元伊勢外宮の豊受大神社【1】トップページ|京都府

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京都府福知山市大江町天田内60(船岡山)( マピオンによる広域地図
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豊受大神社、紀元前1,710,404年、豊受大神が神上られた船岡山にある元伊勢外宮

豊受大神社、船岡山にある元伊勢外宮

豊受大神社、船岡山にある元伊勢外宮

参拝履歴

ご祭神

【御祭神】豊受大神
【相殿神】日子番能邇々杵命(ひこほのににぎのみこと)
      天児屋根命
      天太玉命
     

豊受大神社の黒木鳥居

豊受大神社の黒木鳥居

本殿

豊受大神社の本殿

拝殿ならびの摂社

拝殿の左にある多賀之宮

本殿の左にある多賀之宮

拝殿の右にある土之宮

拝殿の右にある土之宮

本殿の左後方にある月宮

本殿の左後方にある月宮

本殿の右後方にある風宮

本殿の右後方にある風宮

【地図】福知山市大江町の豊受大神社周辺

【地図】福知山市大江町の豊受大神社周辺

紀元前1,710,404年に豊受大神の崩御、伊雑宮への遷宮、五男三女

 天照神が生まれてから8万年経った。

 豊受大神が神上がられる時の物語である。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の六「日の神十二后の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P352-356 )
  八万年(やよろとし)経て 天照神の代になって8万年経って
二十二鈴 五百五(ゐもゐ)枝(ゑ)初穂(はつ)に 大濡煮尊の御世より129万301年。
紀元前1,710,404年。
宮津より 早雉子(はやきじ)飛べ 急な使者のこと。
天日神(あまひかみ) 急ぎ真名井(まなゐ)に 真名井とは、宮津の宮の地をさす。
行幸(みゆき)なる 時に玉杵尊(たまきね) 玉杵尊(たまきね)とは、豊受大神の別称。
相語り 「昔(むかし)道奥(みちのく) 日高見のヤマテ宮
尽(つ)くさねば ここに待つ」とて  
授(さず)けまし 「諸神(もろかん)たちも  
しかと聞け 君(きみ)は幾世(いくよ)の  
御親(みをや)なり これ国常立尊(とこたち)の  
勅(ことのり)」と 洞(ほら)お閉(とざ)して  
隠(かく)れます その上(うゑ)に建つ  
朝日宮(あさひみや) 君(きみ)懇(ねんご)ろに 京都府大江町に豊受大神社(元伊勢外宮)があり、祭神は豊受姫神である。さらに皇大神社(元伊勢内宮)もあり天照皇大神を祀る。この両社が本書の伝承と関係するか。
祭(まつ)りして のち帰(かえ)まさん 原見山の安国の宮にお帰りになろうとするとき
御輦(みてぐるま) 留(とど)むる民お 民が御輦を引き止めるので
憐れみて 親(みづか)ら政(まつり) 9年間宮津の宮に留まった。
聞こし召す 趣(おもむ)き告げる  
雉子(きぎす)にて 向津姫(むかつひめ)より  
勅(ことのり)し 日高見(たかみ)に祭る  
豊受神(とよけがみ) 持子(もちこ)の典侍(すけ)と  
早子(はやこ)内侍(うち) 味子姫(あじこ)と三人(みたり) 持子、早子、味子の3名が朝日の宮で豊受神の御魂をお祭りする。
早(はや)行(ゆ)きて 真名井(まなゐ)の原(はら)の  
宮仕(みやづか)ゑ 勅(ことのり)あれば その後、3名は宮津の宮にいる天照神に仕える
門出(かどで)して 宮津の宮に  
あるときに 君(きみ)の御狩(みかり)に  
千足国(ちたるくに) 道(みち)お定(さだ)めて 鳥取県の霊石山に天照大神降臨伝承がある。同じく、島根県の隠岐の島にも天照大神降臨伝承がある。 この2つの伝承は、この時のものか?
治(をさ)むのち 八十杵尊(やそきね)の弟(おと) 豊受大神の5人の子、八十杵尊・伊邪那美尊・神狭日命兵主命・稜威雄走命。
神狭日命(かんさひ)お 益人(ますひと)となし  
また弟子(おとご) 兵主命(つわものぬし) 下の弟の兵主命
胡久美(こくみ)添(そ)え 局(つぼね)留(とど)めて 「千足国 益人胡久美 怠れば」〔6-5〕とあるように胡久美が政務を怠ったので、益人の官職から「添え」に格下げされた。
局とは、持子・早子・味子の3名。
帰(かえ)らんと 去年(こぞ)より仕(つか)ふ  
素戔嗚尊(そさのを)と 天道根命(あまのみちね)と 天道根命は神武天皇の「大和討ち」の時も登場するが、同じ人物か?
門出(かどで)なす ネナト三月 大濡煮尊の御世より1,290,310年の3月陰暦の15日。
紀元前1,710,395年
望(もち)よりぞ 四月の望(もち)に 3月15日に発ち、4月15日に着いた。
帰(かえ)ります 日速彦命(ひのはやひこ) 「ひさひこ」「ヒワヒコ」ともいう。武甕槌命(たけみかづちのみこと)のこと。
勅(みことのり) 「汝(なんじ)国絵(くにゑ)お  
写(うつ)すべし」 弥真瓊(やまと)巡(めぐ)りて  
みな描(ゑが)く 君(きみ)は都(みやこ)お  
遷(うつ)さんと 思金命(おもいかね)して  
造(つく)らしむ 成りて伊雑(いさわ)に 磯部町に伊雑宮がある。
宮(みや)遷(うつ)し ここに居(い)ませば  
向津姫(むかつひめ) 藤岡(ふじおか)穴山(あな) 外宮域内の多賀宮に御井があり、下御井神社と称している。これとは別に上御井神社、別名「忍穂井」が外宮敷地内の藤岡山に麓にある。
忍穂井(おしほゐ)に 産屋(うぶや)の耳(みみ)に  
生(あ)れませる 忍穂耳(おしほみ)の御子(みこ)  
忍仁尊(おしひと)と 諱(いみな)お触(ふ)れて  
神(かみ)在(あ)りの 餅(もち)飲(ゐ)賜(たま)えば  
民(たみ)歌ふ 先に持子が  
生む御子(みこ)は 穂日尊(ほひのみこと)の 持子の子:穂日尊(諱は、棚仁-たなひと)
棚仁(たなひと)ぞ 早子が三つ子  
一(ひ)は竹子(たけこ) 沖津島姫(おきつしまひめ)  
二(ふ)は湍子(たきこ) 江之島姫(えつのしまひめ)  
三(み)は田奈子(たなこ) 市杵島姫(いちきしまひめ)  
しかるのち 秋子姫(あきこ)が生める 金析命の娘、速開津姫・秋子が生む子
直杵(ただきね)は 天津彦根尊(あまつひこね)ぞ 天津彦根尊、諱は直杵。
しかるのち 道子姫(みちこ)が生める 八十杵尊の娘、大宮姫・道子が生む子
原杵(はらきね)は 生津彦根尊(いきつひこね)ぞ 生津彦根尊、諱は原杵。
豊姫(とよひめ)は 北(ね)の内侍(うちめ)にて 宗像命の娘、豊姫・紋子が生む子
額直(ぬかただ)の 熊野楠日尊(くまのくすび)ぞ 熊野楠日尊、諱は額直(ぬかただ)。
御子(みこ)すべて 五男(ゐをと)三女(みめ)  

紀元前1,290,607年、瓊々杵尊の第二次天孫降臨のとき、幣帛を納める

 第一次天孫降臨から26万年後の紀元前1,290,607年、大濡煮尊の御世から171万98年経て、瓊々杵尊に第二次天孫降臨の勅がでた。
  伊勢から出発し、飛鳥宮へ。
  兵庫県に、御津市か西宮市を通り、兵庫県神崎郡で大井を掘り、朝日神(豊受神)を祀る朝日宮に幣帛を納め、コヱの根の国行かれた。

 豊受大神社に瓊々杵尊が相殿神として祀られて来るのはこういう記憶だろうか?

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P3-32 )
  そもそもに 御孫(みまご)瓊々杵尊(ににきね)  
  新治宮(にはりみや) 筑波(つくば)に治む  
  年(とし)すでに 三鈴(みすず)二千五十年(ふちゐそ) 12万2050年
  つらつらと 思(おも)せば民(たみ)の  
  殖(ふ)ゆるほど 田は増さぬゆえ  
  糧(かて)足(た)らず 平場(ひらば)の小田(おだ)は  
  水(みず)絶えず 高田(たかだ)は雨の  
  降らぬ年 種(たね)お滅(ほろ)ぼす  
  川上(かわかみ)の 水お懸樋(かけひ)に 水を高いところから低いところに流す樋(とい)。
  運(はこ)ばせど これも崩(くづ)れば  
  井堰(いせき)建(た)て 堤(つつみ)築(きづ)きて 水を他に引くために、川水をせき止めた所。
  山水(やまみず)お 取りて高田お  
  開かんと 稜威(いづ)の鴨船(かもぶね)  
  伊勢に着け 巡(めぐ)り請(こ)えども  
  大御神(ををんかみ) 許(ゆる)さずここに  
  仮住居(かりすまゐ) 山田(やまだ)野(の)高(たか)く 「山田」は、三重県伊勢市の旧称の宇治山田。
  宮川(みやかわ)の 上(かみ)より井堰(いせき) 「宮川」は宇治山田の付近を流れる川。
  堤(つつみ)築(つ)き ついに高野(たかの)お  
  田(た)となせば 五年(ゐとせ)の内(うち)に  
  瑞穂(みづほ)なる 他(ほか)に十八箇(そやか)の  
  井堰(いせき)なる 時に天照神(あまてる)  
勅(みことのり) 「八洲(やしま)巡(めぐ)れ」と  
  触(ふ)れ給(たま)ふ 時(とき)二十九鈴(ふそこすヾ) 第一次天孫降臨から26万年後の
紀元前1,290,607年、 大濡煮尊の御世から171万98年経ている。
  五百(ゐも)の一枝(ひゑ) 三十八年(みそや)二月(きさらぎ) 2月1日
  朔(ついたち)と 梅(うめ)の花見(はなみ) 瓊々杵尊の八洲めぐりの勅の時、
梅の花見をする。
  御饗(みあえ)して 日読みの宮の  
  門出(かどで)宣(のり) 昔(むかし)日読(ひよ)みの  
  思金命(おもいかね) 暦(こよみ)作りて  
  ここにあり のち叢雲命(むらくも)に  
  譲(ゆず)り置(お)く 叢雲命(むらくも)天(あめ)の  
  御伴(をんとも)に 飛鳥(あすか)に侍(はべ)る  
  手力雄(たじからを)命 親(をや)のあととて  
  ここにあり 御巡狩(みかり)の御伴(をとも)  
  請(こ)ふゆえに 叢雲命(むらくも)召(め)して  
  勅(みことのり) 「汝(なんじ)叢雲(むらくも)  
  暦(こよみ)なす 鏡(かがみ)曇(くも)れば  
  賜(たま)ふ名(な)は 天二枝(あめふたゑ)なり」  
  天二枝命(ふたゑ)今日(けふ) 御饗(みあえ)おなせば  
  門出(かどい)でに 御機(みはた)の留(とめ)の 御機の留」とは、君が政治を行うのに必要な教えを記した文。
  御文(おんふみ)お 御孫(みまご)に賜(たま)ひ 天照神の孫にあたる瓊々杵尊へ。
三種神宝の授与。
  御鏡(みかがみ)お 天児屋根命(こやね)に賜(たま)ひ 御鏡(瀬織津姫)→ 天児屋根命
  御剣(みつるぎ)お 子守神(こもり)に賜(たま)ひ 御剣(速開津姫)→ 子守神
  曰(のたま)ふは 「先(さき)に三種(みくさ)の  
  宝物(たからもの) 御子(みこ)忍仁尊(おしひと)に  
  賜(たま)いしは 兄(あに)御孫(みまご)得(ゑ)て 瓊々杵尊の兄にあたる火之明照彦尊のこと。
  太玉(ふとたま)と 香久山(かぐやま)翼(はね)の  
  大臣(をみ)となる 天児屋根(こやね)大物主(ものぬし)  
  清仁(きよひと)が 翼(はね)の大臣(をみ)なり 清仁とは瓊々杵尊のこと。
  君(きみ)と大臣(をみ) 心(こころ)一(ひと)つに  
  彼(か)の鳥(とり)の 形(かたち)は八民(やたみ)  
  首(くび)は君(きみ) 鏡臣(かがみ)は左羽(たはね)  
  剣臣(つるぎ)右羽(かは) 物部(もののべ)は足(あし)  
  鏡大臣(かがみをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば その教えを伝承する子孫が滅びれば、の意。
  民(たみ)離(はな)れ 日嗣(ひつぎ)践(ふ)まれず  
  剣大臣(つるぎをみ) 末(すえ)滅(ほろ)ぶれば  
  物部(ものべ)割(わ)れ 世(よ)お奪(うば)わるる  
  八咫鏡臣(やたとみ)は ゾロ生(は)ふ春(はる)の ゾロとは稲および畑の苗のこと
  民業(たみわざ)お 鑑(かんが)みる目ぞ  
  垣大臣(かきおみ)は 邪魔(よこま)お枯(か)らし 八重垣臣・剣臣のこと。
  物部(もののべ)の 力(ちから)守(も)る手ぞ」  
  このゆえに 三種神宝(みくさ)お別(わ)けて  
  授(さづ)く心(い)は 永(なが)く一(ひと)つに  
  なる由(よし)お 綾(あや)に印(しる)して  
  御手(をて)づから 文(ふみ)お御孫(みまご)に  
  授(さづ)けます 瀬織津姫(せおりつひめ)は  
  御鏡(みかがみ)お 持(も)ちて春日神(かすが)に  
  授(さづ)けます 速開津姫(はやあきつめ)は  
  御剣(みつるぎ)お 持(も)ちて子守神(こもり)に  
  授(さづ)けます 三度(みたび)敬(うやま)ひ  
  みな受(う)くるかな    
  しかるのち 三種(みくさ)神宝(たから)お  
  櫃(ひつ)に入(い)れ 印(しるし)は榊(さかき)  
  先駆(さきがけ)は 手力雄命(たじからお)なり  
  次(つぎ)勝手神(かって) 大物主命(おおものぬし)と  
  三種(みくさ)櫃(ひつ) 八英(やふさ)御輦(みくるま)  
  次(つぎ)天児屋根命(こやね) 籠馬(かごむま)八十(やそ)の  
  物部(もののべ)ら 伊勢(いせ)より立(た)ちて 伊勢から出発し、飛鳥宮へ。
飛鳥宮(あすかみや) これより御津(みつ)の 兵庫県に、御津市西宮市がある。
西宮(にしのみや) まづ神崎(かんざき)の 兵庫県神崎郡
大井(おおい)堀(ほ)り 真名井(まなゐ)に至(いた)り 朝日神(豊受神)を祀る朝日宮。京都府加佐郡にある豊受神社と推定される。
幣(ぬさ)納(おさ)め コヱの根(ね)の国(くに) コヱの根の国

紀元前80,705年に伊雑宮から宇治精奇城(伊勢神宮)へ遷座、天照神の神上がり

 紀元前80,705年に伊雑宮にいて十二后が神上がられたので、内宮の瀬織津姫神と共に、宇治精奇城(伊勢神宮)に遷座。
 2万年経って鈴木が自生したのをみて天照神は天意を悟った。

 天照神が神上がられる時の物語である。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八「君臣遺し宣の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P172-199 )
  二十一(ふそひ)の鈴(すず)の 紀元前1,794,705年
120万6000千年。
百枝(ももゑ)のち 五代(ゐよ)玉杵尊(たまきね)の 豊受の神
伊佐子姫(いさこひめ) 七代(ななよ)の神の 伊邪那美命の父は豊受の神
高仁尊(たかひと)と 高日(たかひ)の西南(つさ)の 伊邪那岐命。高日は日高見の国。
筑波山(つくばやま) 伊佐川(いさかわ)離(はな)る 筑波山は日高見の西南に位置している
宮に居て 諾(うなづ)き編(あ)みて 婚礼の儀を行い拝礼を重ねて
木実(きみ)合(あ)ひて 名も伊邪那岐尊(いさなき) 木は男神、実は女神を意味する。
伊邪那美尊(いざなみ)の 天二神(あめふたかみ)の  
御子(みこ)無きお 故(かれ)玉杵尊(たまきね)の  
葛城(かつらぎ)の 山に祈れば 豊受神の葛城山の祈祷に関する記述はとても多い。〔4-15〕〔14-16〕〔16-21〕〔28-3・4〕。
 葛城の一言主神についての記述は〔9-12〕〔10-19〕。
 神代豊受大神日高見国の近き所に、「イトリ山」というのがあって、世嗣の御子をお祈り有りしや、遥かに遠ければ、今に残りその跡もありや覚束なし。
 大和国葛城山の麓の野夫の物語には、葛城山東面山間半腹の辺り、世俗に祈取(いのとり)山と名付くという。
 (上巻P309より)
天御祖神(あめみをや) 日(ひ)の輪(わ)の御魂(みたま)  
分(わ)け降(くだ)し 天照神(あまてるかみ)お  
生(う)み賜(たま)ふ 時(とき)二十一(ふそい)鈴(すず)  
百二十五枝(ももふそゐゑ) 三十一穂(みそひ)キシヱの 大濡煮尊の御世より120万7,531年
紀元前1,793,174年
初日の出 若日(わかひ)とともに  
生(あ)れませば 諱(いみな)若仁尊(わかひと) 元伊勢の天之岩戸神社に産盥(うぶだらい)が残されていることから推定して、天照神が誕生した場所は、元伊勢内宮の皇大神社がある場所かもしれない。
あるいは、産湯に使われる水が天之岩戸神社の産盥(うぶだらい)から酒折神社に運ばれたのだろうか?
産宮(うぶみや)は 原見(はらみ)酒折宮(さかおり) 今でいう「宮参り」を酒折神社でなされ、そして酒折神社で即位されたのだろう。
後に瓊々杵尊が朝間宮に造り替えている。
 ---<中略>----  ---<中略>----  
  時(とき)に伊雑宮(いさわ)の  
天(あま)つ神(かみ) 十二(そふ)の后(きさき)も  
神(かみ)となる 瀬織津姫(せおりつひめ)と  
大御神(ををんかみ) 宮(みや)遷(うつ)さんと  
御裳裾川(みもかわ)に 天(あ)上(のぼ)る道(ち)得(ゑ)て  
精奇城(さこくしろ) 宇治(うぢ)の宮居(みやゐ)に 伊勢神宮の創建記録。〔36-16〕参照。
紀元前80,705年
大濡煮尊の御代から2,920,000年に伊勢神宮(伊勢宇治宮)に遷座。
二万穂(ふよほ)経(へ)て 時(とき)に五十鈴(ゐそすず) 紀元前60,704年
大濡煮尊の御代から2,940,001年
宮(みや)に生(は)ゑ つらつら思(おぼ)す 鈴木(すずき)が自生する。
『植(う)えずして 生(は)ゑるも天(てん)よ  
わが命(いのち) 天(あめ)が知(し)らす』と  
八百神(やもかみ)お 召(め)して『われ世(よ)お  
辞(いな)まん』と 猿田彦命(さるた)に穴(あな)お  
掘(ほ)らしむる 『真名井(まなゐ)に契(ちぎ)る 紀元前60,704年
大濡煮尊の御代から2,940,001年
猿田彦命にお隠れの穴を掘らせた。
朝日宮(あさひみや) 同(おな)じ所(ところ)』と  
曰(のたま)えば 諸(もろ)驚きて  
留(とど)むれば 『いやとよわれは  
民(たみ)のため 苦(にが)きお食(は)みて ハラミ三草のこと。
百七十三万(もなそみよ) 二千五百年(ふちゐもとし)お  
永らえて 天(あめ)の楽(たの)しみ 天界高天原の精奇城宮で至楽の暮らしを送ること。
覚(おぼ)ゆれば 世(よ)に遺(のこ)す歌(うた)  
常(つね)に聞く 清雄鹿(さおしか)八咫(やた) 清雄鹿とは「トホカミヱヒタメ八神」のこと。八天神を移し作られた冠を「さおしか八咫冠」という。
わが冠(かんむり) 衣臣(はとみ)裳民(もたみ)に  
緒(を)お届け 天地(あわ)お束(つか)ねて  
日嗣(ひつき)なす 裳裾(もすそ)をくめと  
君民(きみたみ)の 教(おし)ゑ遺(のこ)して  
天(あ)に還(かえ)る とてな痛(いた)めそ  
わが御魂(みたま) 人(ひと)は天(あ)の裳(も)の  
上にある われは冠(かんむり)  
人草(ひとくさ)は 耳(みみ)近(ちか)き緒(お)ぞ  
胸(むね)清(きよ)く 身は垢(あか)つけど  
指神(さし)が見て 天(あめ)に告(つ)ぐれば  
清雄鹿(さおしか)の 八(や)つの聞(き)こえに  
現(あら)はれて 祈(いの)れもがも』と  
御裳裾(みもすそ)の 民(たみ)お撫(な)でつつ  
『清雄鹿(さをしか)の 清(きよ)きに神(かみ)は  
あり』と答(こた)えき    
 返(かえ)し 祝詞歌(のとうた)  
人(ひと)常(つね)に 神(かみ)に向(むか)はば  
世(よ)の身々(みみ)の 垢(あか)は天元(あもと)の  
清雄鹿(さおしか)に 清(きよ)め給(たま)ひて  
精奇城(さこくし)の 恩頼(ふゆ)の鏡(かがみ)に  
入(い)ると思(おも)ゑば    
また猿田彦(さるた) 『昔(むかし)授(さづ)くる  
逆矛柱(さかほこぎ) 美しき鈴 天逆矛柱のこと
地活(わいき)き太刀(たち) カカンノンデン 「カカン」とは篝火(かがりび)
「ノン」とは祝詞(のりと)
「テン」とは手振り(てぶり)
の訛音とする説を松本善之助氏は述べている。 〔序-註58 上巻P181〕〔14-2〕も参照。
時(とき)待(ま)ちて 道(みち)顕(あら)はせよ』  
また后(きさき) 『広田宮(ひろた)に行(ゆ)きて  
和歌姫(わかひめ)と ともにヰ心(ごころ)  
守(まも)るべし われは豊受神(とよけ)と  
ヲセお守(まも)る 伊勢(ゐせ)の道なり』  
また天児屋根(こやね) 『汝(なんじ)良(よ)く知(し)る  
竹子姫(たけこ)が子(こ) 奇彦(くしひこ)生(う)まれ  
直(す)ぐなれば 授(さづ)く御矛(みほこ)に  
鑑(かんが)みて 三諸山(みもろ)に入りて 竹子姫の子・奇彦は授けた逆矛を持って三諸山(三輪山)に窟に入り、時を待っている。
時(とき)待つも 道(みち)衰(おとろ)はば  
また出(い)でて 興(おこ)さんためや それも天の道が衰えるようなときは、また生まれ変わって道を復興させるためである。
汝(なんじ)また 鏡(かがみ)の臣(とみ)は  
軽(かろ)からず 神(かみ)お都(みやこ)に  
留(とど)むべし われも守(まも)らん  
これなり』と 御世(みよ)の御衣箱(みはばこ) 御在世朝政の御装束一箱
御璽(みをしで)と 『汝(なんじ)春日(かすが)よ  
遺(のこ)し物(もの) 多賀宮(たが)に持ち行(ゆ)き
捧(ささげ)げよ』と 親(みづか)らこれお  
授(さづ)けます 春日(かすが)は君(きみ)に  
奉(たてまつ)る 神の璽(をして)と 鵜葺草葺不合尊へ奉った。
清雄鹿(さおしか)の 冠(かんむり)と衣裳(はも)は  
菊散錦(ここちり)ぞ 行幸(みゆき)の神輿(みこし)  
真名井(まなゐ)にて 天照神(あまてるかみ)は 紀元前60,674年
大濡煮尊の御代から2,940,031年
猿田彦命に穴を掘らせてから30年後に元伊勢内宮で神上がり。
内(うち)つ宮(みや) 豊受(とよけ)は外宮(とみや)  
故(かれ)春日神(かすが) 送りてのちは  
勤(つと)め降(お)り 三笠社(みかさやしろ)の  
魂(たま)返(かえ)し 国(くに)治(をさ)まれば  
枯(か)れも無し 政(まつり)の紋(あや)お  
三(み)つ染(そ)めて 一つ持ち行(ゆ)きて  
日読みなす 天二枝命(ふたゑ)に授(さづ)け  
御裳裾(みもすそ)の 精奇城(さこくしろ)宇治(うぢ) 精奇城宇治を改めて、天照神の「内つ宮」と称する。
改(あらた)めて 天照神(あまてるかみ)の  
内(うち)つ宮(みや) 八百(やも)仕(つが)ふ神  
侍(はんべ)りて 胙(ひもろぎ)捧(ささ)げ  
天(あ)に応(こた)ふ 伊勢(ゐせ)の道(みち)受(う)く  
神臣(かんとみ)の 仕(つか)ふ神(かみ)らが  
侍(はべ)るゆえ 内侍所(うちはべどころ)  
春日神(かすが) 太祝詞(ふとのりと)事(こと)お 内侍所に天児屋根命が仕え、太祝詞を掌る。
掌(つかさど)るかな    
六万年 経(へ)て去年(こぞ)尽(つ)きる 紀元前705年
大濡煮尊の御代から3,000,000年
鈴木の折鈴。
折鈴(さくすず)ぞ