大阪城【1】ここだけは紹介しておきたい!|大阪府

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大阪市中央区大阪城1−1( いつもNAVIによる広域地図
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 平成23(2011)年8月14日(日)、「神武天皇大和討ち」難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑

大阪天満宮難波之碕顕彰碑大阪城豊国神社(ほうこく)第16代 仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」
第16代 仁徳天皇の「高津宮(こうづぐう)」神武天皇の「生国魂神社(生國魂神社)」

 平成23(2011)年8月14日(日)、「神武天皇大和討ち」孔舎衛坂での敗戦

春日神社古戦場碑「龍の口霊泉」碑孔舎衛坂(くさえのさか)顕彰碑「厄山」と刻まれた石碑
「国見山」と呼ばれる「石の塊」「哮ノ峯(生駒山の北麓)」

 平成23(2011)年8月14日(日)、盾津(たてつ)顕彰碑まで退却し梶無神社の地に再上陸

盾津(たてつ)顕彰碑石切劔箭神社(いしきりつるぎや)石切神社(上の社)登美霊社婦道神社
宮山にある石切神社の元宮枚岡神社神津嶽(かみつだけ)の枚岡神社の本宮(元宮)梶無神社

生國魂神社移転後、生駒山の石を城石にし大阪城の築城・・

参拝履歴

大阪城築城の経緯、難波宮 → 本願寺8世法主蓮如が石山本願寺・・

 古代、難波宮が営まれ、宮殿を中心に壮大な難波京のプランが立てられました。
 この難波京は8世紀末長岡京遷都を機に廃墟と化しましたが、15世紀末本願寺8世法主蓮如がその付近の摂津国東成郡生玉庄大坂という在所に一宇の坊舎を立てたのをきっかけに新たな活気が生まれ、16世紀にはその一帯が大坂本願寺、通称石山本願寺とその寺内町大坂として繁栄するところとなりました。
 しかし、戦国の世を生き抜くため城郭化をすすめた石山本願寺は、織田信長との長い戦いの末、天正8年(1580)寺地を明け渡して紀州へ移ったとき、堂塔伽藍が寺内町もろとも全焼しました。
 信長はその廃墟を将来のため手中に収めたものの、活用できないままこの世を去りました。
 大阪城と大阪の直接の起源とされる豊臣秀吉の大阪築城は以上の前史をふまえて実現したものです。
 天正11年(1583年)、攝津国を入手した秀吉公は、早速大阪の“旧城”(石山本願寺)跡地に天下統一の拠点とするべき大城郭の築造を企て支配下の諸大名、諸職人、諸商人を総動員して同年天正11年(1583年)9月着工しました。およそ1年半でまず本丸が完成。
 ついで二の丸、数年後に惣構(そうがまえ)、最後に死の直前に三の丸の築造というように、2キロメートル四方にも及ぶ鉄壁の巨城の完成には15年もの長い年月と尨大な労力を要しました。
 築城当初、1日2、3万人の人々が工事に携っていましたが、後には5、6万人も動員されたと、当時の記録は伝えています。
 また、築城開始後わずか40日間に7,000戸もの家屋が大阪城周辺に建てられたとも伝えられています。
 少なく見積もっても築城工事は5、6万人もの人々の大阪への集団移住を促し、必然的に城下町の基礎を形成しました。
 当時、京都に次ぐ大都市堺の人口が約5万人だったことからみても驚くべき大都市の出現といえるでしょう。
《『大阪城歴史散策』渡辺武・保育社・1992》

 『出世開運の神様 豊國神社ホームページ - 秀吉公について -』からの引用

大阪城築城のさい、難波宮の前の生国魂神社や高津宮(こうづぐう)の遷座

 大阪城築城のさい、「生国魂神社」や「高津宮(こうづぐう)」が遷座させられている。

 『Wikipedia』(ヴィキペディア)「生国魂神社(生國魂神社)」からの引用

 石山本願寺建立の際には、この神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。
 また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、神武天皇の生国魂神社(生國魂神社)の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。
 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。
 天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。

 大阪城のある土地周辺は、神代の聖地としての霊脈があるところらしい。

 豊臣秀吉は、大阪城を築城するさいに、第一次天孫降臨の聖地にあたる生駒山の岩を切り出して礎石と使用されている。
 大阪城の礎石に向かって祝詞を奏上すると、生駒山と神代の昔の霊脈が呼び起こされる理屈になる。

大阪天満宮の地図

難波之碕顕彰碑から第16代仁徳天皇陵