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高城岳(たかぎだけ)頂上にある小祠・・
ご祭神
神日本磐余彦命高龗神(たかおかみのかみ)
高城岳(たかぎだけ)は神武天皇滞在の聖蹟と伝えられている
高城岳(たかぎだけ)は神武天皇滞在の聖蹟と伝えられている。山頂に直径60cm程の球形の石を神籬(ひもろぎ)とする、神日本磐余彦命、高龗神(たかおかみのかみ)を祀る小祠がある。
周辺の葛神社、十八社神社、椋下神社、天神神社、雨師丹生神社、八咫烏神社、高角神社、桜実神社、龍穴神社、八竜五社神社等、神武天皇関連人物を祭る神社は悉く高城岳を向いているといわれている。
高城岳から東の展望は三郎岳があるので利かないが、南から西への展望は良く利く。
晴れた日には、大和盆地の先に大阪湾も見えるほどである。
高城岳(たかぎだけ)の南側(内牧)と東側(田口)に兄猾(えうかし)が討たれたという血原伝承地があることから、長髄彦の反乱軍に加担した兄猾(えうかし)の領域に属していたのだろう。
宇賀志の血原で兄猾(えうかし)を制圧した後で、その支配地域を鎮圧し、その全域の豪族が恭順した後、高城岳に望楼を造ったのだろう。
展望画像は下記のアドレスから
http://papamama.tuzikaze.com/saburoudake/top.html高城岳(たかぎだけ)から宇陀-大和方面の状況を探る・・
天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、宮滝に仮宮を造営し周辺の状況を探る
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮滝へ到着し、仮宮を造営する。
宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下命、八咫烏命などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
八咫烏命は、石穂押分命に導かれて吉野川を遡り、新子 → 野々口 → 下出 → 中黒 → 栗栖 → 丹生川上中社を経て高見川流域一帯の豪族を恭順させた。
佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
高倉下は宮滝から吉野川を下って河原屋に至り、津風呂川沿いに川を遡り、山口を経て三茶屋に達した。
高倉下は三茶屋で、弟猾(おとうかし)に会った。
弟猾(おとうかし)は快く協力を申し出た。弟猾(おとうかし)の協力により宇陀市南部地域の豪族は悉く恭順した。
高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。
剣根命は恭順した。
高倉下は弟猾(おとうかし)と共に宮滝まで戻りこのことを報告した。弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。
佐野命は軍を整え、宮滝(宮瀧)を後にした。
津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の長髄彦反乱軍の豪族軍の様子を調べた。長髄彦の反乱を鎮圧するために神武天皇は、宇陀方面から制圧した。
早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。
佐野命は兄猾(えうかし)の本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。
兄猾(えうかし)は部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどは弟猾(おとうかし)に協力を誓っていたので、兄猾(えうかし)に協力を申し出るものは少なかった。この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
高城岳から、宇陀〜大和盆地の様子を探る・・
高城岳頂上の標識
高城岳頂上の小祠
長髄彦の反乱軍の豪族たちは、宇陀と桜井の境の国見丘(くにみのたけ)に防衛線を張っている。
八十梟師(やそたける)が、その最前線に出陣して来ており、桜井市外山(とび)に軍を集めている。
後の弟猾(おとうかし)の本拠地になった大宇陀区下竹周辺を経由し反撃しようとしているらしい。
八十梟師(やそたける)は軍を二つに分けた。
別動隊を粟原川を遡り桜井→忍坂→男坂→岩室へと進軍させ、磐余邑に隠した。
主力軍は音羽から経ヶ塚山山麓(国見原)に陣を張った。
兄倉下(ゑくらじ)軍と弟倉下(おとくらじ)軍は、
桜井市から榛原の墨坂(現在の西峠付近)に陣を張り、墨を起こしてこの周辺にやってきた佐野命軍に炭火を浴びせようとしていた。神武天皇は、高倉山まで進軍した・・
神武天皇は、高倉山まで進軍した。
9月5日、磐余彦尊は莵田の高倉山の頂に登って国中を眺めた。
国見丘(くにみのたけ)には、八十梟帥(やそたける)だけではなく、さらに、饒速日尊(にぎはやひのみこと)もやってきているようだ。
11月初旬頃、
兄磯城(えしき)の軍は磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がない。
その夜、
神武天皇は神に祈って眠った。すると、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れて言った。
「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗(あまつやしろくにつやしろ)を祀り敬いなさい。また厳呪詛(いつのかしり)をしなさい。そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」
翌日、弟猾(おとうかし)も同じことを進言してきた。
こうして、椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾(おとうかし)を天香具山へ派遣することになった。椎津根彦(しいねつひこ)は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化けさせ、弟猾(おとうかし)には箕を着せて老婆に化けさせて天香具山に向かわせたのだった。
敵軍は道を覆い通る事も難しかしい。
椎津根彦(しいねつひこ)は御神意を問うた。「我が君がこの国を良く治める事が出来る人物で有れば、道は開けるだろう。それが出来ぬ人物で有れば敵が道を塞ぐだろう。」
椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾(おとうかし)は意を決し、反乱軍の真っ只中を通る、
「なんて汚い翁と媼だ。」とあざけり笑い、反乱軍は二人に道を開けた。
そして無事に天香具山の社の中の土を持って帰ることが出来たのである。
笑ヶ嶽とは、道を通していいかどうかを見極める最大の関門になっていたらしい。
莵田川の朝原で水沫(みなは)の様にかたまり着くところがあった。
磐余彦尊は神意を占った。
「私は八十の平瓦で水なしに飴を作ろう。もし飴が出来れば、武器なしに天下を治めることが出来るだろう。」
はたして飴はたやすく作ることが出来た。
さらにまた神意を占った。
「私は今御神酒を入れた器を丹生の川に沈めよう。もし大小の魚が全部酔って、ちょうどまきの葉が流れる様に流れたら自分は天下を治めることが出来るだろう。もしそうならなければ、事を成し遂げることは出来ないだろう。」はたして器を投げ込んでしばらくすると魚が浮き上がってきて流されていった。
椎根津彦がその事を報告すると、磐余彦尊は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして諸神にお祀りした。このときから祭儀の際に御神酒瓶の置物が置かれるようになった。
朝原祈祷の後、和歌が饒速日尊に届けられ、饒速日が退却・・
国見(くにみ)が丘に | 桜井市と宇陀市の境界をなす音羽山のこと。 | |
軍(いくさ)立て | 作る御歌(みうた)に | |
神風(かんかぜ)の | 伊勢(いせ)の海(うみ)なる | |
古(いにしえ)の | 八重(やえ)這(は)ひ求む | 古え、千暗の罪を免れ下民となって各地を放浪していた素盞鳴尊のこと。 |
細螺(しただみ)の | 吾子(あこ)よよ吾子(あこ)よ | 「細螺」とは、そろばん玉の形をした高さ2cmくらいの巻貝(食用)のこと。 |
細螺(しただみ)の | い這(は)ひ求めり | 細螺(しただみ)と「下民(したたみ)」を掛けている |
討(う)ちてし止(や)まん | ||
この歌お | 諸(もろ)が歌(うた)えば | |
仇(あだ)が告(つ)ぐ | 暫(しばし)し考(かんが)ふ | |
饒速日命(にぎはやひ) | 「流浪男(さすらを)よす」と | 素盞鳴尊が流浪男(さすらを)になったことをさす。 |
雄叫(おたけ)びて | また一言(ひこと)がも | |
「天(あめ)から」と | 軍(いくさ)お退(ひ)けば | 神武天皇の軍勢が天意を受けた正当なものである、と認識するに至った。 |
味方(みかた)笑(ゑ)む |
朝原祈祷の後の饒速日尊の退却を受け、八咫烏命を兄磯城と弟磯城に派遣
さらに、神武天皇は八咫烏(やたのからす)を遣いに出した。
八咫烏(やたのからす)は兄磯城の陣営に行って鳴いた。「天神の子がお前を呼んでいる。」
兄磯城(えしき)は
「天神が来たと聞いて、慌ただしいときに何故烏がこうも五月蠅いのか。」と怒って弓で射た。烏は逃げ去った。
次に弟磯城(おとしき)の家に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」弟磯城(おとしき)は
「私は天神が来られたと聞いて朝も夜も畏まっていた。烏よお前がこんなに鳴くのは良いことである。」と言って、皿八枚に食べ物を盛って烏をもてなした。
そして、弟磯城(おとしき)は八咫烏(やたのからす)に導かれて磐余彦尊のもとに参じた。
弟磯城(おとしき)は状況を告げる。
「我が兄の兄磯城(えしき)は、天神の御子が来ると聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整えて決戦しようと考えています。磐余彦尊も速やかに準備された方が良いと思います。」「聞いての通り、兄磯城(えしき)はやはり我々と戦うつもりらしい。どうすればよいか。」
「兄磯城(えしき)は知恵者です。まず弟磯城(おとしき)を使者に出して降伏を進めてはいかがでしょう。あわせて兄倉下(えくらじ)と弟倉下(おとくらじ)も諭させて、それでも従わぬ場合に戦いを仕掛けても遅くないでしょう。」磐余彦尊はこの案を取り入れて弟磯城(おとしき)を遣いに出して降伏を進めた。
だが兄磯城(えしき)は承知しなかった。八十梟師(やそたける)軍の方から戦いは仕掛けられた・・
八十梟師(やそたける)軍の方から戦端が切り開かれた。
八十梟師(やそたける)軍は国見丘に本陣を張り、磐余に別働隊を控えさせている。迫間のメメ坂に女軍を配置し、その女軍をけしかけ、大東の佐野命軍本体を陽動した。
佐野命軍が女軍に襲い掛かったとき、磐余の別働隊がその背後を襲い、国見丘の本隊と別働隊で挟撃し佐野命軍を殲滅する作戦であった。
ところが、高城岳で八十梟師軍の動きを察知していた佐野命軍はこの陽動作戦には乗らず、母里に控えさせていた別働隊を磐余に隠れている八十梟師軍の別働隊に北側の小附付近から襲撃させた。
迫間周辺に達したとき、今度は南から佐野命軍本隊の襲撃を受けた。
別働隊は神武天皇軍に挟撃される形になり、本隊の控える国見丘に向けて逃げ落ちようとしたのだが、本郷の横枕でその多くは戦死した。
国見丘の八十梟師軍本隊は、別働隊が挟撃されているのに気づくのが遅く、手の打ちようがなかったのだ。
10月1日(現在の11月中旬)に、
佐野命は迫間の阿紀神社の地に本拠を構え、国見丘の八十梟師軍本隊を鎮圧した。忍坂の大室(女寄峠の麻生田の是室山)で八十梟師軍の敗残兵の掃討
反乱軍の残党の掃討作戦を実施するためには、反乱軍の残党を一箇所に集める作戦を練った。
地元の事情を良く知っている弟磯城(おとしき)の配下を残党にしたてて、忍坂に大室をつくり、そこに反乱軍の残党を集めた。反乱軍の残党にしてもある程度の戦力の結集がなければ神武天皇軍と対決しがたいがために、情報を聞いた残党が集まってきた。
道臣命は、反乱軍の残党を盛大な酒盛りで欺き、一挙に殲滅した。
これにより、現宇陀市一帯は墨坂の弟倉下軍が残っているだけの状態になった。墨坂(榛原)の弟倉下(おとくらじ)を制圧し、桜井市の慈恩寺佐野へ・・
これで、桜井市と宇陀市において長髄彦の反乱軍がいるのは、外山〔とび〕(桜井市)に本陣を張る兄磯城(えしき)・兄倉下(えくらじ)、宇陀市内の墨坂(榛原)に拠点を置く弟倉下(おとくらじ)だけである。
佐野命はどのようにして大和を制圧したら良いかを話し合った。
女寄峠を確保したが、ここから大和に攻め込めば、背後の墨坂から弟倉下軍に襲撃されるのは明らかである。そこで、神武天皇は女寄峠に女軍を配置して、墨坂の弟倉下軍を女寄峠に誘き出す作戦を練った。
墨坂の弟倉下軍を女寄峠に誘い出し、手薄になった墨坂を制圧し、すぐさま女寄峠と桜井市外山(とび)に軍を回す作戦である。
そのためには、別働隊を伊那佐山経由して墨坂の背後に回らせる必要がある。
11月7日、
本拠地としている阿紀神社の地より、まず、女軍・弟猾軍を女寄峠方面に派遣した。しばらくして、佐野命自身が別働隊を率いて高倉山の南を東に向かった。
母里より芳野川を渡り伊那佐山を通過して西谷川沿いに出て、檜牧周辺に軍を控えさせ、墨坂の弟倉下(おとくらじ)軍を様子を観察した。
女寄峠の女軍が配置を完了し女軍の陽動作戦が開始された。
反乱軍の見張り役がその動きを察知し、外山(とび)の兄磯城(えしき)、墨坂の弟倉下(おとくらじ)の方へ連絡。
兄磯城(えしき)の方は軍を集めて、その主力を兄倉下に任せ、女寄峠に向かわせた。
墨坂の弟倉下(おとくらじ)軍は兄磯城(えしき)軍との協調により佐野命軍を挟撃する絶好の機会であるとその主力を女寄峠方面に向かわせた。
墨坂の弟倉下(おとくらじ)軍主力が西へ移動したのを確認した佐野命は、宇陀川を下り福地岳の東側を回りこみ、「西峠」の墨坂陣地(墨坂伝承地)に北側から一挙に攻め込んだ。
留守部隊しか残っていないところへ東から佐野命の大軍を受けた留守部隊は周辺に火を放って抵抗した。
佐野命は川(宇陀川の支流・鳥見町付近と思われる)を堰きとめてその水で火を消し、墨坂を制圧した。
すぐに佐野命は軍を二手に分け、道臣命に一軍を預け、弟倉下(おとくらじ)軍を追って女寄峠に向かわせ、自らは外山(とび)の兄磯城(えしき)軍本拠地に向かった。
弟倉下(おとくらじ)軍は女寄峠に向かっているとき前面からの弟猾軍と、背後からの道臣命軍によって挟み撃ちに会い、笠間にて全滅した。
弟猾(おとうかし)軍及び道臣命軍は連合して忍坂道を遡ってくる兄磯城(えしき)軍主力と戦うことになった。
外山(とび)の兄磯城(えしき)軍はその主力を女寄峠に向かわせたので、兄磯城(えしき)自身が少数の留守番部隊とともに残っていた。
佐野命率いる主力部隊はこの留守部隊をめがけて、墨坂から初瀬川を下り一挙に襲った。兄磯城(えしき)留守部隊は虚を着かれまもなく壊滅した。
外山(とび)の兄磯城(えしき)軍を破った佐野命はここに本拠地をおいて、周辺の守備を弟磯城(おとしき)に任せ、兄磯城(えしき)軍主力を逆に挟撃するため、すぐさま忍坂道を遡った。
兄倉下(えくらじ)率いる兄磯城(えしき)軍主力は相当の戦力を持っていたが、佐野命の全軍に挟撃されたため、活路を見出すこともできず、兄倉下(えくらじ)戦死後全軍が投降して来た。
投降して来た兵士は数が多く、「磐(兵士)が余れり」ということで、この周辺の地を「磐余」という様になり、佐野命は敵の兵士といえど、投降して来た以上は自らの民となる人々であるということを忘れないという意味で、自らの名を「磐余彦」と改名した。
これにより磐余彦はついに大和の地に立つことができたのである。
その最初の本拠地は桜井市慈恩寺佐野である。
高城岳(たかぎだけ)周辺図
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