神武天皇に協力された石穗押別命を祀る岩神神社(いわかみ)トップページ
神武天皇、宇陀制圧の前編(→ 後編の山場は笑ヶ嶽を通過できるかどうかだった )
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ご祭神
石穗押別命天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、宮滝に仮宮を造営し周辺の状況を探る
天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮滝へ到着し、仮宮を造営する。
宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下命、八咫烏命などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮滝へ到着し、仮宮を造営する。
宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下命、八咫烏命などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
石穂押分命
現在の吉野町・東吉野村一帯が勢力圏であったと思われる。国栖神社・川上鹿塩神社・大蔵神社等、この地域に石穂押分命を祭った神社が非常に多い。
神武天皇の仮宮があったといわれている宮滝はこの命の勢力圏である。
また、佐野命が周辺を視察したと伝えられている大蔵神社・烏の塒山・龍門岳いずれもこの勢力圏にある山であり、烏の塒山・龍門岳は北側の領域境界線上であると思われる。
佐野命は石穂押分命の協力を得て、周辺の情勢を把握している姿が浮かび上がってくる。
大蔵神社
祭 神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。
東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。
吉野国栖の祖神を祭る。
「神武天皇遥拝所」が近くにある。
この遥拝所は「石穂押分命の子が神武天皇に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。
長髄彦の反乱を鎮圧するために神武天皇は、宇陀方面から制圧した。
八咫烏命は石穂押分命に導かれて、吉野川を遡り、新子 → 野々口 → 下出 → 中黒 → 栗栖 → 丹生川上中社を経て高見川流域一帯の豪族を恭順させた。
佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。
弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。
長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。
この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。
剣根命は恭順した。
高倉下は弟猾(おとうかし)と共に宮滝まで戻りこのことを報告した。弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。
佐野命は軍を整え、宮滝(宮瀧)を後にした。
津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の長髄彦反乱軍の豪族軍の様子を調べた。長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。
佐野命は兄猾(えうかし)の本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。
兄猾(えうかし)は部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどは弟猾(おとうかし)に協力を誓っていたので、兄猾(えうかし)に協力を申し出るものは少なかった。この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
本殿
岩神神社の周辺図
神武天皇の伝承の地図
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