大津シノ宮を探せ!【1】ここだけは紹介しておきたい!|滋賀県

マピオン地図
滋賀県大津市園城寺町周辺 ( マピオンによる広域地図
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 平成21(2009)年5月5日(火)、滋賀県大津市で周った神社

大津シノ宮を探せ!三尾神社長等神社天孫神社(近江_四之宮)関蝉丸神社(下社)
三井寺の金堂九頭龍が住んでいる三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」三井寺の影向石近江神宮唐崎神社

大津シノ宮とは・・

大津シノ宮を探すキッカケになったのは・・

 九頭龍の痕跡を探りたくて平成21(2009)年5月3-6日にかけて、岐阜県、福井県、京都市を周る行程を組んでいた。九頭龍の発生には白山の椋杵尊になんらかの原因があるように思えていたので、岐阜県の白山中居神社(はくさんちゅうきょ)長滝白山神社(ながたきはくさん)、福井県の九頭龍湖周辺、平泉寺 白山神社(へいせんじはくさん)を周る予定でいた。
 さらに、北の津といわれている気比神宮周辺にも足を延ばそうと調べていた。
 気比神宮は、彦火々出見尊が兄から謀られて海宮に行くことになった海幸彦・山幸彦の舞台となった舞台であり、彦火々出見尊の御尊骸が納められた神社(→ 気比神宮の土公 )でもある。

平成21(2009)年4月18日(土曜日)、寝苦しさのなかで目を覚ますと

「宮を探せ・・」
 という言葉を聞いたような気がした。
 平成21(2009)年4月19日(日曜日)には、より鮮明な形で聞こえてきた。
大津シノ宮を探せ・・」

 と。

大津シノ宮について、『秀真伝』は第二次天孫降臨に関連して伝える・・

 第一次天孫降臨から26万年後の紀元前1,290,607年の第二次天孫降臨のとき、瓊々杵尊は卯の花を折りかざして進んでいくのだが、「卯の花」に関連した場所に「大津シノ宮」があったらしい。
 紀元前1,290,607年に、瓊々杵尊は瑞穂の仮宮を造営されている。
 3万年ほどして、天之忍穂耳尊が箱根で神上がられてから比叡山の造成を行った。
 そして、紀元前1,086,682年、別雷(わけいかつち)の天君(あまきみ)は
 「深き思ひの あるにより
 瑞穂の仮宮を瑞穂宮として造営するとき、鵜川宮と大津シノ宮も造営され、彦火々出見尊は大津シノ宮を賜った。
 大津シノ宮という名称が登場するのはこれが最初である。
 大濡煮尊の御世から251万1千60年経た紀元前489,645年に彦火々出見尊と豊玉姫は大津シノ宮で神上がられた。

第二次天孫降臨以前の伊邪那岐尊・伊邪那美尊の伝承の可能性・・

 大津シノ宮として伝承されている場所は失われているが、わずかな記録から推定すると三尾神社(滋賀県大津市)周辺から三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」(滋賀県大津市)辺りが大津シノ宮であろう。

(1)伊邪那岐尊からみて・・

   白山中居神社(岐阜県)(第二次天孫降臨のルート推定地)に伊邪那岐尊の伝承が残っていること、
   三尾神社(滋賀県)(第二次天孫降臨のルート推定地)にも伊邪那岐尊の伝承が残っていること
   ・・の2点を照応させると、第二次天孫降臨の瓊々杵尊は伊邪那岐尊の何らかの伝承の跡を追っている可能性がある点。

(2)伊邪那美尊からみて・・・

   平泉寺 白山神社に伝わる伊邪那美尊と九頭龍伝承からみて・・
   九頭龍は、穴馬神社のある九頭竜湖周辺で生まれ、
   平泉寺 白山神社で子胤を得、
   舟橋町の黒龍神社 (くろたつ)で子を生んで、
   毛谷黒龍神社(けやくろたつ)で子を育ててから、
   三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」に渡っていった
   ・・と推測できること。

   参考 → 「越前名蹟考」に記載されている平泉寺白山神社の九頭龍

 以上の2点から、瓊々杵尊の第二次天孫降臨における、白山宮から瑞穂の仮宮を造営し多賀宮に至る行程は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊の史跡と九頭龍の痕跡をたどるものになっていた可能性を感じる。
 よって、大津シノ宮は、伊邪那岐尊の伝承が残る三尾神社(滋賀県大津市)から、九頭龍の伝承が残る三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」(滋賀県大津市)辺りと私は推定している。
 大津シノ宮でも、九頭龍に対して戸隠神社(長野県)や箱根九頭龍神社(神奈川県)のような祭り方をしていたのだろう。

 下の神社が、日本各地で九頭龍に関連する神社です。

善知鳥神社(青森県青森市)
能生白山神社(新潟県糸魚川市)関山神社(新潟県妙高市)九頭龍社(長野県長野市)
神奈川県箱根芦ノ湖畔にある九頭龍神社(本宮)神奈川県箱根神社境内地にある九頭龍神社(新宮)
平泉寺白山神社(福井県)舟橋の黒龍神社(福井県)毛谷黒龍神社(福井県)
九頭龍が住んでいる三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」(滋賀県大津市)

大津シノ宮の周辺図

大津シノ宮に至る第二次天孫降臨の順路とは・・

〔1〕新治宮を治めていた瓊々杵尊は八洲巡りを願い出るが、天照神に5年間八洲巡りを許されず伊勢国に留まっていた。
〔2〕第一次天孫降臨から26万年後の紀元前1,290,607年(→年表)、八洲巡りの勅を得て、大和国の飛鳥宮を拝する。
〔3〕兵庫県の御津、西宮を通り、神崎に大井を掘って、朝日神(豊受神)を祀る朝日宮(京都府加佐郡にある元伊勢外宮 豊受大神社)に幣帛を納める。
〔4〕コヱの根の国に着き、白山峰の見巡った。
 白山峰を巡る基点となった神社は白山比盗_社加賀馬場)だろうか?
〔5〕白山宮において、梅の花のもと御饗が催された。
 白山宮とは、白山中居神社と推定している。東相殿に天照大神を祀り、西相殿に瓊々杵尊を祀っており、こういう祭神の祀り方に第二次天孫降臨の時の記憶が想起されているとみれなくもない。
 また、白山中居神社の祭神が伊邪那岐尊であることから、第二次天孫降臨の順路に伊邪那岐尊の史跡のあとをたどっている可能性もありそうだ。
 滋賀県の三尾神社の祭神が伊邪那岐尊であることも、第二次天孫降臨と伊邪那岐尊の史跡のあとの関わりが想像できるかもしれない。
 瓊々杵尊は、白山中居神社で、を折りかざす。
〔6〕を折りかざし、高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)に至った
   高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)でもよしと折かざす。
〔7〕高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)に田を造ろうと、太田命と箕島命が井川を造る。
〔8〕滋賀県高島郡高島町に鵜川(高島市鵜川)という地名があり、ここで猿田彦命に出会う。
〔9〕鵜川宮で取った「卯の花」を折りかざしてまた進み行く。
〔10〕鵜川宮で取った「卯の花」がどこで散り、どこに納めたのか、という問題が残っている。
 三尾神社の赤尾神(伊邪那岐尊)が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えているので「卯(う)の花」との関連も連想される。
 また、三尾神社の祭神が伊邪那岐尊であることから、白山中居神社の伊邪那岐尊との関連が注目されるところでもある。
 大津シノ宮と呼ばれる前に、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の時代に何らかの宮があって、その宮を瓊々杵尊の時、大津シノ宮として造営されたようにも思える。
 こういうことから類推して、鵜川宮で取った「卯の花」を納めた場所は大津市園城寺町にある三尾神社周辺で、この辺りを大津シノ宮と言ったのではないかだろうか?
 三尾神社では、が神の使いである。
〔11〕滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山の三尾(みを)の土を積んで三上山を造った。
 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
 瑞穂宮の仮宮を造営。
 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
〔12〕近江国多賀宮
〔13〕美濃国(岐阜県)
〔14〕信濃国(長野県)
〔15〕諏訪(長野県)
〔16〕原見山(富士山)
〔17〕酒折宮(山梨県)で葦津姫と契る。
〔18〕新治宮(茨城県)に帰り、践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
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〔19〕大山祗命は伊豆崎の仮屋(かりや)に迎(むか)え御饗(みあえ)なす 膳なすとき葦津姫(あしつひめ)イメ孕(はら)めりと告げる。
〔20〕白子宮(三重県)
〔21〕瓊々杵尊、一人で伊勢国。
   木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。
〔22〕須走(静岡県)
〔23〕酒折宮(山梨県)
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〔24〕富士登山
〔25〕日高見多賀の守の殿で天之忍穂耳尊の遺言
〔26〕伊豆崎で3年の喪祭り
〔27〕瀛壷の峰から眺めて比叡山造営の勅。
〔28〕酒折宮を改築し原朝間宮とする。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P3-32 )
  そもそもに 御孫(みまご)瓊々杵尊(ににきね)  
  新治宮(にはりみや) 筑波(つくば)に治む  
  年(とし)すでに 三鈴(みすず)二千五十年(ふちゐそ) 12万2050年
  つらつらと 思(おも)せば民(たみ)の  
  殖(ふ)ゆるほど 田は増さぬゆえ  
  糧(かて)足(た)らず 平場(ひらば)の小田(おだ)は  
  水(みず)絶えず 高田(たかだ)は雨の  
  降らぬ年 種(たね)お滅(ほろ)ぼす  
  川上(かわかみ)の 水お懸樋(かけひ)に 水を高いところから低いところに流す樋(とい)。
  運(はこ)ばせど これも崩(くづ)れば  
  井堰(いせき)建(た)て 堤(つつみ)築(きづ)きて 水を他に引くために、川水をせき止めた所。
  山水(やまみず)お 取りて高田お  
  開かんと 稜威(いづ)の鴨船(かもぶね)  
  伊勢に着け 巡(めぐ)り請(こ)えども  
  大御神(ををんかみ) 許(ゆる)さずここに  
  仮住居(かりすまゐ) 山田(やまだ)野(の)高(たか)く 「山田」は、三重県伊勢市の旧称の宇治山田。
  宮川(みやかわ)の 上(かみ)より井堰(いせき) 「宮川」は宇治山田の付近を流れる川。
  堤(つつみ)築(つ)き ついに高野(たかの)お  
  田(た)となせば 五年(ゐとせ)の内(うち)に  
  瑞穂(みづほ)なる 他(ほか)に十八箇(そやか)の  
  井堰(いせき)なる 時に天照神(あまてる)  
勅(みことのり) 「八洲(やしま)巡(めぐ)れ」と  
  触(ふ)れ給(たま)ふ 時(とき)二十九鈴(ふそこすヾ) 第一次天孫降臨から26万年後の
紀元前1,290,607年、 大濡煮尊の御世から171万98年経ている。
  五百(ゐも)の一枝(ひゑ) 三十八年(みそや)二月(きさらぎ) 2月1日
  朔(ついたち)と 梅(うめ)の花見(はなみ) 瓊々杵尊の八洲めぐりの勅の時、
梅の花見をする。
  御饗(みあえ)して 日読みの宮の  
  門出(かどで)宣(のり) 昔(むかし)日読(ひよ)みの  
  思金命(おもいかね) 暦(こよみ)作りて  
  ここにあり のち叢雲命(むらくも)に  
  譲(ゆず)り置(お)く 叢雲命(むらくも)天(あめ)の  
  御伴(をんとも)に 飛鳥(あすか)に侍(はべ)る  
  手力雄(たじからを)命 親(をや)のあととて  
  ここにあり 御巡狩(みかり)の御伴(をとも)  
  請(こ)ふゆえに 叢雲命(むらくも)召(め)して  
  勅(みことのり) 「汝(なんじ)叢雲(むらくも)  
  暦(こよみ)なす 鏡(かがみ)曇(くも)れば  
  賜(たま)ふ名(な)は 天二枝(あめふたゑ)なり」  
  天二枝命(ふたゑ)今日(けふ) 御饗(みあえ)おなせば  
  門出(かどい)でに 御機(みはた)の留(とめ)の 御機の留」とは、君が政治を行うのに必要な教えを記した文。
  御文(おんふみ)お 御孫(みまご)に賜(たま)ひ 天照神の孫にあたる瓊々杵尊へ。
三種神宝の授与。
  御鏡(みかがみ)お 天児屋根命(こやね)に賜(たま)ひ 御鏡(瀬織津姫)→ 天児屋根命
  御剣(みつるぎ)お 子守神(こもり)に賜(たま)ひ 御剣(速開津姫)→ 子守神
  曰(のたま)ふは 「先(さき)に三種(みくさ)の  
  宝物(たからもの) 御子(みこ)忍仁尊(おしひと)に  
  賜(たま)いしは 兄(あに)御孫(みまご)得(ゑ)て 瓊々杵尊の兄にあたる火之明照彦尊のこと。
  太玉(ふとたま)と 香久山(かぐやま)翼(はね)の  
  大臣(をみ)となる 天児屋根(こやね)大物主(ものぬし)  
  清仁(きよひと)が 翼(はね)の大臣(をみ)なり 清仁とは瓊々杵尊のこと。
  君(きみ)と大臣(をみ) 心(こころ)一(ひと)つに  
  彼(か)の鳥(とり)の 形(かたち)は八民(やたみ)  
  首(くび)は君(きみ) 鏡臣(かがみ)は左羽(たはね)  
  剣臣(つるぎ)右羽(かは) 物部(もののべ)は足(あし)  
  鏡大臣(かがみをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば その教えを伝承する子孫が滅びれば、の意。
  民(たみ)離(はな)れ 日嗣(ひつぎ)践(ふ)まれず  
  剣大臣(つるぎをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば  
  物部(ものべ)割(わ)れ 世(よ)お奪(うば)わるる  
  八咫鏡臣(やたとみ)は ゾロ生(は)ふ春(はる)の ゾロとは稲および畑の苗のこと
  民業(たみわざ)お 鑑(かんが)みる目ぞ  
  垣大臣(かきおみ)は 邪魔(よこま)お枯(か)らし 八重垣臣・剣臣のこと。
  物部(もののべ)の 力(ちから)守(も)る手ぞ」  
  このゆえに 三種神宝(みくさ)お別(わ)けて  
  授(さづ)く心(い)は 永(なが)く一(ひと)つに  
  なる由(よし)お 綾(あや)に印(しる)して  
  御手(をて)づから 文(ふみ)お御孫(みまご)に  
  授(さづ)けます 瀬織津姫(せおりつひめ)は  
  御鏡(みかがみ)お 持(も)ちて春日神(かすが)に  
  授(さづ)けます 速開津姫(はやあきつめ)は  
  御剣(みつるぎ)お 持(も)ちて子守神(こもり)に  
  授(さづ)けます 三度(みたび)敬(うやま)ひ  
  みな受(う)くるかな    
  しかるのち 三種(みくさ)神宝(たから)お  
  櫃(ひつ)に入(い)れ 印(しるし)は榊(さかき)  
  先駆(さきがけ)は 手力雄命(たじからお)なり  
  次(つぎ)勝手神(かって) 大物主命(おおものぬし)と  
  三種(みくさ)櫃(ひつ) 八英(やふさ)御輦(みくるま)  
  次(つぎ)天児屋根命(こやね) 籠馬(かごむま)八十(やそ)の  
  物部(もののべ)ら 伊勢(いせ)より立(た)ちて 伊勢から出発し、飛鳥宮へ。
飛鳥宮(あすかみや) これより御津(みつ)の 兵庫県に、御津市西宮市がある。
西宮(にしのみや) まづ神崎(かんざき)の 兵庫県神崎郡
大井(おおい)堀(ほ)り 真名井(まなゐ)に至(いた)り 朝日神(豊受神)を祀る朝日宮。京都府加佐郡にある豊受神社と推定される。
幣(ぬさ)納(おさ)め コヱの根(ね)の国(くに) コヱの根の国
  天智馳命(あちはせ)が 峰輿(みねこし)捧(ささ)ぐ  
これに召(め)し 白山峰(しらやまみね)お 白山峰の見巡り。
  見巡(みめぐ)るに 斜(なな)めにならず  
  「この輿(こし)は 誰(た)が作(つく)れる」と  
  曰(のたま)えば 菊桐姫(ここりめ)曰(いわ)く  
  「真子(まこ)がなす 妹(いと)ウケステ女(め) 「真子」とは、子供や妻・恋人を慈しんでいう言葉。
  赤県(あかがた)に 玄圃積(くろそのつみ)と  
  生(う)む御子(みこ)お 崑崙国(ころびつくに)の  
  君(きみ)となす 玄圃(くろその)の生(う)める  
  君(きみ)の母 険(けわ)しき峰(みね)の  
  越(こ)すときに 峰輿(みねこし)作(つく)り  
  子(こ)お育(そだ)つ 今(いま)ここに来(き)て  
  真見(まみ)ゑなす」 御孫(みまご)喜(よろこ)び  
  「国(くに)は越(こし) 山(やま)は峰輿(みねこし)」  
  その返(かえ)に 三千実(みちみ)の桃(もも)お  
  賜(たま)われば 「花実(はなみ)の桃(もも)は  
  まれなり」と 国苞(くにつと)になす 国への土産にする。
三月(やよひ)望(もち) 御饗(みあえ)の梅(むめ)に 3月15日白山宮梅の花の下に御饗を催す。
  君(きみ)笑(ゑ)みて 「梅(むめ)に三種(みくさ)の  
  門出(かどいで)も 梅(むめ)に輿(こし)得(ゑ)て  
  この御饗(みあえ) 天(あめ)の印(しるし)」と  
折りかざし 至(いた)る高島(たかしま) 白山宮梅の枝を折りかざし、滋賀県高島郡に至った。
  酒波(ささなみ) 桜(さくら)も良しと ここでを折りかざす。
高島郡今津町酒波(近江国高島郡川上荘酒波)と関連するか?
折りかざし 熊野(くまの)万木(よろぎ)の 高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)には与呂伎(よろぎ)神社が鎮座しており、祭神は子守神と勝手神である。
子守神(万木麿命)の誕生の地。
  田(た)にせんと 太田命(おおた)箕島命(みしま)が  
井川(いかわ)なす 音玉川(おとたまがわ)の 高島郡内に小田川が流れる
  白砂(しらすな)に 昼寝(ひるね)して居(お)る  
  衢神(ちまたかみ) 身の丈(たけ)十七咫(そなた)  
  面(つら)酸醤(かがち) 鼻(はな)高さ七枳(なき)  
  眼(め)は鏡(かがみ) 伴(とも)の八十神(やそかみ)  
  恐(おそ)るれば 御孫(みまご)鈿女命(うずめ)に  
  勅(みことのり) 「汝(なんじ)目勝(めかち)に  
  問ふべし」と 鈿女命(うずめ)胸(むね)開(あ)け  
  裳紐(もひも)下(さ)げ 嘲笑(あざわら)いゆく  
  衢神(ちまたかみ) 覚めて「かくする  
  何ゆえや」 曰(いわ)く「御孫(みまご)の  
  行幸(みゆき)先(さき) かく居(お)るは誰(た)ぞ」  
  答えいふ 「神(かみ)の御孫(みまご)の  
行幸(みゆき)なす 鵜川(うかわ)仮屋(かりや)に 滋賀県高島郡高島町に鵜川という地名がある。高島市鵜川
高島郡ないには「饗庭(あえば)」と名付ける村が10ヵ所以上もあるという。
  御饗(みあえ)して 相(あい)待(ま)つ長田(ながた)  
  猿田彦(さるたひこ)」 鈿女命(うずめ)また問(と)ふ  
  「何(いづ)れから 行(ゆ)くや」答えて  
  「われ行(ゆ)かん」 また問(と)ふ「汝(なんじ)  
  知(し)るや君(きみ) 行(ゆ)きますとこお」  
  答(こた)えいふ 「君(きみ)は筑紫(つくし)の  
  高千穂(たかちほ)ぞ われは伊勢(いせ)の南(さ)  
  長田川(ながたがわ) 汝(なんじ)わが名(な)お  
  顕(あら)わさば われもいたさん」  
  返事(かえごと)す 御孫(みまご)喜(よろこ)び  
  卯(う)の花 またかざし行(ゆ)く 鵜川宮で採った卯(う)の花を折りかざし、また進んでいった。
 その卯(う)の花が散った場所は大津市園城寺町にある三尾神社のある辺り(大津シノ宮)か?
 赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方から出現したと伝えるが「卯(う)の花」と関連があるかもしれない。
 三尾神社では、兔が神の使いである。
  猿田彦命(さるた)して 岳(たけ)磐座(いわくら)  
  押(お)し放(はな)ち 稜威(いづ)の道別(ちわき)の  
鎧崎(よろいざき) 岳(たけ)や鏡山(かがみ)の 鏡山とは滋賀県の野洲郡と蒲生郡の境にある鏡山ではないか。
三尾(みを)の土(つち) 積(つ)む三上山(みかみやま) 三上山は、滋賀県野洲郡野洲町の東南に位置する。
  井堰(いせき)築(つ)く 猿田彦命(さるた)お褒(ほ)めて  
  三尾(みを)の神(かみ) 好(この)む鈿女命(うずめ)お 『特選神名牒』に高島郡高島村大字拝戸の延喜式内社の水尾神社(みをの)が載る。
  賜(たま)わりて その名(な)顕(あら)はす  
  猿部等(さるべら)と 神楽(かぐら)男子(をのこ)の  
  君(きみ)のもとなり    
  勅(みことのり) 「三尾(みお)の道別(ちわき)も  
  田(た)はここに これ鏡(かがみ)なり」  
仮宮(かりみや)お 瑞穂宮(みづほ)と名付(なづ)く 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
多賀宮(たが)に行(ゆ)き 幣(ぬさ)お捧(ささ)げて  
美濃(みの)に行(ゆ)き 天国魂命(あまくにたま)の  
  喜(よろこ)びも 昔(むかし)春日神(かすが)に  
  瓜(うるり)得(ゑ)て 生(う)む高彦根命(たかひこね)  
  捧(ささ)げ物(もの) 各々(おのおの)真桑(まくわ)  
  一籠(ひとかご)と 八十神(やそ)喜(よろこ)びて  
雲道(くもち)別(わ)け 信濃(しなの)諏訪(すわ)より  
導(みちび)けば 原見山(はらみやま)から  
  四方(よも)お見(み)て 「裾野(すその)は広(ひろ)し  
  水(みづ)お生(う)み 裾野(すその)田(た)にせん」  
  手力雄命(たじからを) 八方(やも)に掘(ほ)らしむ  
  湖(うみ)の名(な)も 東(き)は山中(やまなか)と  
  東北(きね)はアス 北(ね)は河口(かわぐち)と  
  北西(ねつ)本栖(もとす) 西(つ)は西(にし)の湖(うみ)  
  西南(つさ)はスド 新治(にはり)の民(たみ)の  
  群(むれ)来(き)たり 湖(うみ)堀(ほ)り土(つち)お  
  峰(みね)に上(あ)げ 八英(やふさ)はかりと  
  天(あ)に応(こた)え 中(なか)の地(わ)もがな  
  ウツロヰが 淡海(あわうみ)浚(さら)え 淡海(琵琶湖)の湖底の土
  三尾(みを)の地(わ)と 一荷(ひとにな)い来(き)て 三尾の土を一度に担がせる
  朝(あさ)の間(ま)に 中峰(なかみね)なせば  
  神(かみ)の名(な)も 稜威(いづ)朝間峰(あさまみね)  
  山高く 湖(みずうみ)深(ふか)く  
  並(なら)びなし 峰(みね)に降(ふ)る雪(ゆき)  
  池水(いけみず)の 末(すえ)九千里(こちさと)の  
  田(た)となりて およぶ御世(みよ)だに  
  二十年(はたとし)に 浚(さら)えなせとて  
酒折(さかおり)の 宮(みや)に入(い)ります 山梨県の甲府と石和の中間にある
  預(あづか)りの 大山祗命(おおやますみ)が  
  御饗(みあえ)なす 御膳(みかしは)捧(ささ)ぐ  
  葦津姫(あしつひめ) 一夜(ひとよ)召(め)されて 大山祗命の娘で桜内命の曾孫。称え名を木花咲耶姫という。
契(ちぎ)り込(こ)む 帰(かえ)る新治(にはり)  
  ユキスキの 宮(みや)に祈(いの)りの  
  大嘗(おおなめ)ヱ 三種(みくさ)お受(う)けて 新治宮で践祚(せんそ)の大嘗ヱ(おおなめえ)が執り行われ、忍穂耳尊より三種の神器をお受けになり、天つ日嗣を譲り受けた。
  天(あ)に応(こた)え 宮(みや)に治(おさ)むる  
  その飾(かざ)り 香久(かぐ)八幡(やはた)あり  
  その明日(あすか) 大御宝(おおんたから)に  
  拝(おが)ましむ 天児屋根命(こやね)鹿島宮(かしま)に  
  年(とし)越(こ)ゆる 大物主命(ものぬし)一人(ひとり) 大物主命とは子守神のこと。
  日高見(ひだかみ)の 井堰(いせき)なしなし  
  日隅(ひすみ)まで 祖父(ををじ)喜(よろこ)び 津軽の大己貴(奇杵)命。
  「その父(ちち)が 大和(やまと)の神(かみ)と 子守神の父・奇彦命が大和大国御魂神となって、三輪山に隠れた、ということ。
  成(な)りてのち 孫(まご)に会いたくて  
  年寄(としよ)ると」 手づから御饗(みあえ)  
  大物主命(ものぬし)も 喜(よろこ)び曰(いわ)く  
  「わが君(きみ)の 山(やま)お八英(やふさ)の  
  居雪(ゐゆき)なす」 祖父(おおぢ)驚(おどろ)き  
  「われたとひ 新田(あらた)なすとも  
  これ知らず 君(きみ)は真(まこと)の  
  照(て)らす神(かみ) 代々(よよ)の御祖(みをや)ぞ  
  忠(まめ)なせ」と 国境(くにさかい)まで  
  送りてぞ 名残あるなり  
  大物主(ものぬし)は 海辺(うみべ)お西(にし)に  
  巡(めぐ)りつつ 差絵(さしえ)に新田(あらた) 差絵とは計画図のこと。
  起(おこ)さしむ 佐渡(さど)に渡(わた)りて  
  新田(あらた)なす 越国(こし)に戻(もど)りて 差絵とは計画図のこと。
  井堰(いせき)なすかな    
  時(とき)に君(きみ) 思(おぼ)すことあり  
  天児屋根命(こやね)して 新治(にはり)に留(とど)め  
  勝手神(かって)して 海辺(うみべ)お上(のぼ)る  
  行幸(みゆき)触(ふ)れ 大山祗命(おおやますみ)は  
伊豆崎(ゐづさき)の 仮屋(かりや)に迎(むか)え  
  御饗(みあえ)なす 膳(かしわ)なすとき  
  葦津姫(あしつひめ) イメ孕(はら)めり 十五紋に「イメの源 月となる」と見える。ここでは、「イメ」とは「胎内」のことだろうか?それとも「妻」という意味だろうか?
  申(もう)すゆえ 伊勢(いせ)に告(つ)げんと  
  装(よそ)ひなす 時(とき)にその母(はは)  
  姉(あね)連(つ)れて 仮屋(かりや)に至(いた)り  
  真見(まみ)ゑ請(こ)ふ 召(め)せば申(もふ)さく  
  「妹(いもと)さえ わが慈(いつく)しの  
  姉(あね)あり」と 言葉(ことば)飾(かざ)れば  
  二心(ふたごころ) 姉(あね)磐長姫(いわなが)お  
  召(め)せばその 形(かたち)鋭(するど)く  
  眉目(みめ)悪(あ)しく 故(かれ)に肝消(きもけ)し  
  ミヤビ変(か)え 「やはり葦津姫(あしつ)」と 「ミヤビ」とは、ここでは恋心のこと。
  曰(のたま)えば 父(ちち)驚きて  
  妻(つま)叱(しか)る 「かくあらんとて  
  出(いだ)さぬお 急(いそ)ぎ帰(かえ)れ」と  
  追(お)ひやれば 母姉(はなあね)恨(うら)み  
  下(しも)召(め)して 妹(いもうと)落(おと)さん 下(しも)とは、下人(げにん)のこと。
  仇枕(あだまくら) ついに偽(いつわ)り 仇枕とは、仇を討つ計画をたてること。
白子宮(しらこや)で 君(きみ)に聞(き)こゆる 三重県鈴鹿市に「白子」という地名がある。
  疑(うたが)ひに 旅屋(たびや)を夜半(よわ)に  
立(た)ち出(い)でて 伊勢(いせ)に帰ります  
  姫(ひめ)一人(ひとり) 寝覚(ねざ)めて行(ゆ)けば  
  松坂(まつざか)に 関(せき)止(と)められて  
  白子宮(しらこや)に 帰(かえ)り誓(ちか)って  
  妬まれ わが恥(はぢ)滌(すす)げ  
  この桜(さくら) 昔(むかし)曾祖父(ひををぢ)  
  桜内大人(さくらうし) この花捧ぐ 六紋に「東に桜植え 大内宮」。伊雑宮の東殿に植えた桜のこと。
  大御神(ををんかみ) 大内(おうち)に植(う)えて  
  伊勢の道 成(な)る離(はな)るゝお  
  計(はか)ります 桜(さくら)心(こころ)あらば  
  わが孕(はら)み 仇(あだ)種(たね)ならば  
  花(はな)萎(しぼ)め 正(まさ)種(たね)ならば  
  生むときに 咲け」と誓いて  
  こゝに植(う)ゑ 里に帰(かえ)ます  
  十二月(そふ)満(み)ちて 六月(みなつき)初日 6月1日
  三つ子生む その胞衣(ゑな)の紋(あや)  
  (うめ)(さくら) 卯(う)花(ばな)と変(かわ)り  
  怪(あや)しめば 君(きみ)に告(つ)ぐれど  
  返事(かえ)なくて 姫(ひめ)は裾野(すその)に  
  無戸室(うつむろ)し 巡(めぐ)りに柴(しば)の  
  垣(かき)なして 母子(はゝこ)誓(ちか)ひて  
  中にあり 「仇種(あだたね)ならば  
  亡(ほろ)びん」と 火(ひ)お付(つ)け焼(や)けば  
  熱(あつ)がりて 這(は)ひ出(い)でんとす  
  峰(みね)の竜(たつ) 水(みづ)吐(は)きかけて  
  一人づつ 導(みちび)き御子(みこ)お  
  這(は)ひ出(いだ)す 諸人(もろびと)驚(おどろ)き  
  火(ひ)お消(け)して 姫(ひめ)引(ひ)き出(い)だし  
  御輿(みこし)もて 宮(みや)に送(おく)りて  
  伊勢に告ぐ 白子の桜 白子宮に咲いた桜のこと
  生(う)まれ日(ひ) 咲(さ)きて絶(た)えねば  
  天御孫(あめみまご) 鴨船(かもふね)早(はや)く  
飛ばさせて 興津(おきつ)に着けば  
  雉子(きじ)飛(と)びて 酒折(さかおり)に告(つ)ぐ  
  姫(ひめ)恨(うら)み 衾(ふすま)被(かぶ)りて 衾とは、布地などで作り、寝るときに身を蔽う夜具。
  答(こた)え無(な)し 返事(かえこと)すれば  
  君しばし 思(おも)ひて和歌(わか)の  
  歌身(うたみ)染め 奥津彦命(おきひこ)おして 歌身とは、短冊のことか。
奥津彦命とは新治宮にて八将神を祭る任にあった神。
  清雄鹿人(さをしかど) 姫(ひめ)頂(いただ)きて  
  沖(おき)つ藻(も)は 辺(へ)には寄(よ)れども  
  さ寝床(ねとこ)も 能(あた)わぬかもよ  
  浜(はま)つ千鳥(ちどり)よ    
  この歌(うた)に 恨みの涙(なんだ)  
  溶(と)け落(お)ちて 肝(きも)に応(こた)えの  
  徒跣(かちはだし) 裾野(すその)走りて  
  興津浜(おきつはま) 君(きみ)喜(よろこ)びて 静岡県清水市の海岸添いに興津町がある
輿(こし)並(なら)べ 行(ゆ)く大宮(おおみや)は 静岡県富士宮市大宮字桜ヶ丘に鎮座する富士山本宮浅間神社か。
同社は木花之佐久夜毘売、天津日高日子番能邇々芸命、大山津見命を祭る。
  大山祗命(やますみ)の 道(みち)迎(むか)えして  
  三所(みどころ)に 諏訪命(すわ)が御饗(みあえ)は  
  須走(すばし)り 酒折宮(さかおりみや)に 静岡県駿東郡に須走がある。
  入(い)りまして 「諸神(もろかみ)聞(き)けよ  
  われ先に 花おかざして  
  駆(か)け通(とほ)る これ胞衣(ゑな)の紋(あや)」  
  諱(いみな)なす 初(はつ)に出る名は  
  火之明(ほのあかり) 諱(いみな)梅仁(むめひと)  
  次の子は 名も火進(ほのすゝみ)  
  桜木(さくらぎ)ぞ 末(すえ)は名(な)も彦(ひこ)  
  火々出見(ほおでみ)の 諱(いみな)卯津杵(うつきね)  
  また姫(ひめ)は 子お生(う)む日(ひ)より  
  花(はな)絶(た)えず ゆえに木花(このはな)  
  咲耶姫(さくやひめ)」 宮造(みやつく)りして 酒折宮に新殿をつくる。
  御座(おわ)します 夏女(なつめ)の神(かみ) 夏女の神が産衣を作る。
  産衣(うぶぎ)なす 母(はは)の乳(ちち)お以(も)て  
  養(ひた)します 子安(こやす)の神(かみ)ぞ 葦津姫は子安神として讃えられた。
  人(ひと)成(な)りに 桜木尊(さくらぎ)蟹(かに)の 桜木尊に水瘡(みずくさ)ができた。
  瘡(くさ)なせば 酢芹草(すせりぐさ)にて 酢芹草によって癒した。
  蟹(かに)掃(は)きて 瘡(くさ)枯(か)れ癒(い)ゆる  
  名(な)も酢芹(すせり) 故(かれ)白鬚(しらひげ)の 桜木尊に酢芹宮という名を与えた。
  酢芹(すせり)以(も)て 民(たみ)蘇(よみがえ)る 白鬚の酢芹草をもって、民の病を癒す守として、代々尊んだ。
  守(まも)りとて 叩(は)たきて受(う)くる  
  宮居(みやゐ)これかな    
  そののちに 君(きみ)この山に  
  登り見て 中心(なかご)休(やす)めり  
  八(や)つ峰(みね)に 居雪(ゐゆき)絶(た)えねば  
  代々(よよ)の名(な)も 豊居雪山(とよゐゆきやま)  
    = 中略 =  
  二神(ふたかみ)の 国中柱(くになかばしら)  
  瀛(おき)の壺(つぼ) 天照神の 瀛(おき)の壺とは、近江国八尋殿。
壺は天界と交流する要所。
  日高見(ひだかみ)の 方丈宮(かたたけみや)の 方丈宮(かたたけみや)とは、四紋に「みな方壺の ヤマテ宮」と見えることから、ヤマテ宮のことと考えられる。
  中柱(なかばしら) 方壺(けたつぼ)の文(ふみ)  
  稜威神(ゐづかみ)の 原見(はらみ)ハ壺(つぼ) ハ壺(つぼ)とは酒折宮のことか。
  四方八方(よもやも)の 中柱(なかばしら)なり  
  大御神(ををんかみ) 原(はら)の治君(をきみ)と  
  名(な)お賜(たま)ふ    
    = 中略 =  
  世々(よよ)豊(ゆた)か 八万年(やよろとし)経(へ)て  
  日高見(ひだかみ)の 君(きみ)より召(め)せば  
  諸(もろ)ともに 宮(みや)に上(のぼ)れば  
  父帝(ちちみかど) 御子(みこ)二方(ふたかた)に  
  勅(みことのり)  
    = 中略 =  
  箱根神(はこねかみ) 三年(みとせ)祭(まつ)りて  
  瀛壷(おきつぼ)の 峰(みね)より眺(なが)め  
  勅(みことのり)   比叡山の造成の勅。

山幸彦(彦火々出見尊)が大津シノ宮を賜る

紀元前1,290,607年(→年表)、瓊々杵尊は八洲めぐりの勅を得て、琵琶湖西岸の鵜川で猿田彦に会い、瑞穂の仮宮を築き、酒折の宮で木花咲耶姫に出会った。
 翌紀元前1,290,606年、木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。

◆天忍穂耳尊が箱根で神上がられた。

 瓊々杵尊は、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、比叡山を造営することになった。
 比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
 ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。
(※)京都の上鴨神社の御祭神は賀茂別雷大神である。

紀元前1,086,682年、瑞穂の仮宮を正式に宮として造営。

 紀元前1,086,682年、瓊々杵尊の「深き思ひの あるにより」、瑞穂の仮宮を正式に宮として造営され、鵜川の昔の跡に鵜川宮を造営し、また昔の跡に大津シノ宮を造営された。
 2番目の兄は鵜川宮で釣りを好み暮らされ、彦火々出見尊は大津シノ宮で狩を好み暮らされていた。
 2人の暮らされ方から、海幸彦・山幸彦という名前の謂れが出来た場所である。

◆彦火々出見尊を筑紫に派遣しようとしたが・・・

 瓊々杵尊は筑紫が治まらないので、御子を派遣して欲しいという要請を受けていた。
 それに対して、瓊々杵尊は彦火々出見尊を派遣する予定であった。
 ところが筑紫の状況を検討してみると、彦火々出見尊を派遣しても納めきれないと判断されたようだ。
 急遽、瓊々杵尊自らが筑紫の統治に向かわれることになった。
 瓊々杵尊が筑紫に向かわれている間、鵜川宮と彦火々出見尊は福井県の敦賀市で過ごされることになった。
 この福井県の敦賀市は『秀真伝』では北津(きたのつ)といわれている場所である。
 この北津(きたのつ)が、海幸彦・山幸彦の舞台になった場所である。

◆彦火々出見尊(山幸彦)は、兄の海幸彦に謀られて釣り針を無くしてしまう。

 塩土老翁(しおつちのおじ)の助言により海宮に赴き、釣り針を探してもらうことになった。
 海宮に向かう彦火々出見尊に塩土老翁(しおつちのおじ)は笥飯(けひ-弁当箱)を手向けた。
 海宮に着いて、無事兄の海幸彦の釣り針を探すことの出来た彦火々出見尊は、海宮で、豊玉姫と結婚された。


 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十五「彦命鉤お得るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 )
三十二(みそふ)鈴(すヾ) 九百枝(こもゑ)二十三穂(ふそみほ) 紀元前1,086,682年
大濡煮尊の御世から191万4,023年。
四月(うつき)初日(はつひ) 別雷(わけいかつち)の 瓊々杵尊
天君(あまきみ)は 深き思ひの  
あるにより 大島命(おゝしま)おして  
淡海(あわうみ)の 瑞穂(みづほ)の宮(みや)お 野洲郡野洲町三上の三上神社(祭神は天之御影命)か。
造(つく)らしむ 成(な)れば日(ひ)お見て  
遷(うつ)らんと 先に垂乳男神(たらちを) 瓊々杵尊の父・天之忍穂耳尊のこと
日(ひ)足(た)るとき 箱根(はこね)の洞(ほら)に 箱根神社
入(い)りますお 母(はは)千々姫(ちゝひめ)は  
事(こと)ありて 伊勢(いせ)に至(いた)りて 伊勢伊雑宮
大御神(をんかみ)に 朝夕(あさゆう)仕(つか)え  
祭(まつ)らしむ 十万年(そよろとし)経(へ)て  
今(いま)故(かれ)に 箱根(はこね)に詣(もふ)で  
幣(ぬさ)捧(ささ)げ それより伊勢(いせ)に  
行幸(みゆき)なる 大御神(ををかみ)および  
千々姫(ちゝひめ)お 拝(おが)みて淡海(あわ)の  
瑞穂国(みづほくに) 宮遷(みやうつ)しなる  
梅仁尊は 原見(はら)に留(とど)まり 第一子の火之明(ほのあかり)
政治(まつりごと) 天之児屋根命(こやね)預(あずか)り  
大物主命(ものぬし)は 伴(とも)なすゆえに  
溝咋命(みぞくい)お 添物主(そえものぬし)と  
原見(はら)の守(もり) 新治(にはり)に居(い)ます  
酢芹宮(すせりみや) 昔(むかし)の跡(あと)に 第二子の火進尊
今(いま)造(つく)る 鵜川(うかわ)の宮(みや)に 高島市鵜川付近と考えられる
遷(うつ)ります 二荒山(ふたあれ)裾(すそ)の  
卯津宮(うつみや)は 大津シノ宮 第三子の彦火々出見尊。三尾神社から長等山にかけての一帯が大津シノ宮の推定地。
今(いま)造(つく)り これ賜(たま)わりて  
遷(うつ)ります 時に諱(いみな)の 彦火々出見尊の諱は、鵜川宮(卯川宮)付近に生えていた卯の花にちなみ卯津宮とつけられた。
ゆえあれば 鵜川宮(うかわ)を請(こ)えど  
許(ゆる)されず 常(つね)に狩(かり)して  
楽(たの)しめば 山(やま)の幸彦(さちひこ)  
また酢芹宮(すせり) 釣(つり)楽(たの)しめば  
幸彦(さちひこ)と 君は親(みづか)ら  
御狩(みか)りなす 西中国の  
山表(やまおもて)    
  = 中略 =  
三万(みよろ)経(へ)る 時(とき)に筑紫(つくし)の 現在の福岡県
治(をさ)まらで 御子(みこ)御下(みくだ)りお  
請(こ)ふゆえに 君(きみ)聞(き)こし召(め)し  
「シノ宮お 筑紫治君(つくしをきみ)」と  
勅(みことのり) 卯津杵尊(うつきね)原見(はら)  
宮(みや)に行(ゆ)き 暇(いとま)お乞(こ)えば  
梅仁尊(うめひと)も ともに上(のぼ)りて  
瑞穂宮(みづほ)なる 天君(あまきみ)拝(おが)む  
時(とき)に君(きみ) 「筑紫(つくし)は糧(かて)の  
足(た)らざるか てれば行(ゆ)き見(み)て  
田(た)お増(ま)さん 故(かれ)梅仁(むめひと)お  
治君(をきみ)とす 天児屋根(あまのこやね)大物主(ものぬし) 火明・梅仁が瑞穂宮の治君に任命された。
諸(もろ)ともに ここに留(とど)まり  
政(まつり)聞(き)け 卯津杵(うつきね)酢芹(すせり)  
北の津に 行(い)きて治(おさ)めよ 福井県敦賀
伊奢沙別宮(いささわけ) あれば睦(むつ)めよ」 気比神宮のこと。
天君(あまきみ)は 西宮(にしのみや) 兵庫県西宮市
亀船(かめ)に乗り 筑紫うましの  
鵜戸(うど)に着き 筑紫あまねく 宮崎県日南市大字鵜戸。
巡(めぐり)り狩(か)り    
  = 中略 =  
身(み)お尽(つ)くし 三年(みとせ)に指絵(さしゑ)  
ほゞなりて 作(つく)り行(おこな)い  
治(をさ)めしむ のちに瑞穂宮(みづほ)に  
帰(かえ)ませば 梅仁治君(むめひとおきみ)  
磯輪上(しわがみ)の 秀真(ほづま)の宮(みや)に  
帰(かえ)りますかな    
兄弟(ゑと)の宮(みや) 北津にありて  
試(こころ)みに 海幸彦(うみさちひこ)が  
幸(さち)換(か)えん 山幸彦(やまさちひこ)が  
諾(うなづ)きて 兄(ゑ)は弓矢(ゆみや)取(と)り  
山に狩る 弟(と)は海(うみ)に入(い)り  
釣(つり)おなす ともに空しく  
幸(さち)あらず 兄(ゑ)は弓矢(ゆみや)換(か)え  
鉤(ち)お求(もと)む 弟(と)は鉤(ち)お取(と)られ  
由(よし)無くて 新鉤(にいち)求(もと)めば  
兄(ゑ)は受(う)けず    

彦火々出見尊、豊玉姫との結婚、北の津への帰還・・

紀元前898,627年、豊玉姫に子供ができたので北津(きたのつ)に帰還することになった。

 まず彦火々出見尊が先触れとしてお一人で北津(きたのつ)にお戻りになられ、続いて豊玉姫が海路向かわれた。
 しかし、豊玉姫の船は島根県の三保岬沖あたりで難破し、豊玉姫はミゾロの竜の力を得て身重の体で一人岸まで泳ぎきることになった。

紀元前898,627年、彦火々出見尊への天位継承と敦賀湾の気比の松原で鵜葺草葺不合尊の誕生。

 豊玉姫は敦賀湾の気比の松原(推定地は神明神社)で鵜葺草葺不合尊を生んだ。
 そして、産後の体を休めているとき、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、罔象女宮(貴船神社の奥宮)に身を隠した。
 罔象女宮(貴船神社の奥宮)において、瓊々杵尊が葵葉(あおいば)と桂葉(かつらば)を用いた説得を行い、豊玉姫は心を許すことになった。
(※)豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)に、豊玉姫とその子の鵜葺草葺不合尊を養うようにと詔が下され、河合神社を賜り、京都の鴨御祖神社(祭神:鵜葺草葺不合尊)で養育にあたられることになった。
 豊玉姫は、罔象女宮(貴船神社の奥宮)において瓊々杵尊が神上がられた喪祭りを行い、その後再び宮中に戻った。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十六「鵜葺草葵桂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 )

  君松原に 彦火々出見尊。鵜葺草葺不合尊が生まれた敦賀湾岸の気比の松原。
涼(すヾ)み来て 産屋(うぶや)覗(のぞ)けば  
腹這(はらば)ひに 装(よそ)ひなければ  
枢(とぼそ)引(ひ)く 音(おと)に寝覚めて 枢とは開き戸の、かまちの上下の端に突き出た部分。これが回転軸となって戸が開閉する。
恥(はづ)かしや 弟(おと)建祗命(たけずみ)と 建祗命は豊玉姫の弟で、玉依姫神の父。
六月(みなづき)の 禊(みそぎ)してのち  
産屋(うぶや)出て 遠敷(をにふ)に至り 福井県遠敷郡(おにゅうぐん)。滋賀県と京都府の県境をなす。
御子(みこ)抱き 眉目(みめ)見手(みて)撫でて  
「母は今 恥(はぢ)帰るなり  
真見(まみ)ゆ折 もがな」と捨てゝ  
朽木川(くちきかわ) 上(のぼ)り山超(やまこ)え 滋賀県高島郡を流れる安曇川の中流を朽木川という。
やゝ三日(みか) 別雷山(わけつち)の峰(ね)の 別雷山とは、貴船山のこと。
罔象女神(みずはめ)の 社(やしろ)に休(やす)む 京都市左京区貴船町に鎮座する貴船神社のこと。
= 中略 =  
明(あく)る年 太上(おゝゑ)天皇(すべらぎ) 皇位を退いた瓊々杵尊
別雷山(わけつち)の 葵桂(あおいかつら)お  
袖(そで)に掛(か)け 宮(みや)に至(いた)れば  
姫(ひめ)迎(むか)ふ 時に葉(は)お持(も)ち  
「これ如何(いかん)」 豊玉姫(とよたま)答え  
「葵葉(あおいば)ぞ」 「またこれ如何(いかん)」  
「桂葉(かつらば)ぞ」 「いづれ欠(か)くるや」  
「まだ欠(か)けず」 「汝(なんじ)世(よ)お捨(す)て  
道(みち)欠(か)くや」 姫(ひめ)は畏(おそ)れて  
= 中略 =  
姫(ひめ)は恥(はぢ) 陥(おちい)りいわず  
美穂津姫(みほつひめ) 行幸(みゆき)送りて 奇彦命(奇杵命の子)の妻で子守神の母
こゝにあり 問えば喜び  
答え問う 美穂津姫(みほつ)諾(うなづ)き  
「太上(おゝゑ)君(きみ) 心(こころ)な痛(いた)め  
給(たま)ひぞよ 君(きみ)と姫(ひめ)とは  
日と月と 睦(むつ)まじなさん」  
申すとき 大君(おゝきみ)笑(ゑ)みて  
建祗命(たけづみ)に 豊玉姫(とよたま)養(た)せと  
川合(かわあい)の 国(くに)賜(たま)わりて 賀茂御祖神社(下賀茂神社)の南側に河合神社(祭神:玉依姫神)が鎮座する。
谷(たに)お出(で)て 室津(むろつ)に亀船(かめ)の  
迎(む)い待つ 門出(かどい)で送(おく)り  
行幸(みゆき)なす 君(きみ)ゑ大君(ををきみ) 彦火々出見尊に瓊々杵尊が。
遺(のこ)し言(ごと)   遺言を残す。
= 中略 =  
豊玉姫(とよたま)は 別雷山(わけつちやま)に 貴船山で邇々杵尊の喪祭りを行う。
喪(も)は四十八日(よそや) 年(とし)の祭(まつ)りも  
御饗(みあえ)なす   この後に豊玉姫は再び宮入。

大津シノ宮で、彦火々出見尊・豊玉姫が神上がられる・・

◆大濡煮尊の御世から251万1千60年経た紀元前489,645年に火々出見尊と豊玉姫は大津シノ宮で神上がられた。
 火々出見尊の御尊骸は、鹽土老翁神に笥飯(けゐ-弁当箱)をもらってから、巡りが開け、鉤(ち)を得る門出(かどで)になった笥飯(けゐ)に納められた。
 (※)笥飯神宮【土公】が御尊骸を納めた場所だろう。
 豊玉姫の御尊骸は、罔象女宮(貴船神社)に納められた。
 (※)貴船神社奥宮【船形石(ふながたいわ)】が御尊骸を納めた場所だろう。
 敦賀湾岸の気比の松原で鵜葺草葺不合尊が誕生した時、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、豊玉姫は罔象女宮(貴船神社)に身を隠したことがあった。
 神上がられる直前の瓊々杵尊が罔象女宮(貴船神社)に出向き説得されたことにより、豊玉姫は心を許した。
 豊玉姫は、瓊々杵尊が神上がられた喪祭りを罔象女宮(貴船神社)で行い、再び宮中に戻られたのだった。
 そいう由縁により、豊玉姫の御尊骸は、罔象女宮(貴船神社)に納められた。
◆玉依姫が神武天皇を身ごもったとき、黄色い船で参拝にきたと伝えられる。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P132-133 )

天君(あまきみ)と 后(きさき)諸(もろ)とも 彦火々出見尊と豊玉姫。
シノ宮に 降(お)り居(ゐ)てこゝに 近江国(滋賀県)大津シノ宮で神上がる。
近くに彦火々出見尊を祀る天孫神社と豊玉姫神を祀る関蝉丸神社(下社)がある。
神となる 時四十二鈴 大濡煮尊の御世より、251万1千60年。
紀元前489,645年
八百五十枝(やもゐそゑ) 極年(きわとし)ネウト 「極年」は「キアヱ」歴の最後の年という意味。
八月四日(はつきよか) 君(きみ)の喪祭(もまつ)り  
四十八日(よそや)済(す)み 勅(みこと)に任(まか)せ  
おもむろお 伊奢沙別宮(いさゝわけみや) 福井県敦賀市曙町の気比神宮。古くは「笥飯宮」「笥飯大神宮」と称した。
笥飯(けゐ)の神 ゆえは翁(をきな)に 笥飯(けゐ)とは弁当のこと
笥飯(けゐ)お得(ゑ)て 巡(めぐ)り開(ひら)ける  
鉤(ち)お得(ゑ)たり 門出(かどで)の笥飯(けゐ)ぞ  
拍手葉(かしはでは) 姫はおもむろ 豊玉姫の亡骸は
罔象女宮(みずはや) 昔(むかし)渚(なぎさ)に 罔象女宮(貴船神社)
誓(ちか)いして ミゾロの竜(たつ)の  
御魂(みたま)得(ゑ)て 名(な)も相(あゐ)ゾロの  
神(かみ)となる 田水(たみづ)お守(まも)り  
船(ふね)お生(う)む 貴船(きぶね)の神は  
船魂(ふなたま)か   貴船の神は、船魂神



火の国のどの部分で九頭龍が発生したか・・

 瓊々杵尊は、箱根に九頭龍が祀られている事情を知っておられただろう。
 そして、木花咲耶姫が三人の子を産むときの事情も考慮されたのだろう。
 生まれた三人の御子は、無戸室に柴を巡らして火を放った中から救出されたのだ。
 三人の御子は、火に状態に従って
 ・火明
 ・火進
 ・火遠
 といわれている。
 伊邪那美尊が神上がられた時、伊邪那岐尊がその原因を検証されたように、これまでの流れを振りかえって瓊々杵尊も何かを検証されようとされたのではないか?
 結果の立場から考察すると、それが九頭龍がどの段階で誕生し、どこにどういう風に潜むことになったのかの検証だったのではないか?
 天照大神とスサノオの誓約(うけい)の結果、大津シノ宮の対岸にある瑞穂宮の近くで5人の皇子が生まれている。
 この5人の皇子の中に九頭竜龍・持子のがいる。
 大津シノ宮には九頭龍の痕跡がある。
 木花咲耶姫の3人の子の宮を鑑みると、炎の絶頂の時に黒煙が発生し、炎が消えかかるときに九頭龍が誕生した、といえるのではないか。
 瓊々杵尊は、火の国のどの段階で九頭龍が誕生したのか、を特定させるために瑞穂宮鵜川宮大津シノ宮を設けたのではないか。

大津シノ宮の周辺図

大津シノ宮の周辺図

大津市から京都市