宮滝(宮瀧)遺跡のトップページ
神武天皇、宇陀制圧の前編(→ 後編の山場は笑ヶ嶽を通過できるかどうかだった )
宮滝 | 宇陀の高城 | 桜実神社| 宇賀神社 | 穿邑顕彰碑 | 三島神社 | 田口の血原橋 | 熊野神社 | 宮城(みやしろ) | 高城岳(たかぎだけ) |
宮滝(宮瀧)から菟田の高城までで神武天皇に関わるかもしれない神社
十二社神社 | 岩神神社 | 大蔵神社 | 川上鹿塩神社 | 吉野山口神社 ・ 高鉾神社 | 剣主神社 | 宮奥ダム天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、吉野の宮滝(宮瀧)に仮宮を造営
天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮瀧へ到着し、仮宮を造営する。
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮瀧へ到着し、仮宮を造営する。
宮滝(宮瀧)の全景
宮滝(宮瀧)を有名にしたのは壬申の乱だ
大化の改新(645年)を推し進めた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は即位し、天智天皇となった。天智天皇の死後の皇位は皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が継承することになっていたが、天智天皇の心が天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に継承する方向に傾いていったため、天智天皇の死後、吉野宮瀧において挙兵した。
壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。
反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
多くの人はあまり疑問に感じないようなのだが、
問題は、なぜ皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が吉野の宮瀧で挙兵するのか?という一点に置かれる。
吉野宮瀧が挙兵の宣言地に選ばれるだけの理由がなければならないはずである。
私の感覚では、神武天皇の宮瀧での伝承がなければ、挙兵の宣言地に選ばれなかったような気がする。
歴史民族記念館からは青根ヶ峯の頂を遥拝することができ、さらに、眼下に宮瀧遺跡をみることが出来る。歴史民族記念館から十二社神社のある辺りは、仮宮の本陣を置くには得がたい立地である。
私なら、宮瀧の仮宮を十二社神社から歴史民族記念館の近辺に置いただろう。
長髄彦の反乱を鎮圧するために神武天皇は、宇陀方面から制圧した。
高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。
弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。
長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。
この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。
剣根命は恭順した。
高倉下は弟猾(おとうかし)と共に宮滝まで戻りこのことを報告した。弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。
佐野命は軍を整え、宮滝を後にした。
津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の長髄彦反乱軍の豪族軍の様子を調べた。長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。
佐野命は兄猾(えうかし)の本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。
兄猾(えうかし)は部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどは弟猾(おとうかし)に協力を誓っていたので、兄猾(えうかし)に協力を申し出るものは少なかった。この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
吉野歴史資料館と十二社神社のある辺りに仮宮を造ったのだろうか?
吉野歴史資料館の手前にある十二社神社は、吉野川の向かいに構える象山(きさやま)を遥拝する位置にあり、昔なら眼下に宮瀧遺跡をみることが出来ただろう。
歴史民族記念館から吉野の青根ヶ峯が見える
吉野歴史資料館の前庭の左手には木製のベンチが置いてあります。その辺りで南の方を見ると飛鳥時代に信仰を集めた青根ヶ峯(吉野)の山頂を望見できます。吉野は子守神の聖地。
こういうロケーションは仮宮の本陣を置くには変えがたいものがある。
宮瀧の周辺図
神武天皇の伝承の地図
Copyright (C) 2002-2009 「月の光」成田亨 All Rights Reserved.
お問合せはこちらのメールフォームからお願いします。※当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます。