気比神宮の【土公】【1】ここだけは紹介しておきたい!|福井県

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福井県敦賀市曙町11(広域地図はこちら
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 平成21(2009)年5月4日(月)、福井県敦賀市で周った神社

気比神宮の土公気比神宮(けひ)角鹿神社(つぬが)手筒山神明神社松原神社常宮神社金ヶ崎宮

彦火々出見尊の御陵と考えられる、気比神宮の【土公】


気比神宮の土公が彦火々出見尊の御陵と推測できる貴船神社奥宮にある舟形岩が豊玉姫尊の御陵と推測できる

彦火々出見尊の御陵と考えられる、気比神宮の【土公】

彦火々出見尊の御陵と考えられる、気比神宮の【土公】

気比神宮の【土公】と手筒山

気比神宮の【土公】と手筒山

彦火々出見尊の亡骸は気比神宮に、豊玉姫の亡骸は罔象女宮に納められる。

◆大濡煮尊の御世から171万98年経た紀元前1,290,607年に瓊々杵尊は八洲巡りの勅を得、第二次天孫降臨の途中、酒折宮に入った。
 そこで葦津姫(あしつひめ)を一夜召されて契(ちぎ)りを結んだ。
 翌年の大濡煮尊の御世から171万99年経た紀元前1,290,606年の6月1日に葦津姫(あしつひめ)は三子を生んだ。
 瓊々杵尊に疑われた葦津姫(あしつひめ)は、三人の御子を火の中で生んだのだ。
 三人の御子は、火に状態に従って
 ・火明
 ・火進
 ・火遠
 といわれている。
◆天之忍穂耳尊が箱根神として神上がられてから、瓊々杵尊は3年の喪祭りを行った。
◆瓊々杵尊は、比叡山を造成された。
 造成の結果、穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。ミゾロ池西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 このことから瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。
◆大津シノ宮にいた彦火々出見尊は、2番目の兄の鵜川宮と一緒に北津(笥飯宮)に遷られている。
 北津(笥飯宮)にいるとき、海幸彦・山幸彦の物語に伝わる事件が起きた。
◆大濡煮尊の御世から2,102,078年経た紀元前898,627年に瓊々杵尊が火々出見尊へ天位継承され、豊玉姫、鵜葺草葺不合尊を生んでいる。
◆大濡煮尊の御世から251万1千60年経た紀元前489,645年に火々出見尊と豊玉姫は大津シノ宮で神上がられた。
 火々出見尊の御尊骸は、鹽土老翁神に笥飯(けゐ-弁当箱)をもらってから、巡りが開け、鉤(ち)を得る門出(かどで)になった笥飯(けゐ)に納められた。
 豊玉姫の御尊骸は、罔象女宮(貴船神社)に納められた。
 敦賀湾岸の気比の松原で鵜葺草葺不合尊が誕生した時、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、豊玉姫は罔象女宮(貴船神社)に身を隠したことがあった。
 神上がられる直前の瓊々杵尊が罔象女宮(貴船神社)に出向き説得されたことにより、豊玉姫は心を許した。
 豊玉姫は、瓊々杵尊が神上がられた喪祭りを罔象女宮(貴船神社)で行い、再び宮中に戻られたのだった。
 そいう由縁により、豊玉姫の御尊骸は、罔象女宮(貴船神社)に納められた。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P132-133 )

天君(あまきみ)と 后(きさき)諸(もろ)とも 彦火々出見尊と豊玉姫。
シノ宮に 降(お)り居(ゐ)てこゝに 近江国(滋賀県)大津シノ宮で神上がる。
近くに彦火々出見尊を祀る天孫神社と豊玉姫神を祀る関蝉丸神社(下社)がある。
神となる 時四十二鈴 大濡煮尊の御世より、251万1千60年。
紀元前489,645年
八百五十枝(やもゐそゑ) 極年(きわとし)ネウト 「極年」は「キアヱ」歴の最後の年という意味。
八月四日(はつきよか) 君(きみ)の喪祭(もまつ)り  
四十八日(よそや)済(す)み 勅(みこと)に任(まか)せ  
おもむろお 伊奢沙別宮(いさゝわけみや) 福井県敦賀市曙町の気比神宮。古くは「笥飯宮」「笥飯大神宮」と称した。
笥飯(けゐ)の神 ゆえは翁(をきな)に 笥飯(けゐ)とは弁当のこと
笥飯(けゐ)お得(ゑ)て 巡(めぐ)り開(ひら)ける  
鉤(ち)お得(ゑ)たり 門出(かどで)の笥飯(けゐ)ぞ  
拍手葉(かしはでは) 姫はおもむろ 豊玉姫の亡骸は
罔象女宮(みずはや) 昔(むかし)渚(なぎさ)に 罔象女宮(貴船神社)
誓(ちか)いして ミゾロの竜(たつ)の  
御魂(みたま)得(ゑ)て 名(な)も相(あゐ)ゾロの  
神(かみ)となる 田水(たみづ)お守(まも)り  
船(ふね)お生(う)む 貴船(きぶね)の神は  
船魂(ふなたま)か   貴船の神は、船魂神

気比神宮の【土公】

気比神宮の【土公】

気比神宮の【土公】

気比神宮の【土公】

気比神宮の【土公】

土公

気比宮古殿地の事(由緒書き)

気比神宮の【土公】の由緒書き

気比宮古殿地の事(由緒書き)

 気比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗(かつ)て手筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は気比之大神降臨の地であり、伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修したところとも伝えられる。
 土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、その期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。
 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公の参道はかろうじてそのままの形で残された。
 大宝2年(702年)造営以前の気比神宮はこの土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。
 この聖域を通して気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。

敦賀湾の周辺図

敦賀湾の周辺図