瓊々杵尊の第二次天孫降臨【1】ここだけは紹介しておきたい!|瓊々杵尊

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第二次天孫降臨のポイント

第二次天孫降臨を追うキッカケになったのは・・

 平成21(2009)年は、平成7(1995)年- 平成8(1996)年に匹敵する年だ。
 平成21(2009)年2月14-15日(土曜日・日曜日)に奈良県の天香久山に登ってから、また日本各地を激しく回り始めるようになった。

 平成21(2009)年6月28日(日曜日)は、奈良の平群大和にいたのだが、

「第二次天孫降臨じゃ・・」
 という言葉を聞きながら目覚めた。

 目覚める時の言葉は紛れがなくて解かりやすい。

 第二次天孫降臨の跡を追え、ということなのだ。

 瓊々杵尊の第二次天孫降臨には9つのポイントがある

 ポイント1

 朝日神(豊受神)を祀る朝日宮(京都府加佐郡にある豊受神社)に幣帛を納める。
 紀元前1,710,404年、天照神は豊受神が神上がられると、朝日宮を造営し、しばらく御親ら細矛千足の国(山陰地方のこと〜大祓祝詞の底之国のこと)の政治を聞し召されている。
 瓊々杵尊は「白山の峰巡り」をする前に、朝日宮(京都府加佐郡にある豊受神社)に幣帛を納めに行かれている。
 ここに、「白山の峰巡り」には「天照神の細矛千足の国の行幸」に類似する「何か大切なもの」を感じる。

 ポイント2

 コヱの根の国に着き、白山峰を見巡った。
 白山宮で、梅の花のもと御饗が催されここで、を折りかざした。

 ちなみに私の家の家紋は「丸に梅鉢」でに関係する。

 ポイント3

 を折りかざし、高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)に至った
 高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)でもよしと折かざす。

 ポイント4

 滋賀県高島郡高島町に鵜川(高島市鵜川)という地名があり、この辺りで猿田彦命に出会う。
 瓊々杵尊は、  鵜川宮で取った「卯の花」を折りかざしてまた進み行く。

 ポイント5

 鵜川宮で取った「卯の花」が枯れたのはどこだろうか?
 兔が神の使いである三尾神社の赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えているので「卯(う)の花」と関連があるかもしれない。
 このことから類推して、鵜川の宮で採った卯(う)の花が散った場所は、大津市園城寺町にある三尾神社のある辺り(大津シノ宮)なのだろう。

 ポイント6

 滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山の三尾の土を積んで三上山を造った。
 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
 瑞穂宮の仮宮を造営。
 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。

 ポイント7

 近江国多賀宮で幣帛を納める。

 ポイント8

 酒折宮(山梨県)で葦津姫と契る。

 ポイント9

 新治宮(茨城県)に帰り、践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。

【ポイント1】朝日宮で幣帛を納める

【ポイント2】白山宮で梅を折りかざす

 白山宮で梅を折りかざす

【ポイント3】滋賀県高島市今津町酒波で桜もよしと折かざす

 滋賀県高島市今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)でもよしと折かざす。

 滋賀県高島市今津町酒波

【ポイント4】高島市鵜川で猿田彦命に出会い、「卯の花」を折りかざす

 滋賀県高島郡高島町に鵜川(高島市鵜川)という地名があり、ここで猿田彦命に出会う。
 瓊々杵尊は、  鵜川宮で取った「卯の花」を折りかざしてまた進み行く。

 鵜川の宮

【ポイント5】大津シノ宮

 三尾神社の赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えているので「卯(う)の花」と関連があるかもしれない。
 三尾神社では、兔が神の使いである。
 このことから類推して、鵜川の宮で採った卯(う)の花が散った場所は大津市園城寺町にある三尾神社のある辺り(大津シノ宮)なのかもしれない。

 火の国のどの部分で九頭龍が発生したか・・

 瓊々杵尊は箱根の事情は知っておられただろう。
 木花咲耶姫が三人の子を産むときの事情も考慮されたのだろう。
 三人の御子は火の中で誕生されたのだ。
 三人の御子は、火に状態に従って
 ・火明
 ・火進
 ・火遠
 といわれている。
 伊邪那美尊が神上がられた時、伊邪那岐尊がその原因を検証されたように、瓊々杵尊も何かを検証されようとされたのではないか?
 結果の立場から考察すると、それが九頭龍がどの段階で誕生し、どこにどういう風に潜むことになったのかの検証だったのではないか?
 天照大神とスサノオの誓約(うけい)の結果、大津シノ宮の対岸にある瑞穂宮の近くで5人の皇子が生まれている。この5人の皇子の中に九頭竜龍・持子の子がいる。
 大津シノ宮には九頭龍の痕跡がある。
 木花咲耶姫の3人の子の宮を鑑みると、炎の絶頂の時に黒煙が発生し、炎が消えかかるときに九頭龍が誕生した、といえるのではないか。
 瓊々杵尊は、火の国のどの地点で九頭龍が誕生したのか、その場所がどこなのかを特定させるために鵜川宮と大津シノ宮を設けたのではないか。

 大津シノ宮

【広域地図】  大津シノ宮

【ポイント6】三上山を造成し、瑞穂宮の仮宮を造営

 滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山の三尾(みを)の土を積んで三上山を造った。
 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
 瑞穂宮の仮宮を造営。
 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。

 安土山から野洲市の三上山

【ポイント7】多賀宮で幣帛を納める

 多賀宮で幣帛を納める

【ポイント8】酒折宮(山梨)で葦津姫と契る

 酒折宮(山梨県)で葦津姫と契る。

【ポイント9】新治宮で天之忍穂耳尊より天つ日嗣を譲り受ける

 新治宮(茨城県)で天之忍穂耳尊より天つ日嗣を譲り受ける。


第二次天孫降臨の順路とは・・

〔1〕新治宮を治めていた瓊々杵尊は八洲巡りを願い出るが、天照神に5年間八洲巡りを許されず伊勢国に留まっていた。
〔2〕第一次天孫降臨から26万年後の紀元前1,290,607年(→年表)、八洲巡りの勅を得て、大和国の飛鳥宮を拝する。
〔3〕兵庫県の御津、西宮を通り、神崎に大井を掘って、朝日神(豊受神)を祀る朝日宮(京都府加佐郡にある元伊勢外宮 豊受大神社)に幣帛を納める。
〔4〕コヱの根の国に着き、白山峰の見巡った。
 白山峰を巡る基点となった神社は白山比盗_社加賀馬場)だろうか?
〔5〕白山宮において、梅の花のもと御饗が催された。
 白山宮とは、白山中居神社と推定している。東相殿に天照大神を祀り、西相殿に瓊々杵尊を祀っており、こういう祭神の祀り方に第二次天孫降臨の時の記憶が想起されているとみれなくもない。
 また、白山中居神社の祭神が伊邪那岐尊であることから、第二次天孫降臨の順路に伊邪那岐尊の史跡のあとをたどっている可能性もありそうだ。
 滋賀県の三尾神社の祭神が伊邪那岐尊であることも、第二次天孫降臨と伊邪那岐尊の史跡のあとの関わりが想像できるかもしれない。
 瓊々杵尊は、白山中居神社で、を折りかざす。
〔6〕を折りかざし、高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)に至った
   高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)でもよしと折かざす。
〔7〕高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)に田を造ろうと、太田命と箕島命が井川を造る。
〔8〕滋賀県高島郡高島町に鵜川(高島市鵜川)という地名があり、ここで猿田彦命に出会う。
〔9〕鵜川宮で取った「卯の花」を折りかざしてまた進み行く。
〔10〕鵜川宮で取った「卯の花」がどこで散り、どこに納めたのか、という問題が残っている。
 三尾神社の赤尾神(伊邪那岐尊)が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えているので「卯(う)の花」との関連も連想される。
 また、三尾神社の祭神が伊邪那岐尊であることから、白山中居神社の伊邪那岐尊との関連が注目されるところでもある。
 大津シノ宮と呼ばれる前に、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の時代に何らかの宮があって、その宮を瓊々杵尊の時、大津シノ宮として造営されたようにも思える。
 こういうことから類推して、鵜川宮で取った「卯の花」を納めた場所は大津市園城寺町にある三尾神社周辺で、この辺りを大津シノ宮と言ったのではないかだろうか?
 三尾神社では、が神の使いである。
〔11〕滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山の三尾(みを)の土を積んで三上山を造った。
 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
 瑞穂宮の仮宮を造営。
 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
〔12〕近江国多賀宮
〔13〕美濃国(岐阜県)
〔14〕信濃国(長野県)
〔15〕諏訪(長野県)
〔16〕原見山(富士山)
〔17〕酒折宮(山梨県)で葦津姫と契る。
〔18〕新治宮(茨城県)に帰り、践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
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〔19〕大山祗命は伊豆崎の仮屋(かりや)に迎(むか)え御饗(みあえ)なす 膳なすとき葦津姫(あしつひめ)イメ孕(はら)めりと告げる。
〔20〕白子宮(三重県)
〔21〕瓊々杵尊、一人で伊勢国。
   木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。
〔22〕須走(静岡県)
〔23〕酒折宮(山梨県)
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〔24〕富士登山
〔25〕日高見多賀の守の殿で天之忍穂耳尊の遺言
〔26〕伊豆崎で3年の喪祭り
〔27〕瀛壷の峰から眺めて比叡山造営の勅。
〔28〕酒折宮を改築し原朝間宮とする。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P3-32 )

紀元前1,290,607年
2月1日
29鈴木 501枝 38穂
171万98年2月1日
伊勢国。
瓊々杵尊の八洲めぐりの勅の時。
その時、梅の花見をする。
三種神宝の授与。
「御機の留」(天照神)⇒瓊々杵尊
御鏡(瀬織津姫)⇒天児屋根命
御剣(速秋津姫)⇒子守神
  大和国飛鳥宮。
瓊々杵尊の兄の天之火之明尊のところへ。
  兵庫県の御津・西宮・神崎を通り、京都府加佐郡にある豊受神社へ。
  朝日神(豊受神)を祀る朝日宮幣(ぬさ)納(おさ)める。
京都府加佐郡にある豊受神社と推定される。
  コヱの根の国。
白山峰見巡り
越国の地名譚。
紀元前1,290,607年
3月15日
29鈴木 501枝 38穂
171万98年3月15日
 3月15日、白山宮で梅の花の下に御饗を催す。
 白山宮を折りかざす。
   白山宮を折りかざし、高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)に至った。 (別項あり)
 高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)でもよしと折かざす。
   高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)に田を造ろうと、太田命と箕島命が井川を造る。
 高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)には与呂伎(よろぎ)神社が鎮座しており、祭神は子守神と勝手神である。
 ここは子守神(万木麿命)の誕生の地であろう。
   滋賀県高島郡高島町に鵜川(高島市鵜川)という地名があり、ここで猿田彦命に出会う。
 高島郡内には「饗庭(あえば)」と名付ける村が10ヵ所以上もあるという。
   鵜川宮で取った「卯の花」を折りかざしてまた進み行く。
 三尾神社の赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えているので「卯(う)の花」と関連があるかもしれない。  
三尾神社では、兔が神の使いである。
 このことから類推して、鵜川の宮で採った卯(う)の花が散った場所は大津市園城寺町にある三尾神社のある辺り(大津シノ宮)だろうか?
  鏡山(滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある)の三尾(みを)の土を積んで三上山を造った。
三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
  瑞穂宮の仮宮を造営。
野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
  多賀宮に行き、幣(ぬさ)を捧げる。
  美濃に行く。
  信濃(しなの)、そして諏訪(すわ)に行く。 。
  原見山(富士山)へ。
手力雄命(たじからを) が八方を掘る。
紀元前1,290,607年
5月から6月頃
29鈴木 501枝 38穂
171万98年5月から6月ごろ
大山祗命が預かっている酒折宮(山梨)に入り、御饗(みあえ)の御膳(みかしは)を捧(ささ)ぐ葦津姫(あしつひめ)を一夜(ひとよ)召して、契を結ぶ。
   新治宮に戻り、践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
   新治宮に戻り、践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
紀元前1,290,606年
29鈴木 501枝 39穂
171万99年
 次の年、
 時(とき)に君(きみ) 思(おぼ)すことあり
 勝手神をして海辺を上る、
 行幸(みゆき)触れ、大山祗命は伊豆崎の仮屋(かりや)に迎(むか)え御饗(みあえ)なす 膳なすとき葦津姫(あしつひめ)イメ孕(はら)めりと告げる。
   葦津姫が子を孕んだことを伊勢に告げるため白子宮まで行ったとき、葦津姫の母姉(はなあね)の讒言が瓊々杵尊の耳に入った。
 葦津姫、白子宮の桜に誓いを立てる。
紀元前1,290,606年
6月1日
29鈴木 501枝 39穂
171万99年6月1日
 葦津姫は三つ子生む。
 その胞衣の紋は卯花と変り、瓊々杵尊に告げたが、返事なくて姫は裾野に無戸室し巡りに柴の垣なして母子(はゝこ)誓(ちか)ひて中に入った。
   瓊々杵尊と葦津姫は輿を並べて大宮に入った。大宮とは、静岡県富士宮市大宮字桜ヶ丘に鎮座する富士山本宮浅間神社か。
   諏訪命(諏訪酒折の武日照命)も須走の宮(静岡県駿東郡に須走がある)で御饗を催した。
   瓊々杵尊は酒折宮に入った。
   そののち、富士山登山。
   日高見の天之忍穂耳尊の遺言。
   伊豆崎宮で、天之忍穂耳尊の喪祀りを3年行う。
   瀛壷(おきつぼ)の峰から眺めて、比叡山造営の勅。
   酒折宮を改築し原朝間宮とする。

第二次天孫降臨〜『秀真伝』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」の前半

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」の前半(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P3-32 )
  そもそもに 御孫(みまご)瓊々杵尊(ににきね)  
  新治宮(にはりみや) 筑波(つくば)に治む  
  年(とし)すでに 三鈴(みすず)二千五十年(ふちゐそ) 12万2050年
  つらつらと 思(おも)せば民(たみ)の  
  殖(ふ)ゆるほど 田は増さぬゆえ  
  糧(かて)足(た)らず 平場(ひらば)の小田(おだ)は  
  水(みず)絶えず 高田(たかだ)は雨の  
  降らぬ年 種(たね)お滅(ほろ)ぼす  
  川上(かわかみ)の 水お懸樋(かけひ)に 水を高いところから低いところに流す樋(とい)。
  運(はこ)ばせど これも崩(くづ)れば  
  井堰(いせき)建(た)て 堤(つつみ)築(きづ)きて 水を他に引くために、川水をせき止めた所。
  山水(やまみず)お 取りて高田お  
  開かんと 稜威(いづ)の鴨船(かもぶね)  
  伊勢に着け 巡(めぐ)り請(こ)えども  
  大御神(ををんかみ) 許(ゆる)さずここに  
  仮住居(かりすまゐ) 山田(やまだ)野(の)高(たか)く 「山田」は、三重県伊勢市の旧称の宇治山田。
  宮川(みやかわ)の 上(かみ)より井堰(いせき) 「宮川」は宇治山田の付近を流れる川。
  堤(つつみ)築(つ)き ついに高野(たかの)お  
  田(た)となせば 五年(ゐとせ)の内(うち)に  
  瑞穂(みづほ)なる 他(ほか)に十八箇(そやか)の  
  井堰(いせき)なる 時に天照神(あまてる)  
勅(みことのり) 「八洲(やしま)巡(めぐ)れ」と  
  触(ふ)れ給(たま)ふ 時(とき)二十九鈴(ふそこすヾ) 第一次天孫降臨から26万年後の
紀元前1,290,607年、 大濡煮尊の御世から171万98年経ている。
  五百(ゐも)の一枝(ひゑ) 三十八年(みそや)二月(きさらぎ) 2月1日
  朔(ついたち)と 梅(うめ)の花見(はなみ) 瓊々杵尊の八洲めぐりの勅の時、
梅の花見をする。
  御饗(みあえ)して 日読みの宮の  
  門出(かどで)宣(のり) 昔(むかし)日読(ひよ)みの  
  思金命(おもいかね) 暦(こよみ)作りて  
  ここにあり のち叢雲命(むらくも)に  
  譲(ゆず)り置(お)く 叢雲命(むらくも)天(あめ)の  
  御伴(をんとも)に 飛鳥(あすか)に侍(はべ)る  
  手力雄(たじからを)命 親(をや)のあととて  
  ここにあり 御巡狩(みかり)の御伴(をとも)  
  請(こ)ふゆえに 叢雲命(むらくも)召(め)して  
  勅(みことのり) 「汝(なんじ)叢雲(むらくも)  
  暦(こよみ)なす 鏡(かがみ)曇(くも)れば  
  賜(たま)ふ名(な)は 天二枝(あめふたゑ)なり」  
  天二枝命(ふたゑ)今日(けふ) 御饗(みあえ)おなせば  
  門出(かどい)でに 御機(みはた)の留(とめ)の 御機の留」とは、君が政治を行うのに必要な教えを記した文。
  御文(おんふみ)お 御孫(みまご)に賜(たま)ひ 天照神の孫にあたる瓊々杵尊へ。
三種神宝の授与。
  御鏡(みかがみ)お 天児屋根命(こやね)に賜(たま)ひ 御鏡(瀬織津姫)→ 天児屋根命
  御剣(みつるぎ)お 子守神(こもり)に賜(たま)ひ 御剣(速開津姫)→ 子守神
  曰(のたま)ふは 「先(さき)に三種(みくさ)の  
  宝物(たからもの) 御子(みこ)忍仁尊(おしひと)に  
  賜(たま)いしは 兄(あに)御孫(みまご)得(ゑ)て 瓊々杵尊の兄にあたる火之明照彦尊のこと。
  太玉(ふとたま)と 香久山(かぐやま)翼(はね)の  
  大臣(をみ)となる 天児屋根(こやね)大物主(ものぬし)  
  清仁(きよひと)が 翼(はね)の大臣(をみ)なり 清仁とは瓊々杵尊のこと。
  君(きみ)と大臣(をみ) 心(こころ)一(ひと)つに  
  彼(か)の鳥(とり)の 形(かたち)は八民(やたみ)  
  首(くび)は君(きみ) 鏡臣(かがみ)は左羽(たはね)  
  剣臣(つるぎ)右羽(かは) 物部(もののべ)は足(あし)  
  鏡大臣(かがみをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば その教えを伝承する子孫が滅びれば、の意。
  民(たみ)離(はな)れ 日嗣(ひつぎ)践(ふ)まれず  
  剣大臣(つるぎをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば  
  物部(ものべ)割(わ)れ 世(よ)お奪(うば)わるる  
  八咫鏡臣(やたとみ)は ゾロ生(は)ふ春(はる)の ゾロとは稲および畑の苗のこと
  民業(たみわざ)お 鑑(かんが)みる目ぞ  
  垣大臣(かきおみ)は 邪魔(よこま)お枯(か)らし 八重垣臣・剣臣のこと。
  物部(もののべ)の 力(ちから)守(も)る手ぞ」  
  このゆえに 三種神宝(みくさ)お別(わ)けて  
  授(さづ)く心(い)は 永(なが)く一(ひと)つに  
  なる由(よし)お 綾(あや)に印(しる)して  
  御手(をて)づから 文(ふみ)お御孫(みまご)に  
  授(さづ)けます 瀬織津姫(せおりつひめ)は  
  御鏡(みかがみ)お 持(も)ちて春日神(かすが)に  
  授(さづ)けます 速開津姫(はやあきつめ)は  
  御剣(みつるぎ)お 持(も)ちて子守神(こもり)に  
  授(さづ)けます 三度(みたび)敬(うやま)ひ  
  みな受(う)くるかな    
  しかるのち 三種(みくさ)神宝(たから)お  
  櫃(ひつ)に入(い)れ 印(しるし)は榊(さかき)  
  先駆(さきがけ)は 手力雄命(たじからお)なり  
  次(つぎ)勝手神(かって) 大物主命(おおものぬし)と  
  三種(みくさ)櫃(ひつ) 八英(やふさ)御輦(みくるま)  
  次(つぎ)天児屋根命(こやね) 籠馬(かごむま)八十(やそ)の  
  物部(もののべ)ら 伊勢(いせ)より立(た)ちて 伊勢から出発し、飛鳥宮へ。
飛鳥宮(あすかみや) これより御津(みつ)の 兵庫県に、御津市西宮市がある。
西宮(にしのみや) まづ神崎(かんざき)の 兵庫県神崎郡
大井(おおい)堀(ほ)り 真名井(まなゐ)に至(いた)り 朝日神(豊受神)を祀る朝日宮。京都府加佐郡にある豊受神社と推定される。
幣(ぬさ)納(おさ)め コヱの根(ね)の国(くに) コヱの根の国
  天智馳命(あちはせ)が 峰輿(みねこし)捧(ささ)ぐ  
これに召(め)し 白山峰(しらやまみね)お 白山峰の御巡り
  見巡(みめぐ)るに 斜(なな)めにならず  
  「この輿(こし)は 誰(た)が作(つく)れる」と  
  曰(のたま)えば 菊桐姫(ここりめ)曰(いわ)く  
  「真子(まこ)がなす 妹(いと)ウケステ女(め) 「真子」とは、子供や妻・恋人を慈しんでいう言葉。
  赤県(あかがた) 玄圃積(くろそのつみ)  
  生(う)む御子(みこ)お 崑崙国(ころびつくに)の  
  君(きみ)となす 玄圃(くろその)の生(う)める  
  君(きみ)の母 険(けわ)しき峰(みね)の  
  越(こ)すときに 峰輿(みねこし)作(つく)り  
  子(こ)お育(そだ)つ 今(いま)ここに来(き)て  
  真見(まみ)ゑなす」 御孫(みまご)喜(よろこ)び  
  「国(くに)は越(こし) 山(やま)は峰輿(みねこし)」  
  その返(かえ)に 三千実(みちみ)の桃(もも)お  
  賜(たま)われば 「花実(はなみ)の桃(もも)は  
  まれなり」と 国苞(くにつと)になす 国への土産にする。
三月(やよひ)望(もち) 御饗(みあえ)の梅(むめ)に 3月15日白山宮白山中居神社だろうか)で梅の花の下に御饗を催す。
  君(きみ)笑(ゑ)みて 「梅(むめ)に三種(みくさ)の  
  門出(かどいで)も 梅(むめ)に輿(こし)得(ゑ)て  
  この御饗(みあえ) 天(あめ)の印(しるし)」と  
折りかざし 至(いた)る高島(たかしま) 白山宮白山中居神社だろうか)で梅の枝を折りかざし、滋賀県高島郡に至った。
 高島市今津町酒波の日置神社に立ち寄られたであろう。
  酒波(ささなみ) 桜(さくら)も良しと  日置神社がある高島市今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)と関連するか?
 ここでを折りかざし、高島市今津町弘川の行過天満宮(ゆきすぎ)阿志都彌神社(あしづみ)を通っただろう。
 行過天満宮(ゆきすぎ)という神社名であること、白山神社という摂社があること、さらに桜を連想させる阿志都彌神社(あしづみ)という神社名があるのが印象的である。
折りかざし 熊野(くまの)万木(よろぎ)の 高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)には与呂伎(よろぎ)神社が鎮座しており、祭神は子守神と勝手神である。
地元の人は与呂伎(よろぎ)神社を「コーモリさん」と呼び習わしていて、同社の地名を「古森」と称する。
このことは吉野山の子守宮を「コーモリさん」と呼び、同地に子守という地名が残ることと類似し、何らかの関係が存在することを示している。
なお、与呂伎(よろぎ)神社は、同地で最も古い神社として伝えられている。
この地は、『秀真伝』の記述から子守神(万木麿命)の誕生の地であると考えられる。
  田(た)にせんと 太田命(おおた)箕島命(みしま)が 与呂伎神社の付近には、太田命、箕島命の二命と関連すると思われる新旭町太田の太田神社安曇川町青柳の太田神社安曇川町三尾里の箕嶋神社があることが、『秀真伝』の記述において注目される。
太田命は子守神の十二男、箕島命は十一男。
井川(いかわ)なす 音玉川(おとたまがわ)の 高島郡内に小田川が流れる。
小田川の側に大炊神社が祀られている。
  白砂(しらすな)に 昼寝(ひるね)して居(お)る  
  衢神(ちまたかみ) 身の丈(たけ)十七咫(そなた)  
  面(つら)酸醤(かがち) 鼻(はな)高さ七枳(なき)  
  眼(め)は鏡(かがみ) 伴(とも)の八十神(やそかみ)  
  恐(おそ)るれば 御孫(みまご)鈿女命(うずめ)に 御孫(みまご)とは、瓊々杵尊のこと。
志呂志神社(しろし)が瓊々杵尊を祀る。
  勅(みことのり) 「汝(なんじ)目勝(めかち)に  
  問ふべし」と 鈿女命(うずめ)胸(むね)開(あ)け  
  裳紐(もひも)下(さ)げ 嘲笑(あざわら)いゆく  
  衢神(ちまたかみ) 覚めて「かくする  
  何ゆえや」 曰(いわ)く「御孫(みまご)の  
  行幸(みゆき)先(さき) かく居(お)るは誰(た)ぞ」  
  答えいふ 「神(かみ)の御孫(みまご)の  
行幸(みゆき)なす 鵜川(うかわ)仮屋(かりや)に 滋賀県高島郡高島町に鵜川という地名がある。高島市鵜川
高島郡ないには「饗庭(あえば)」と名付ける村が10ヵ所以上もあるという。
  御饗(みあえ)して 相(あい)待(ま)つ長田(ながた) 長田神社という神社があり、祭神は事代主であり、相殿に天之鈿女命を祀る。
第二次天孫降臨の時の事代主は・・・だった。
  猿田彦(さるたひこ)」 鈿女命(うずめ)また問(と)ふ  
  「何(いづ)れから 行(ゆ)くや」答えて  
  「われ行(ゆ)かん」 また問(と)ふ「汝(なんじ)  
  知(し)るや君(きみ) 行(ゆ)きますとこお」  
  答(こた)えいふ 「君(きみ)は筑紫(つくし)の  
  高千穂(たかちほ)ぞ われは伊勢(いせ)の南(さ)  
  長田川(ながたがわ) 汝(なんじ)わが名(な)お  
  顕(あら)わさば われもいたさん」  
  返事(かえごと)す 御孫(みまご)喜(よろこ)び  
  卯(う)の花 またかざし行(ゆ)く 鵜川宮で採った卯(う)の花を折りかざし、また進んでいった。
 その卯(う)の花が散った場所は大津市園城寺町にある三尾神社のある辺り(大津シノ宮)か?
 赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えるが「卯(う)の花」と関連があるかもしれない。
 三尾神社では、兔が神の使いである。
  猿田彦命(さるた)して 岳(たけ)磐座(いわくら)  
  押(お)し放(はな)ち 稜威(いづ)の道別(ちわき)の  
鎧崎(よろいざき) 岳(たけ)や鏡山(かがみ)の 鏡山とは滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山ではないか。
三尾(みを)の土(つち) 積(つ)む三上山(みかみやま) 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
  井堰(いせき)築(つ)く 猿田彦命(さるた)お褒(ほ)めて  
  三尾(みを)の神(かみ) 好(この)む鈿女命(うずめ)お 『特選神名牒』に高島郡高島村大字拝戸の延喜式内社の水尾神社(みをの)が載る。
  賜(たま)わりて その名(な)顕(あら)はす  
  猿部等(さるべら)と 神楽(かぐら)男子(をのこ)の  
  君(きみ)のもとなり    
  勅(みことのり) 「三尾(みお)の道別(ちわき)も  
  田(た)はここに これ鏡(かがみ)なり」  
仮宮(かりみや)お 瑞穂宮(みづほ)と名付(なづ)く 野洲郡野洲町三上の御上神社(祭神は天之御影命)か。
多賀宮(たが)に行(ゆ)き 幣(ぬさ)お捧(ささ)げて 多賀大社
美濃(みの)に行(ゆ)き 天国魂命(あまくにたま)の  
  喜(よろこ)びも 昔(むかし)春日神(かすが)に  
  瓜(うるり)得(ゑ)て 生(う)む高彦根命(たかひこね)  
  捧(ささ)げ物(もの) 各々(おのおの)真桑(まくわ)  
  一籠(ひとかご)と 八十神(やそ)喜(よろこ)びて  
雲道(くもち)別(わ)け 信濃(しなの)諏訪(すわ)より  
導(みちび)けば 原見山(はらみやま)から  
  四方(よも)お見(み)て 「裾野(すその)は広(ひろ)し  
  水(みづ)お生(う)み 裾野(すその)田(た)にせん」  
  手力雄命(たじからを) 八方(やも)に掘(ほ)らしむ  
  湖(うみ)の名(な)も 東(き)は山中(やまなか)と  
  東北(きね)はアス 北(ね)は河口(かわぐち)と  
  北西(ねつ)本栖(もとす) 西(つ)は西(にし)の湖(うみ)  
  西南(つさ)はスド 新治(にはり)の民(たみ)の  
  群(むれ)来(き)たり 湖(うみ)堀(ほ)り土(つち)お  
  峰(みね)に上(あ)げ 八英(やふさ)はかりと  
  天(あ)に応(こた)え 中(なか)の地(わ)もがな  
  ウツロヰが 淡海(あわうみ)浚(さら)え 淡海(琵琶湖)の湖底の土
  三尾(みを)の地(わ)と 一荷(ひとにな)い来(き)て 三尾の土を一度に担がせる
  朝(あさ)の間(ま)に 中峰(なかみね)なせば  
  神(かみ)の名(な)も 稜威(いづ)朝間峰(あさまみね)  
  山高く 湖(みずうみ)深(ふか)く  
  並(なら)びなし 峰(みね)に降(ふ)る雪(ゆき)  
  池水(いけみず)の 末(すえ)九千里(こちさと)の  
  田(た)となりて およぶ御世(みよ)だに  
  二十年(はたとし)に 浚(さら)えなせとて  
酒折(さかおり)の 宮(みや)に入(い)ります 山梨県の甲府と石和の中間にある
  預(あづか)りの 大山祗命(おおやますみ)が  
  御饗(みあえ)なす 御膳(みかしは)捧(ささ)ぐ  
  葦津姫(あしつひめ) 一夜(ひとよ)召(め)されて 大山祗命の娘で桜内命の曾孫。称え名を木花咲耶姫という。
契(ちぎ)り込(こ)む 帰(かえ)る新治(にはり)  
  ユキスキの 宮(みや)に祈(いの)りの  
  大嘗(おおなめ)ヱ 三種(みくさ)お受(う)けて 新治宮で践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
  天(あ)に応(こた)え 宮(みや)に治(おさ)むる  
  その飾(かざ)り 香久(かぐ)八幡(やはた)あり  
  その明日(あすか) 大御宝(おおんたから)に  
  拝(おが)ましむ    

第二次天孫降臨〜『秀真伝』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」の後半

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」の後半(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P3-32 )
    天児屋根命(こやね)鹿島宮(かしま)に  
  年(とし)越(こ)ゆる 大物主命(ものぬし)一人(ひとり) 大物主命とは子守神のこと。
  日高見(ひだかみ)の 井堰(いせき)なし  
  日隅(ひすみ)まで 祖父(ををじ)喜(よろこ)び 津軽の大己貴(奇杵)命。
  「その父(ちち)が 大和(やまと)の神(かみ)と 子守神の父・奇彦命が大和大国御魂神となって、三輪山に隠れた、ということ。
  成(な)りてのち 孫(まご)に会いたくて  
  年寄(としよ)ると」 手づから御饗(みあえ)  
  大物主命(ものぬし)も 喜(よろこ)び曰(いわ)く  
  「わが君(きみ)の 山(やま)お八英(やふさ)の  
  居雪(ゐゆき)なす」 祖父(おおぢ)驚(おどろ)き  
  「われたとひ 新田(あらた)なすとも  
  これ知らず 君(きみ)は真(まこと)の  
  照(て)らす神(かみ) 代々(よよ)の御祖(みをや)ぞ  
  忠(まめ)なせ」と 国境(くにさかい)まで  
  送りてぞ 名残あるなり  
  大物主(ものぬし)は 海辺(うみべ)お西(にし)に  
  巡(めぐ)りつつ 差絵(さしえ)に新田(あらた) 差絵とは計画図のこと。
  起(おこ)さしむ 佐渡(さど)に渡(わた)りて  
  新田(あらた)なす 越国(こし)に戻(もど)りて 差絵とは計画図のこと。
  井堰(いせき)なすかな    
  時(とき)に君(きみ) 思(おぼ)すことあり  
  天児屋根命(こやね)して 新治(にはり)に留(とど)め  
  勝手神(かって)して 海辺(うみべ)お上(のぼ)る  
  行幸(みゆき)触(ふ)れ 大山祗命(おおやますみ)は  
伊豆崎(ゐづさき)の 仮屋(かりや)に迎(むか)え  
  御饗(みあえ)なす 膳(かしわ)なすとき  
  葦津姫(あしつひめ) イメ孕(はら)めり 十五紋に「イメの源 月となる」と見える。ここでは、「イメ」とは「胎内」のことだろうか?それとも「妻」という意味だろうか?
  申(もう)すゆえ 伊勢(いせ)に告(つ)げんと  
  装(よそ)ひなす 時(とき)にその母(はは)  
  姉(あね)連(つ)れて 仮屋(かりや)に至(いた)り  
  真見(まみ)ゑ請(こ)ふ 召(め)せば申(もふ)さく  
  「妹(いもと)さえ わが慈(いつく)しの  
  姉(あね)あり」と 言葉(ことば)飾(かざ)れば  
  二心(ふたごころ) 姉(あね)磐長姫(いわなが)お  
  召(め)せばその 形(かたち)鋭(するど)く  
  眉目(みめ)悪(あ)しく 故(かれ)に肝消(きもけ)し  
  ミヤビ変(か)え 「やはり葦津姫(あしつ)」と 「ミヤビ」とは、ここでは恋心のこと。
  曰(のたま)えば 父(ちち)驚きて  
  妻(つま)叱(しか)る 「かくあらんとて  
  出(いだ)さぬお 急(いそ)ぎ帰(かえ)れ」と  
  追(お)ひやれば 母姉(はなあね)恨(うら)み  
  下(しも)召(め)して 妹(いもうと)落(おと)さん 下(しも)とは、下人(げにん)のこと。
  仇枕(あだまくら) ついに偽(いつわ)り 仇枕とは、仇を討つ計画をたてること。
白子宮(しらこや)で 君(きみ)に聞(き)こゆる 三重県鈴鹿市に「白子」という地名がある。
  疑(うたが)ひに 旅屋(たびや)を夜半(よわ)に  
立(た)ち出(い)でて 伊勢(いせ)に帰ります  
  姫(ひめ)一人(ひとり) 寝覚(ねざ)めて行(ゆ)けば  
  松坂(まつざか)に 関(せき)止(と)められて  
  白子宮(しらこや)に 帰(かえ)り誓(ちか)って  
  妬まれ わが恥(はぢ)滌(すす)げ  
  この桜(さくら) 昔(むかし)曾祖父(ひををぢ)  
  桜内大人(さくらうし) この花捧ぐ 六紋に「東に桜植え 大内宮」。伊雑宮の東殿に植えた桜のこと。
  大御神(ををんかみ) 大内(おうち)に植(う)えて  
  伊勢の道 成(な)る離(はな)るゝお  
  計(はか)ります 桜(さくら)心(こころ)あらば  
  わが孕(はら)み 仇(あだ)種(たね)ならば  
  花(はな)萎(しぼ)め 正(まさ)種(たね)ならば  
  生むときに 咲け」と誓いて  
  こゝに植(う)ゑ 里に帰(かえ)ます  
  十二月(そふ)満(み)ちて 六月(みなつき)初日 6月1日
  三つ子生む その胞衣(ゑな)の紋(あや)  
  (うめ)(さくら) 卯(う)花(ばな)と変(かわ)り  
  怪(あや)しめば 君(きみ)に告(つ)ぐれど  
  返事(かえ)なくて 姫(ひめ)は裾野(すその)に  
  無戸室(うつむろ)し 巡(めぐ)りに柴(しば)の  
  垣(かき)なして 母子(はゝこ)誓(ちか)ひて  
  中にあり 「仇種(あだたね)ならば  
  亡(ほろ)びん」と 火(ひ)お付(つ)け焼(や)けば  
  熱(あつ)がりて 這(は)ひ出(い)でんとす  
  峰(みね)の竜(たつ) 水(みづ)吐(は)きかけて  
  一人づつ 導(みちび)き御子(みこ)お  
  這(は)ひ出(いだ)す 諸人(もろびと)驚(おどろ)き  
  火(ひ)お消(け)して 姫(ひめ)引(ひ)き出(い)だし  
  御輿(みこし)もて 宮(みや)に送(おく)りて  
  伊勢に告ぐ 白子の桜 白子宮に咲いた桜のこと
  生(う)まれ日(ひ) 咲(さ)きて絶(た)えねば  
  天御孫(あめみまご) 鴨船(かもふね)早(はや)く  
飛ばさせて 興津(おきつ)に着けば  
  雉子(きじ)飛(と)びて 酒折(さかおり)に告(つ)ぐ  
  姫(ひめ)恨(うら)み 衾(ふすま)被(かぶ)りて 衾とは、布地などで作り、寝るときに身を蔽う夜具。
  答(こた)え無(な)し 返事(かえこと)すれば  
  君しばし 思(おも)ひて和歌(わか)の  
  歌身(うたみ)染め 奥津彦命(おきひこ)おして 歌身とは、短冊のことか。
奥津彦命とは新治宮にて八将神を祭る任にあった神。
  清雄鹿人(さをしかど) 姫(ひめ)頂(いただ)きて  
  沖(おき)つ藻(も)は 辺(へ)には寄(よ)れども  
  さ寝床(ねとこ)も 能(あた)わぬかもよ  
  浜(はま)つ千鳥(ちどり)よ    
  この歌(うた)に 恨みの涙(なんだ)  
  溶(と)け落(お)ちて 肝(きも)に応(こた)えの  
  徒跣(かちはだし) 裾野(すその)走りて  
  興津浜(おきつはま) 君(きみ)喜(よろこ)びて 静岡県清水市の海岸添いに興津町がある
輿(こし)並(なら)べ 行(ゆ)く大宮(おおみや)は 静岡県富士宮市大宮字桜ヶ丘に鎮座する富士山本宮浅間神社か。
同社は木花之佐久夜毘売、天津日高日子番能邇々芸命、大山津見命を祭る。
  大山祗命(やますみ)の 道(みち)迎(むか)えして  
  三所(みどころ)に 諏訪命(すわ)が御饗(みあえ)は  
  須走(すばし)り 酒折宮(さかおりみや)に 静岡県駿東郡に須走がある。
  入(い)りまして 「諸神(もろかみ)聞(き)けよ  
  われ先に 花おかざして  
  駆(か)け通(とほ)る これ胞衣(ゑな)の紋(あや)」  
  諱(いみな)なす 初(はつ)に出る名は  
  火之明(ほのあかり) 諱(いみな)梅仁(むめひと)  
  次の子は 名も火進(ほのすゝみ)  
  桜木(さくらぎ)ぞ 末(すえ)は名(な)も彦(ひこ)  
  火々出見(ほおでみ)の 諱(いみな)卯津杵(うつきね)  
  また姫(ひめ)は 子お生(う)む日(ひ)より  
  花(はな)絶(た)えず ゆえに木花(このはな)  
  咲耶姫(さくやひめ)」 宮造(みやつく)りして 酒折宮に新殿をつくる。
  御座(おわ)します 夏女(なつめ)の神(かみ) 夏女の神が産衣を作る。
  産衣(うぶぎ)なす 母(はは)の乳(ちち)お以(も)て  
  養(ひた)します 子安(こやす)の神(かみ)ぞ 葦津姫は子安神として讃えられた。
  人(ひと)成(な)りに 桜木尊(さくらぎ)蟹(かに)の 桜木尊に水瘡(みずくさ)ができた。
  瘡(くさ)なせば 酢芹草(すせりぐさ)にて 酢芹草によって癒した。
  蟹(かに)掃(は)きて 瘡(くさ)枯(か)れ癒(い)ゆる  
  名(な)も酢芹(すせり) 故(かれ)白鬚(しらひげ)の 桜木尊に酢芹宮という名を与えた。
  酢芹(すせり)以(も)て 民(たみ)蘇(よみがえ)る 白鬚の酢芹草をもって、民の病を癒す守として、代々尊んだ。
  守(まも)りとて 叩(は)たきて受(う)くる  
  宮居(みやゐ)これかな    
  そののちに 君(きみ)この山に  
  登り見て 中心(なかご)休(やす)めり  
  八(や)つ峰(みね)に 居雪(ゐゆき)絶(た)えねば  
  代々(よよ)の名(な)も 豊居雪山(とよゐゆきやま)  
    = 中略 =  
  二神(ふたかみ)の 国中柱(くになかばしら)  
  瀛(おき)の壺(つぼ) 天照神の 瀛(おき)の壺とは、近江国八尋殿。
壺は天界と交流する要所。
  日高見(ひだかみ)の 方丈宮(かたたけみや)の 方丈宮(かたたけみや)とは、四紋に「みな方壺の ヤマテ宮」と見えることから、ヤマテ宮のことと考えられる。
  中柱(なかばしら) 方壺(けたつぼ)の文(ふみ)  
  稜威神(ゐづかみ)の 原見(はらみ)ハ壺(つぼ) ハ壺(つぼ)とは酒折宮のことか。
  四方八方(よもやも)の 中柱(なかばしら)なり  
  大御神(ををんかみ) 原(はら)の治君(をきみ)と  
  名(な)お賜(たま)ふ    
    = 中略 =  
  世々(よよ)豊(ゆた)か 八万年(やよろとし)経(へ)て  
  日高見(ひだかみ)の 君(きみ)より召(め)せば  
  諸(もろ)ともに 宮(みや)に上(のぼ)れば  
  父帝(ちちみかど) 御子(みこ)二方(ふたかた)に  
  勅(みことのり)  
    = 中略 =  
  箱根神(はこねかみ) 三年(みとせ)祭(まつ)りて  
  瀛壷(おきつぼ)の 峰(みね)より眺(なが)め  
  勅(みことのり)   比叡山の造成の勅。

山幸彦(彦火々出見尊)が大津シノ宮を賜る

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十五「彦命鉤お得るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 )
三十二(みそふ)鈴(すヾ) 九百枝(こもゑ)二十三穂(ふそみほ) 大濡煮尊の御世から191万4,023年。
四月(うつき)初日(はつひ) 別雷(わけいかつち)の 瓊々杵尊
天君(あまきみ)は 深き思ひの  
あるにより 大島命(おゝしま)おして  
淡海(あわうみ)の 瑞穂(みづほ)の宮(みや)お 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
造(つく)らしむ 成(な)れば日(ひ)お見て  
遷(うつ)らんと 先に垂乳男神(たらちを) 瓊々杵尊の父・天之忍穂耳尊のこと
日(ひ)足(た)るとき 箱根(はこね)の洞(ほら)に 箱根神社
入(い)りますお 母(はは)千々姫(ちゝひめ)は  
事(こと)ありて 伊勢(いせ)に至(いた)りて 伊勢伊雑宮
大御神(をんかみ)に 朝夕(あさゆう)仕(つか)え  
祭(まつ)らしむ 十万年(そよろとし)経(へ)て  
今(いま)故(かれ)に 箱根(はこね)に詣(もふ)で  
幣(ぬさ)捧(ささ)げ それより伊勢(いせ)に  
行幸(みゆき)なる 大御神(ををかみ)および  
千々姫(ちゝひめ)お 拝(おが)みて淡海(あわ)の  
瑞穂国(みづほくに) 宮遷(みやうつ)しなる  
梅仁尊は 原見(はら)に留(とど)まり 第一子の火之明(ほのあかり)
政治(まつりごと) 天之児屋根命(こやね)預(あずか)り  
大物主命(ものぬし)は 伴(とも)なすゆえに  
溝咋命(みぞくい)お 添物主(そえものぬし)と  
原見(はら)の守(もり) 新治(にはり)に居(い)ます  
酢芹宮(すせりみや) 昔(むかし)の跡(あと)に 第二子の火進尊
今(いま)造(つく)る 鵜川(うかわ)の宮(みや)に 高島市鵜川付近と考えられる
遷(うつ)ります 二荒山(ふたあれ)裾(すそ)の  
卯津宮(うつみや)は 大津シノ宮 第三子の彦火々出見尊。三尾神社から長等山にかけての一帯が大津シノ宮の推定地。
今(いま)造(つく)り これ賜(たま)わりて  
遷(うつ)ります 時に諱(いみな)の 彦火々出見尊の諱は、鵜川宮(卯川宮)付近に生えていた卯の花にちなみ卯津宮とつけられた。
ゆえあれば 鵜川宮(うかわ)を請(こ)えど  
許(ゆる)されず 常(つね)に狩(かり)して  
楽(たの)しめば 山(やま)の幸彦(さちひこ)  
また酢芹宮(すせり) 釣(つり)楽(たの)しめば  
幸彦(さちひこ)と 君は親(みづか)ら  
御狩(みか)りなす 西中国の  
山表(やまおもて)    
  = 中略 =  
三万(みよろ)経(へ)る 時(とき)に筑紫(つくし)の 現在の福岡県
治(をさ)まらで 御子(みこ)御下(みくだ)りお  
請(こ)ふゆえに 君(きみ)聞(き)こし召(め)し  
「シノ宮お 筑紫治君(つくしをきみ)」と  
勅(みことのり) 卯津杵尊(うつきね)原見(はら)  
宮(みや)に行(ゆ)き 暇(いとま)お乞(こ)えば  
梅仁尊(うめひと)も ともに上(のぼ)りて  
瑞穂宮(みづほ)なる 天君(あまきみ)拝(おが)む  
時(とき)に君(きみ) 「筑紫(つくし)は糧(かて)の  
足(た)らざるか てれば行(ゆ)き見(み)て  
田(た)お増(ま)さん 故(かれ)梅仁(むめひと)お  
治君(をきみ)とす 天児屋根(あまのこやね)大物主(ものぬし) 火明・梅仁が瑞穂宮の治君に任命された。
諸(もろ)ともに ここに留(とど)まり  
政(まつり)聞(き)け 卯津杵(うつきね)酢芹(すせり)  
北の津に 行(い)きて治(おさ)めよ 福井県敦賀
伊奢沙別宮(いささわけ) あれば睦(むつ)めよ」 気比神宮のこと。
天君(あまきみ)は 西宮(にしのみや) 兵庫県西宮市
亀船(かめ)に乗り 筑紫うましの  
鵜戸(うど)に着き 筑紫あまねく 宮崎県日南市大字鵜戸。
巡(めぐり)り狩(か)り    
  = 中略 =  
身(み)お尽(つ)くし 三年(みとせ)に指絵(さしゑ)  
ほゞなりて 作(つく)り行(おこな)い  
治(をさ)めしむ のちに瑞穂宮(みづほ)に  
帰(かえ)ませば 梅仁治君(むめひとおきみ)  
磯輪上(しわがみ)の 秀真(ほづま)の宮(みや)に  
帰(かえ)りますかな    
兄弟(ゑと)の宮(みや) 北津にありて  
試(こころ)みに 海幸彦(うみさちひこ)が  
幸(さち)換(か)えん 山幸彦(やまさちひこ)が  
諾(うなづ)きて 兄(ゑ)は弓矢(ゆみや)取(と)り  
山に狩る 弟(と)は海(うみ)に入(い)り  
釣(つり)おなす ともに空しく  
幸(さち)あらず 兄(ゑ)は弓矢(ゆみや)換(か)え  
鉤(ち)お求(もと)む 弟(と)は鉤(ち)お取(と)られ  
由(よし)無くて 新鉤(にいち)求(もと)めば  
兄(ゑ)は受(う)けず