紀元前1,552,847年、天之火之明尊の斑鳩宮(哮峰)【1】ここだけは紹介しておきたい!|大阪府

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紀元前1,552,847年、天之火之明尊が斑鳩宮に降臨(第一次天孫降臨)

 第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊が飛鳥治君に

石切剱箭神社(いしきりつるぎや)石切神社(上の社)
哮ノ峯(生駒山の北麓)饒速日山(日下山・草加山)生駒山磐舟神社 高貴寺

 65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊の養子として天下る。

哮ノ峯(磐船神社の北)磐船神社
一の矢が落ちたところ奇玉比古神社二の矢が落ちた三の矢が落ちたところ主人神社(ぬしと)
眞弓塚(かつての白庭山か?) | 「眞弓塚」という碑がある伊弉諾神社(眞弓山の長弓寺にある)
長弓寺の本殿善如竜王祠(眞弓塚の南にある) | 天忍穂耳神社生駒山口神社宝山寺の福徳神社
饒速日命墳墓桧窪山夫婦塚(御炊屋姫の墓という碑)王龍寺のトビ神社

斑鳩宮があったかもしれない哮峯

 紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨のとき、天之火之明尊(瓊々杵尊の兄)は、斑鳩宮を築かれている。
 この斑鳩宮がどこにあったかは不明であるが、生駒山に「哮峯」(いかるがのみね)という地名が残っている周辺が斑鳩宮の候補地として検討の余地があると思われる。
 哮峰の近くと思われる燈籠ゲートから「大阪府民の森」に入り、生駒山縦走路に足を踏み入れて祝詞の奏上をした。

 斑鳩宮は、生駒山麓公園の駐車場入口になっているところから燈籠ゲート周辺にあったような気がする。  

◇「哮峯」の位置について「いこまかんなびの杜」さんに質問させていただきました。
◇回答は次のようでした。(2009年8月18日 21時18分)

http://www.h7.dion.ne.jp/cgi-bin/ezboard/iko-kan/1/の[532]より  

 私にも詳しい位置はよくわかりません。
 周辺の磐座や祭祀跡など探求中・・で、裏付けが可能かどうかですね。
 地元資料にもとづけば、哮峯と呼ぶ峯は、生駒山北嶺の下記の周辺でしょうか。
 なお、生駒山北嶺の饒速日山と伝える所は、ここを含めた南方のなだらかな生駒北嶺斜面を指しているように思っています。
     (※)地図参照→ ゼンリン地図
 上町台地の北端あたりから見ると、春分秋分の日にはこの嶺あたりから太陽が上がってくる日の下の聖地と見ています。

哮峯の近くかも知れない燈籠ゲート

哮峯の近くかも知れない燈籠ゲート
哮峯の近くかも知れない燈籠ゲートから駐車場を撮影

「府民の森」のなかにある「くさか園地」

「府民の森」のなかにある「くさか園地」

 生駒山縦走歩道  

生駒山縦走路
生駒山縦走路


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 【地図】斑鳩宮があったらしい生駒山の哮峯   【地図】生駒山の哮峯にあった斑鳩宮

紀元前1,552,847年、天之火之明尊が斑鳩宮に降臨(第一次天孫降臨)

 生駒山周辺の難しさは、饒速日命(にぎはやひ)が天降る前に、天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が天降られており、饒速日命(にぎはやひ)と奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の伝承が混同しているところにある。
 紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨のとき、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊(あめのほのあかり)が天下られている。
 さらに、その65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊(あめのほのあかり)の養子として天下られている。
 瓊々杵尊の兄の名が奇玉火之明尊(くしたまほのあかり・飛鳥治君)、瓊々杵尊の長子の名が火明尊(ほあかり・ハラ治君)であることが、また別の混同を生んでいるようだ。
 火明尊(ほあかり・ハラ治君)の長子・国照宮が、奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の養子となって饒速日を名乗っていることも混同をいっそう激しいものにしてしまっている。

【系図】饒速日と天之火之明尊、瓊々杵尊

 整理すると・・  

 天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が天降ったことを、第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)といい、それから26万年後に瓊々杵尊が天降ったことを第二次天孫降臨(紀元前1,290,607年)と伝える。
 天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)に子がなく、香久山命の孫の田倉麿(高倉下)が養子に入ったがそのときの后である初瀬姫との折合が悪く、破談になった。
 奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が神上がられてから、田倉麿(高倉下)の父・田栗命(香久山命の子)が復縁交渉に当たったが決裂し、火明尊(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が饒速日(にぎはやひ)と名を改めて飛鳥宮に天降ることになった。
 第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)から65万年後紀元前898,627年過ぎのことである。

 第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)、奇玉火之明尊は生駒山の北麓にある哮ノ峯に天降られた  

 天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が天降った第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)は、おそらく生駒山の西側にある石切劔箭神社(いしきりつるぎや)・石切神社(上の社)の方向からであろう。
 創建された斑鳩宮(いかるがのみや)とは、おそらく生駒山の北麓の哮ノ峯(いかるがのみね)にあったのだと思う。
 ところが、奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)は斑鳩宮(いかるがのみや)創建の翌日、飛鳥宮創建の命を出した。
 太玉命が飛鳥宮創建の命(めい)に賛成され、大物主・奇彦命(エビス神ともいわれる)と天児屋根命は諌言されるとともに政務を退かれている。
 大物主・奇彦命(エビス神ともいわれる)と天児屋根命は宮から退かれたので、一度築かれた斑鳩宮(いかるがのみや)の宮跡を太玉命が守ることになった。
 そういう縁故があって、「長髄彦(太玉命の孫)の本拠地」と呼ばれるところが生駒市にあるのだ。

 【地図】第一次天孫降臨は生駒山の哮峰に・・  

【地図】生駒市の俯瞰図

 生駒山の北麓の哮ノ峯(いかるがのみね)の次に、高貴寺のある磐舟神社 に天降る  

 天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)は、斑鳩宮(いかるがのみや)の次の飛鳥宮に遷るために、高貴寺近くの磐舟神社 に再度天降られた。
 このことが、
「河内国哮峯(いかるがのみね)とは今の天降高貴寺大阪府南河内郡河南町平石539)なるべし」
 という伝承を生んだのだろう。
 太玉命は飛鳥宮を支えるために奈良県葛城市竹内に住居を定めた。
 その住居は長髄彦の墳墓と伝わる鍋塚(なべづか)近辺だったのだろう。
 神武天皇は反乱軍を鎮圧していったとき、反乱軍の大将の主たる土地に宮を祀ってきている。
 このことから、飛鳥宮を支えた太玉命の拠点は、長髄彦の墳墓と伝わる鍋塚(なべつか)古墳の近辺と類推できるだろう。

 【地図】大和川南側から葛城周辺の地図  

【地図】高貴寺と磐舟神社の地図
 しかし、飛鳥宮がどこにあったかは不明である。
 私には、甘樫丘(あまかしのおか)がとても気にかかっている。

 養子に入った国照宮は、磐船神社(大阪府交野市私市9丁目)の哮峰に天降られた  

  第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)から65万年後紀元前898,627年過ぎ、養子に入った国照宮(瓊々杵尊の子である火明尊の長子・改名して饒速日)は、磐船神社(大阪府交野市私市9丁目)の哮峰に天降られてから、宮を築くところを決めるため3本の矢を放った。
 その1本目の矢は「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)の南側に落ち、2本目の矢は「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)に落ち、3本目の矢は、「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)の北側に落ちた。

奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の御尊骸はどこに・・?

 国照宮(瓊々杵尊の子である火明尊の長子・改名して饒速日)は、宮を定めてから、白庭邑において奇玉火之明尊の喪祭りを長く行ったと『秀真伝(ほつまつたゑ)』は伝える。
(※)白庭山の比定地は2ヶ所ある
   国照宮(饒速日尊)が放った3本目の矢が落ちた所を 白庭山と呼んでいたらしい。

   さらに、長弓寺の北側にある眞弓塚白庭山と呼ばれていたらしい。  

 饒速日尊(国照宮)が喪祭りを長い間行ってきたのは、長弓寺の北側にある眞弓塚伊弉諾神社(眞弓山の長弓寺にある)においてだろう。

 長弓寺の本堂の境内  

長弓寺の本堂

 長弓寺の眞弓塚への地図  


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 天忍穂耳尊を別殿で祀る  

 饒速日命は、天之火之明尊の喪祭りのとき、奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の父である天忍穂耳尊(あめのおしほのみみ)を別殿で祭られたのだ。
 それが、「神武天皇聖蹟 鵄邑(とびむら)顕彰碑」の北側にある天忍穂耳神社であったろう。

 喪祭りをシッカリと行える饒速日命(国照宮)なのだ、奇玉火之明尊の御尊骸は必ずどこかに納めている。  

 天之児屋根命の御尊骸が枚岡神社に納められたことを勘案すると、生駒山西麓にある石切神社(上の社)に御尊骸を移し祀られたのではないか、と推測することができる。
 奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が生駒山北麓の哮峯に天降られたのは、その場所でやり遂げなければならない課題があったからだ。

 生駒山は神代史にとって、抜き差しならないほどの重要な場所だったのだろう。  

 今の私がこういう推測をするにあたって『秀真伝(ほつまつたゑ)』を紐解いているのと同じように、神武天皇も石切剱箭神社(いしきりつるぎや)石切神社(上の社)を創建されるさいに、『秀真伝(ほつまつたゑ)』を初めとするとても重要な古文献を元にされたはずだ、と推測することは極めて自然なことだ。