大台ケ原、大迫ダムを経て井光(いかり)へ 吉野川上流の大迫ダム
大台ケ原から宮滝までの「大和討ち」の時の行程
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「大和討ち」の時の行程とは別に、神武天皇即位4年、鳥見山霊畤(まつりのにわ)の時の行程がある
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大台ケ原を経て吉野川の大迫ダムへ(6時49分到着)
【伝承アリ】大台ケ原、井光(いひか)、五社峠、白倉山、宮滝への連続的伝承。
(※)吉野をめぐって、『日本書紀』と『古事記』の記述の違いが出てくるのは、神武天皇が井光(いかり)に二度来られている(後述)からだろう。
そこから北西方向の尾根に沿って下り、吉野川上流の大迫ダムに出る。
大台ケ原で県境越えとなり吉野川流域に入る。
経ヶ峰から現在の大台ケ原ドライブウエーに沿って尾根筋を歩き、伯母が峰に出る。そこから北西方向の尾根に沿って下り、吉野川上流の大迫ダムに出る。
大迫ダム
大迫ダム湖
吉野川の下流方向を撮影・・
大台ケ原を出発し、大迫ダム周辺を過ぎた辺りで苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのか?
吉野川に沿って下ると北和田に着く。大台ケ原からここまで約15km。
吉野川で最初に出あったのが、苞苴擔(にへもつ)の子と古事記は伝える。
しかし、苞苴擔(にへもつ)の子に出会った場所は、古事記によると吉野川の川尻(川下)とある。
吉野川の下流であれば位置が大きくずれるので、苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのは神武天皇即位後に吉野に来られた時のことなのではないか。
大台ケ原から井光まで
吉野川の上流からから川沿いに下り、約3kmで井光川(いひかがわ)との合流点に着く。ここで、井氷鹿(いひか)に出会ったのであろう。
この行程は2日程度であろう。
【伝承アリ】井光から南国栖まで
井光からは川に沿って下り、大滝から五社峠を越えて降りたところが南国栖である。行程12kmでここまで1日であろう。
ここで、石穂押分命の子に出会った。
彼は、衣笠山の頂上より遥かに高見山を指してその付近の情勢を神武天皇に奏上したと伝えられている。
神武天皇はここから、大和への侵入経路を確認したことであろう。
【伝承アリ】南国栖から宮滝まで
南国栖から川沿いに約7km下ると宮滝に着く。神武天皇が大和に侵攻するにはまだ各地に長髄彦の反乱軍が多い。
日向から連れてきた人々の多くは二木島の遭難で失われており、高倉下が人数を多く派遣してくれはしたものの長髄彦の反乱軍を押し切るほどの戦力には程遠い。
幸いにもこの段階で長髄彦の反乱軍にとって神武天皇は消息不明になっており、警戒を解いていたと思われる。長髄彦の反乱軍に所在を知られるのは時間の問題であるが、それまでに、周辺の豪族を長髄彦の反乱軍を鎮圧する方に動かさなければならない。
その本拠地として選んだのが宮滝の地である。
ここに宮を作ることにより、熊野越えは終わる。
全行程約100kmで、10日前後を要したと思われる。
神武天皇は戊午8月2日には兄猾、弟猾を呼んでいるので、7月中には宮滝に着いていたと思われる。戊午8月2日は現在の10月中旬である。
宮滝を拠点として天皇は周辺豪族を協力させ、大和進入の準備をするのである。
『日本書紀』と『古事記』の記述の違いは、天皇が井光に二度来られているから
最初に井光(いひか)に来られたのは「大和討ち」の時の紀元前663年(即位前3年)天鈴(あすず)55年、
次が紀元前657年(即位4年)天鈴(あすず)61年の鳥見山霊峙(まつりのにわ)の時期であろう。
その出会ったといわれている場所は、井氷鹿(いひか)が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
この経路は北から南への流れとなっており、実際の神武天皇の南から北への流れとは逆になっている。
また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。
また、蟹井神社に神武天皇が来たとき、五条市近辺にいた長髄彦反乱軍の行動をつかんでいるはずであり、五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。
このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。
それを解明するのが、井光神社の伝承である。
とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。
全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。
井光(いかり)の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。
この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。
川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。
熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。
それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。
この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。
この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。
神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年のことであろう。
次が紀元前657年(即位4年)天鈴(あすず)61年の鳥見山霊峙(まつりのにわ)の時期であろう。
この2つの事実の混同のため、『日本書紀』と『古事記』では熊野山中を抜けるコースが異なっている。
【日本書紀における熊野山中を抜けるコースは北から南だ】
日本書紀では、宇陀の穿邑に到着し、兄猾(えうかし)を制圧した後、吉野川沿いで、井氷鹿(いひか)、石穂押分命の子、苞苴擔(にへもつ)の子と出会ったと記録されている。その出会ったといわれている場所は、井氷鹿(いひか)が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
この経路は北から南への流れとなっており、実際の神武天皇の南から北への流れとは逆になっている。
また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。
また、蟹井神社に神武天皇が来たとき、五条市近辺にいた長髄彦反乱軍の行動をつかんでいるはずであり、五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。
このように、順路、伝承の点から推察して明らかに古事記の方が正しいと思われる。
神武天皇は十津川沿いに大和に侵入したという説も存在するが、この経路上に神武天皇通過伝承地は存在せず、また、吉野川沿いに比べてかなり危険なコースである。このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。
では、日本書紀のコースは一体何なのであろう。
その元となる伝承があったはずである。それを解明するのが、井光神社の伝承である。
井光神社の伝承では
「大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。」(A伝承)とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。
その次の具体的な経路を示す伝承は
「鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかる」(B伝承)全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。
A伝承が古事記で、B伝承が日本書紀に沿っているのである。
これより、神武天皇は井光に二度来たと解釈される。それを裏付けるのが、大塔宮(奥の院)の伝承である。
「大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し、遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところ」井光(いかり)の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。
おそらく神武天皇4年の鳥見山霊峙の時期に近いのであろう。
この時神武天皇は吉野に宮を構え、大和進入時に協力してくれた豪族たちを訪問して労を労ったものであろう。この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。
古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点
神武天皇の大和侵入経路で古来より問題になっているのが、古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点である。川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。
熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。
それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。
この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。
この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。
神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年のことであろう。
大台ケ原から大迫ダムを通って井光(いかり)までの地図
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