尊陵(羽曳野市)
そこここに なす御陵(みささぎ)の  
白鳳(しらとり)も つひに雲居(くもゐ)に  
飛(と)び上(あ)がる 尾羽(おは)はあたかも  
神の世の 世箒花(よはきし)ぞこれ  小笠原通當の『神代巻秀真政伝』は「ヨハキシ」を紙花のこととする。
 「ヨハキシ」は「世掃き紙垂」の略で、祓に用いる切麻のことではなかろうか。
 白い鳳の羽があたりに落ちた様相が、あたかも神上がる前に白い切麻で周囲を祓っているようだったのであろう。
 切麻は麻を短く切ったものに五分角ぐらいの白紙を混ぜて用いる。
 別称、小麻。
 また原文の「ヨハキシゾ」は「世は来しぞ」ともとれる。
 二つのことを掛けていっているのかもしれない。
東西(きつ)もみな 治(た)せば罷(まか)れる  
天法(あめのり)ぞ    

亀山市の能褒野神社(のぼの)の周辺地図