平成21(2009)年6月27-28日、神武天皇「大和討ち」-井光(いかり)、生駒での長髄彦反乱軍の鎮圧

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平成21(2009)年6月27-28日、神武天皇「大和討ち」-
井光(いかり)、生駒での長髄彦反乱軍の鎮圧

 「神武天皇大和討ち」に基づいて参拝。

 『 新版 ひふみ神示』下巻 所収 五十黙示録第二巻碧玉之巻第十帖より

 神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
 神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。

 記憶が想起されてくるようだ。

 24ヶ所で祝詞奏上

►平成21年6月27日(土曜日)、奈良県吉野郡川上村の井光(いかり)(8ヶ所)
►平成21年6月27日(土曜日)、奈良県吉野郡吉野町の大蔵神社(1ヶ所)
►平成21年6月27日(土曜日)、奈良県吉野郡東吉野村の丹生川上神社中社の本宮と(2ヶ所)
►平成21年6月27日(土曜日)、奈良県葛城市の長髄彦の墳墓といわれている鍋塚古墳(1ヶ所)

►平成21年6月28日(日曜日)、奈良県大和郡山市の饒速日命の宮定め(4ヶ所)

►平成21年6月28日(日曜日)、奈良県生駒市で神武天皇、長髄彦の反乱の鎮圧(8ヶ所)

►今回いけなかったところ、大阪府東大阪市、孔舎衛坂での敗北(5ヶ所)

►今回いけなかったところ、第一次天孫降臨の関係地(13ヶ所)

【8ヶ所】平成21(2009)年6月27日(土曜日)、井光(いかり)で・・

大迫ダム 左岸:奈良県吉野郡川上村大字大迫
右岸:奈良県吉野郡川上村大字北和田
 平成12(2000)年8月2日に吉野を周った時にも大迫ダム行きたいと思ったのだが、当時は行ききれなかった。
 大迫ダムは吉野川の最上流だ。
 今回は、大台ケ原に行きたかったのだが、大台ケ原の牛石ヶ原は今の私の手に負えなさそうだ。
 大台ケ原の牛石ヶ原から流れてくる水源を貯めるのが大迫ダムだ。

 大迫ダムまでは訪ねるべきなのだ。

井光神社(いかり)の里宮 奈良県吉野郡川上村井光34
 7時33分に到着した。
 地元のおじいいさんとおばあさんがみんなで集まって、神社の掃除をしている。
「美穂にも写真を撮らせて」
 と美穂が駆け寄ってくる。
 カメラを預け、私が目を離した瞬間、カメラが倒れていった。
 ガチャン!
 壊れたかのような音がした。  慌ててカメラの点検をした。撮影に支障がなくて良かった。
 このことで美穂は私の大目玉を食らった。

 奥宮に行くのに車を止めておくスペースがあることを知ったのは収穫だった。

「よいか、やり遂げてくだされよ」

岩戸の滝 奈良県吉野郡川上村井光520
 ここにも岩戸があるといわれていたのか?

 それは何だ?

井光神社の奥宮 奈良県吉野郡川上村井光520
 奥宮といわれているところは、井氷鹿(いひか)の居宅跡だ。

 西側にあり、その場所を祀っている。

井氷鹿(いひか)の井戸 奈良県吉野郡川上村井光520
 神武天皇が当地を訪れたとき、大きく窪んだ井戸から井氷鹿(いひか)が現れたという。
 おそらく神武天皇が訪れたときからこういう形だったのだろう。

 現場に立つと臨場感がある。

加弥比加尼(かみひかね)の墓 奈良県吉野郡川上村井光520

 加弥比加尼(かみひかね)の墓は、井氷鹿(いひか)の井戸と伝えられる大きな窪みの東側に立っている。

御船の滝 奈良県吉野郡川上村井光520
 御船の滝と大塔宮にも車で行ける。
 数台分だが駐車スペースがある。

 冬は滝全体が凍りつくことで有名だ。

大塔神社(大塔宮) 奈良県吉野郡川上村井光520
 神武天皇が戦勝祈願のため天之羽羽矢を納めたという伝承が伝わる。
 平成21(2009)年5月31日(日曜日)、阿紀神社に行った時、小さい女の子が弓矢で遊んでいる姿をみて大塔神社(大塔宮)には来なければならないのだと思った。

阿紀神社で弓矢で遊ぶ女の子  

 御船山とは、何らかの使命をもった船が、天からやってきたから「御船山」と名付けられたのだ。
 平成8(1996)年10月13日(日曜日)、島根県の船通山にも「船」が入っている。だから、「船通山」と呼ばれ続けてきたのだろう。
 「船」を持つ山は、地球が大きく変わる時、大きな働きをサポートする山なのかもしれない。
 丹生川上神社(中社)の本社が「御船山」という山の麓にあるのは、井光の「御船山」を偲ぶためかもしれない。
 さらに、神武天皇の吉野での拠点である宮滝の対岸に「御船山」という山があるのも、ここの「御船山」を偲ぶためのものなのかもしれない。

【地図】神武天皇「大和討ち」井光(いかり)  

【1ヶ所】平成21(2009)年6月27日(土曜日)、吉野の大蔵神社・・

大蔵神社 奈良県吉野郡吉野町南国栖343
 車を道路に止めて私だけ参拝してきた。
 結構歩くのだ。
 全員で参拝したかったのだが、どこにあるのか確証がないのと、展地が頭痛のため大事をとった。
 石穂押分命(いわほおしわくのみこと)がいなければ、神武天皇の「大和討ち」も難儀なものになっていただろう。

【地図】神武天皇「大和討ち」大蔵神社-宮滝  

【2ヶ所】平成21(2009)年6月27日(土曜日)、丹生川上神社中社・・

神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑 奈良県吉野郡東吉野村大字小968
 「神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑」のある位置が微妙なのだ。
 平成21(2009)年5月31日(日曜日)に行った雨師の丹生神社で、なぜ「お前たちのやっていることがうまくいくと思っているのか」と言われなければならないのか。
 雨師の丹生神社は丹生川上神社(中社)を勧請したものといわれているので、丹生川上神社(中社)のあり方に何らかの問題があるのだと思った。

 神社のあり方というより「神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑」のあり方が微妙だ。  

丹生川上神社(中社)の本宮 奈良県吉野郡東吉野村大字小967
 丹生川上神社(中社)の本社が「御船山」という山の麓にあるのは、井光の「御船山」を偲ぶためかもしれない。
 美穂のお転婆なところが緩和していくようにお願いしてきた。

【地図】神武天皇「大和討ち」丹生川上顕彰碑  

【1ヶ所】平成21(2009)年6月27日(土曜日)、葛城市にある長髄彦の墳墓・・

長髄彦墳墓 鍋塚(なべつか)古墳 奈良県葛城市竹内876
 神武天皇は制圧してきた土地では、その首領級を祀っている。
 長髄彦墳墓が葛城市で祀られているという事は、この地が長髄彦の勢力地であったことも示している。
 この場所は、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)の2番目の降臨場所の東側に当たっている。

 祝詞を奏上すると、古墳の礎石の隙間から黒いタール状の液体が流れ出てくる。  

 ここは、そういう場所なのだ。
 この黒いタール状の液体は、山形の墓に小さな橋をかけた時も流れ出てきていた。
 恨みや悔いや呪いの凝縮したようなものだと思う。

 黒いタール状の液体の発生には白山が関係しているような気がする。  

長髄彦墳墓と伝わる鍋塚(なべつか)古墳


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【地図】神武天皇「大和討ち」長髄彦墳墓
 平成21(2009)年6月27日(土曜日)の行程を全て終え、宿に向けて車を走らせていると、
 「明日(6月28日)矢合わせを行う
 という知らせを受けた。

 私が持っている矢と、饒速日命の矢、ならびに瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の矢を合わせ較べるのだ。  

 矢合わせで合わなかった矢は、それぞれの持ち主の元に返されるのだ。
 いわゆる、神世の「返し矢」といわれるものだ。
 何とかここまでこれたと思う。

 現実に即していうと・・

 悪言・嫉妬からの発言・誹謗中傷のような発言が、真心から言葉に混じって眞弓塚には封印されていたのだ。
 真心からの言葉は「矢合わせ」で救い出され、悪言・嫉妬からの発言・誹謗中傷のような発言はそれぞれそういう発言をした者達に帰っていくのだ。

 『定めの時』の「返し矢」だ。

 平成21(2009)年6月27日(土曜日)の宿泊は  

  かんぽの宿 大和平群  奈良県生駒郡平群町上庄2-16-1 (0745-45-0351)

 6月28日(日曜日)の朝、目を覚ますとき、  

「第二次天孫降臨じゃ」
 といわれる。
 第二次天孫降臨の跡を追え、ということなのだ。
 第一次天孫降臨と第二次天孫降臨は密接不可分に結びついているのだ。
 神武天皇の「大和討ち」は第一次天孫降臨の何らかの課題に関わっていたのだ。

【4ヶ所】平成21(2009)年6月28日(日曜日)、饒速日尊の宮定め・・

 矢合わせを行う太鼓の音が鳴り響いているかのようだ。

 まずは、饒速日命の妻で長髄彦命の妹でもあった美炊屋姫にご挨拶をしておきたいと思った。  

主人神社(ぬしと) 奈良県大和郡山市矢田町4815
 御炊屋姫を祀る神社。

 「一の矢」が落ちたといわれる場所の東側にある神社。  

一之矢塚 奈良県大和郡山市矢田町4786-3
 瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の時の第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)。
 65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊の養子として天下った。
 そのとき大阪府交野市の磐船神社から宮を定めるために3本の「矢」を放った。
 「第一の矢」が落ちた場所がここ。
 竹薮に埋もれて頭がチョコンと見えるだけだった。

 竹薮を踏み分けて、全体が見えるようにした。  

久志玉比古神社
の「二之矢塚
奈良県大和郡山市矢田町956
二の矢が落ちた所
 瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の時の第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)。
 65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊の養子として天下った。
 そのとき大阪府交野市の磐船神社から宮を定めるために3本の「矢」を放った。
 「第二の矢」が落ちた場所がここ。

 久志玉比古神社には平成12(2000)年8月に最初に訪問している。  

三之矢塚 奈良県大和郡山市矢田町1251
 瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の時の第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)。
 65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊の養子として天下った。
 そのとき大阪府交野市の磐船神社から宮を定めるために3本の「矢」を放った。
 「第三の矢」が落ちた場所がここ。
 邪馬台国の推定地として売りに出そうとしていた。

 神代の脈絡を少しでも知ると、饒速日命に失礼な気もするが・・  

【地図】神武天皇「大和討ち」饒速日尊の矢田丘陵

【8ヶ所】平成21(2009)年6月28日(日曜日)、長髄彦の反乱軍の鎮圧・・

天之忍穂耳神社〜神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑の西側にある 奈良県生駒市上町4712番(枝番は適当です)
 円証寺の並びにあるのかと思っていたら方向が全然違った。
 宅地造成中の向かいの家のおじさんに話を伺ったら、円証寺の裏にある山に祀られているという。
 宅地造成中の場所を抜けると、裏山に通じる道が新たに出来たからそこから行けばいいと教えてくれた。
 神武天皇の鵄邑顕彰碑から行くのが一番やさしい道のようだったが、そういう案内はどこにも載っていなかった。
 天之忍穂耳神社にたって、この神社を祀られたであろう饒速日命の人物を偲ぶことが出来た。
 やさしく、聡明なのだ。

 饒速日命は、第一次天孫降臨の課題を遂行することを嘱望されていたのだろう。

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑 奈良県生駒市上町4713番(枝番は適当です)
 神武天皇と長髄彦の戦闘が膠着状態に入り、戦況不利になったとき金鵄(きんし)がやって来て神武天皇の弓の先に留まり、状況が激変したと伝えられる。

 天之忍穂耳神社の西側にある。

【地図】神武天皇「大和討ち」生駒市の鵄邑顕彰碑の地図

伊弉諾神社(長弓寺にある) 奈良県生駒市上町4445(枝番は適当です)
 饒速日命は、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の喪祀りを永きにわたって行ったという。
 その場所がここの伊弉諾神社の地であろう。
 祝詞を奏上すると「長弓寺」本殿でも祝詞を奏上するように要請された。

 仏教寺院で祝詞を奏上するのは本当に数少ないのだ。

長弓寺 奈良県生駒市上町4445(枝番は適当です)
 長弓寺本殿の裏側に大きく削られたような土地があった。
 神社であれば、ここに本殿が建つものなのだ。
 そして後背地(眞弓塚がある)が神域となる。
 伊弉諾神社で長弓寺で祝詞を上げるように要請されたが、神代の昔は神社があったのだろう。
 何らかの事情によって、長弓寺の本殿となってしまったようだ。
 500年、1,000年の歴史のなかではそういうことも起こりうる。

 饒速日命と、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊を偲んで祝詞を奏上した。

長弓寺の善女竜王社 奈良県生駒市上町4445(枝番は適当です)
 室生龍穴神社の扁額が「善女竜王」であった。
 それ以来、「善女竜王」は気にかかる存在であった。

 以下は「善女龍王像とは」からの引用です

 かつて国家の基盤が農業にかかっていた頃、五穀豊穣(ごこくほうじょう)は人々の切実な願いであり、雨を降らせる力を持つ龍王に祈る事はしばしばあったようです。
 善女龍王もそのような龍王のうちの一尊ですが、善女龍王について説く儀軌(ぎき)はありません。それなのになぜ有名なのかといいますと、弘法大師空海の神泉苑の伝説による、と思われます。
 天長元年(八二四)、干ばつが続いたため朝廷は雨乞いの修法を執り行う事にしました。まず奈良の山階寺(興福寺)の守敏(しゅびん)僧都に祈雨を命じ、一週間修法を行ったのですが、都に少し降っただけで国中を潤すことはかないませんでした。
 そこで弘法大師が召され、宮中の神泉苑(京都・二条城の南方に現存します)にて「請雨経法」を修したのですが、一週間経っても雨は一滴も降りません。
 不思議に思い大師が調べたところ、前々から大師の名声をねたんでいた守敏(しゅびん)が呪力をもって全ての龍神を水瓶に閉じこめてしまっています。
 しかし唯一善女龍王のみが守敏(しゅびん)の手から逃れているのが見えましたので、この善女龍王を北インドの無熱池(むねっち)という池から呼び寄せ、三日間にわたり国中に大雨を降らせる事に成功しました。
 この時現れた善女龍王の姿は、「高野大師行状図画」では大蛇の頭の上に乗る小さな金色の蛇として描かれますが、雲に乗って冠を戴き、中国の衣服をまとう男性の姿で描かれる国宝・善女龍王像が有名で、本像は多くの写本が遺っています。
 よく見ると衣の裾から尾が出ており、「龍」であることをうかがわせます。平安時代末期に活躍した絵仏師定智(じょうち)の筆と判明する貴重な作品です。
 かつて高野山で祈雨の法を行う時には金堂に善女龍王の軸を掛けて祈願し、もし効験がない時には一山の僧が大瀧(現在の高野町大滝地区)に行って修法を行った、と「紀伊続風土記」に記載があります。
 このように善女龍王は弘法大師あるいは高野山と深い関わりを持つ尊です。高野山の伽藍にある蓮池の中央の小島には善女龍王を祀る社(やしろ)があります。

 以上は「善女龍王像とは」からの引用でした。

長弓寺の裏山に当たる眞弓塚 奈良県生駒市上町4445(枝番は適当です)
 眞弓塚に瓊々杵尊の兄・天之火之明尊の遺品を納めたらしい。
 この眞弓塚に、天之火之明尊や饒速日命の「矢」でないものが納められている場合、その持ち主に返されるのだ。

 現実に即していうと・・

 悪言・嫉妬からの発言・誹謗中傷のような発言が、真心から言葉に混じって眞弓塚には封印されていたのだ。
 真心からの言葉は「矢合わせ」で救い出され、悪言・嫉妬からの発言・誹謗中傷のような発言はそれぞれそういう発言をした者達に帰っていくのだ。

 『定めの時』の「返し矢」だ。

【地図】神武天皇「大和討ち」長弓寺の眞弓塚

「眞弓塚」という碑
上記の眞弓塚の東側にある。
奈良県生駒市上町5002(枝番は適当です)

 探しきれなかった。

生駒市高山にある鵄山(とびやま) 奈良県生駒市上町3410(枝番は適当です)
 郵便局の左の道を入っていくと、右前方に見える山が鵄山(とびやま)だ。
 右奥の作業小屋の左を通る野道をグルリと左に回って頂上に行こうとしたのだが、頂上に行くことが出来なかった。
 1回目のチャレンジで枯れた竹の葉が敷き詰められている急坂の山道を登っていったのだが、滑って転び、すべり台のように2メートルほど滑落してしまった。
 滑り落ちながら
「第一次天孫降臨はこうやって失敗したのか」
 と思っていた。
 人家のある方に山を下り、近くの家の奥さんに尋ねた。
「神武天皇の金鵄発祥之碑があの山にあるというが、どうやっていったらいいのだろう」
「この山にそんなものがあるとは聞いていないが・・」
「その山に行くのなら・・」
 といって道を教えてもらった。
 池のほとりを行く道だとマムシがいて危険だというので、1回目のチャレンジで滑落したコースの左側の部分を登った。
 急だが足場はシッカリしている。
 狭い頂上に立つと、倒木が道を塞いでいる。その先に碑が見えたので倒木を越えていった。
 この倒木は、私のような物好きが金鵄発祥之碑を訪ねて登ってくるので、土地所有者が封鎖しようとしているのだろうか?
 祝詞を奏上していると
「至急この地を立ち去るように」
 という。
 私が訪ねてくるまではこの土地に入れるようになっていたが、私が来たからにはどうなるのかわからないという。
 この地では、私は歓迎されない人物であるらしい。
 神武天皇は鵄山(とびやま)に前線を張って長髄彦の反乱軍と戦ったが打ち破れないでいた。

 そこに金鵄(きんし)が飛んできたのだという。

 7月2日(木曜日)のtakahashiさんの話からすると、この金鵄(きんし)とは、長髄彦の妹・御炊屋姫のことであろう。

 金鵄(きんし)が神武天皇軍に行ったことに衝撃を受けて、長髄彦は饒速日命の元に行った。

 饒速日命は長髄彦の説得を試みたが、改心の様子がない長髄彦を見て刺し殺し、神武天皇に帰順したと伝えられている。

 山を降りて、先ほど道を尋ねた奥さんにお礼をいい、鵄山(とびやま)を後にした。

【地図】神武天皇「大和討ち」鵄山(とびやま)の金鵄伝承

「長髄彦の本拠」という碑 奈良県生駒市上町2745-1(枝番は適当です)
 神武天皇軍は、鵄山(とびやま)に前線を張っている。
 長髄彦はこの地に本陣を置いたのだろう。

 神武天皇軍は長髄彦の反乱軍を打ち破れなかったのだ。

「鳥見の白庭山」という碑 奈良県生駒市上町2760(枝番は適当です)

 ここも白庭山の伝承地だ。

【地図】神武天皇「大和討ち」長髄彦の反乱軍の鎮圧

【5ヶ所】平成21(2009)年6月28日(日曜日)、生駒山直越え(いこまやまただごえ)・・

「厄山」と刻まれた石碑 大阪府東大阪市善根寺町1丁目
 準備中
神武天皇聖蹟 孔舎衛坂顕彰碑 大阪府東大阪市善根寺町1丁目
 準備中
龍の口霊泉
(五瀬尊の傷口を洗う)
大阪府東大阪市善根寺町1丁目
 準備中
春日神社 大阪府東大阪市善根寺町6丁目7-67
 準備中
神武天皇聖蹟 盾津顕彰碑 大阪府東大阪市
 準備中
【地図】神武天皇「大和討ち」生駒山直越え(いこまやまただごえ)

 平成21(2009)年6月28日(日曜日)に帰京  

【13ヶ所】平成21(2009)年6月27-28日(土曜日・日曜日)、参考地へ

哮峯 大阪府東大阪市
 準備中
饒速日山(日下山) 奈良県生駒市門前町2116
 準備中
生駒山 奈良県生駒市菜畑町2313-204
 準備中
石切劔箭神社(いしきりつるぎや) 大阪府東大阪市東石切町1−1−1
 準備中
石切神社(上の社)
婦道神社がある
大阪府東大阪市上石切町2丁目1302
 準備中
高貴寺 大阪府南河内郡河南町平石539
 準備中
磐舟神社 大阪府南河内郡河南町平石456
 準備中
磐船神社 大阪府交野市私市9丁目19-1
国照宮が饒速日尊として降臨したところ。
 準備中
宝山寺の福徳神社 あいう
 準備中
生駒山口神社 あいう
 準備中
饒速日尊墳墓 奈良県生駒市南田原町767(枝番は適当です)
遺品を祀った饒速日尊御陵の遥拝所だったのでしょう。
 準備中
日の窪山 奈良県生駒市南田原町767(枝番は適当です)
 準備中
夫婦塚(御炊屋姫墳墓) 奈良県生駒市上町1132(枝番は適当です)
 準備中