気比神宮の摂社・角鹿神社【1】ここだけは紹介しておきたい!|福井県

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福井県敦賀市曙町11(広域地図はこちら
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 平成21(2009)年5月4日(月)、福井県敦賀市で周った神社

気比神宮の土公気比神宮(けひ)角鹿神社(つぬが)手筒山神明神社松原神社常宮神社金ヶ崎宮

「敦賀」の地名発祥になった「ツノガアラシト」、「角鹿(つぬが)」

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)

本殿

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)の本殿

ご祭神

都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)

気比神宮の摂社・角鹿神社(つぬが)


 祟神58年(紀元前40年)、天鈴(あすず)678年8月、ツノガアラシトが来日。
 祟神天皇に5年仕えて帰るとき、ツノガアラシトの国に任那(みまな)という国号を与えられた。
 ツノガアラシトが半島についたとき、新羅の国から日本からの土産を奪われ、新羅と任那の間で争いが起きた。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十四「御間城の御代任那の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P402-403 )

(※)本紋は本文に「任那の紋」が別に加えられたような異例の形式をとっており、その点注意を要する
武埴安彦の反乱、百襲姫と大物主の結婚、皇位継承の夢占、そしてアラシト来朝、振根討伐の話が展開されている。
瑞垣宮(みづかき)の 五十八穂(ゐそやほ)八月(はづき) 紀元前40年、天鈴(あすず)678年8月
行幸(みゆき)して 笥飯(けゐ)大神(おおかみ)に 福井県敦賀市の氣比神宮
詣(もふ)でます 諸(もろ)祝ふとき  
角(つの)一(ひと)つ ある人ここに  
漂(ただよ)えり 言葉聞き得ず  
原見(はら)の臣(とみ) そろり良武命(よしたけ)  
良く知れば これに問はしむ  
その答え 「われは韓国(からくに)  
君(きみ)の御子(みこ) ツノガアラシト 『紀』には「都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)」と記されている。
 三品彰英は「都怒我(つぬが)」は新羅(しらぎ)や金官加羅の最高官位号「角干」を「ツヌア(ン)」と訓んだものかという。
「角が有し人」と意味にも思える。
父が名は ウシキアリシト 『紀』には「干斯岐(うしき)阿利叱智干岐(ありしちかんき)」と記す。
伝え聞く 聖の君に  
服(まつら)ふと 穴門(あなと)に至る 山口県豊浦郡周辺
伊都々彦(いつつひこ) 臣(とみ)に曰くは  
『この国の 君はわれなり  
ここに居れ』 人なり見れば  
君ならず さらに帰りて  
都路(みやこじ)と 浦島(うらしま)訪ね  
出雲経て ややここに着く  
神祭り 君ここにあり」  
故(かれ)ツノガ 召して仕えば  
忠(まめ)ありて 五年(ゐとせ)に賜(たま)ふ  
名は任那(みまな) カゾ峰錦(みねにしき)  
国苞(くにつと)に 帰るアラシト  
任那国(みまなくに) これ立ち初(そめ)ぞ  韓半島南部の国。
 洛東江流域に存在した金官加羅国などをはじめとする加羅諸国の連合国家。
 『紀』によれば日本の半島進出の拠点として「任那日本府」が置かれたと伝えられているが、実態がはっきりしない。
 562年、北の高句麗や東の新羅に圧迫され滅亡した。
= 中略 =  
時にアラシト  
元国(もとくに)に 帰さに土産(みやげ)  
奪われて 新羅(しらぎ)の国と  韓半島東南部慶州の地から起こり、祟神天皇41年(紀元前57年)に朴赫居世がはじめて建国したと伝えられる。
 第17代奈勿(なむる)王の時、神宮皇后に征服されたが、爾来中国の封冊を受けて、後に百済、高句麗を滅ぼし朝鮮全土を統一した。
仇(あだ)起こり 任那(みまな)の使(つか)ひ  

角鹿神社から見る三社(左から大神御前神社・児宮・角鹿神社)

角鹿神社・児宮・大神御前神社

末社の児宮

児宮

児宮

 末社、祭神伊弉冊尊、徳川時代から子育ての神と称され小児の守神として信仰が篤い。

ご祭神

伊弉冊尊(いざなみのみこと)

式内末社・大神御前神社

準備中
武内社。
氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていた。
明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。

ご祭神

大己貴命(おおなむちのみこと)

敦賀湾の周辺図

敦賀湾の周辺図