金崎宮(かねがさきぐう)【1】トップページ|福井県

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福井県敦賀市金ヶ崎町1-1 (広域地図はこちら
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 平成21(2009)年5月4日(月)、福井県敦賀市で周った神社

気比神宮の土公気比神宮(けひ)角鹿神社(つぬが)手筒山神明神社松原神社常宮神社金ヶ崎宮

建武の中興の・・尊良親王(たかながしんのう)恒良親王(つねながしんのう)

金崎宮(かねがさきぐう)拝殿

金崎宮(かねがさきぐう)拝殿

 後醍醐天皇は新田義貞に命じ、延元元年(1336年)10月、尊良親王(たかながしんのう)、恒良親王王(つねながしんのう)を奉じて北陸道に下向せしめた。
 一行は、氣比神宮の大宮司・気比氏治に迎えられ、その居城、金ヶ崎城に拠られた。
 しかしここも足利軍のせめるところとなり、総大将高師泰(こうのもろやす)は兵6万余りを以て陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年(1337年)正月、杣山城(そまやまじょう)の瓜生保等兵5千余の応援も功を奏せず、3月6日遂に落城、尊良親王(たかながしんのう)、新田良顕(新田義貞嫡子)以下将士300余人が共に亡くなられたと伝えられています。
 恒良親王(つねながしんのう)は、気比氏治(けひのうじはる)が子息斎晴(なりはる)によって脱出されたが、後に捕らえられ、延元3年(1338年)4月13日毒薬をもられて亡くなられました。
 御年15歳であったといわれています。

金崎宮(かねがさきぐう)の鳥居

ご祭神

尊良親王(たかながしんのう)
恒良親王(つねながしんのう)

金崎宮(かねがさきぐう)本殿

金崎宮(かねがさきぐう)本殿

金崎宮(かねがさきぐう)摂社・絹掛神社

摂社・絹掛神社

摂社・絹掛神社の由緒書き

金崎宮の退き口〜お市の方が信長に届けた『小豆袋』のエピソードから

金崎宮(かねがさきぐう)への参道

 お市の方が信長に届けた『小豆袋』のエピソードは、ここ福井県敦賀市の金ヶ崎でのものでした。
 元亀元年(1570)4月。
 朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。
 窮地に陥った信長でしたが、金ヶ崎城で殿(しんがり)を努めた豊臣秀吉の活躍で、無事帰京できたといわれています。
 その後の姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。
 そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。
 さらに、秀吉の殿を助け、後に謝意を受けた徳川家康……。
 金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっているのです。

金崎宮(かねがさきぐう)への参道

金崎宮(かねがさきぐう)の参道から手筒山を望む

金崎宮(かねがさきぐう)の参道から手筒山を望む

敦賀湾の周辺図

敦賀湾の周辺図