河合神社(かわい) 【1】トップページ|京都府

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京都府京都市左京区下鴨泉川町( マピオンによる広域地図
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 平成21(2009)年5月5-6日(火・水)、京都市で周った神社

梶取社貴船神社(本宮)貴船神社(奥宮)の船形石貴船神社(奥宮)貴船神社(結社)
鞍馬寺鞍馬寺の不動堂鞍馬寺の魔王殿
河合神社下賀茂神社(賀茂御祖神社) 出雲井於神社(いずもいのへ)三井神社(みつい)井上社(御手洗社)
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豊玉姫を養うために、瓊々杵尊から鴨建祗命が河合の国を賜った・・

豊玉姫を養うために、瓊々杵尊から鴨建祗命が河合の国を賜った

◆第一次天孫降臨から26万年後の紀元前1,290,607年に第二次天孫降臨。
 紀元前1,120,703年、天之忍穂耳尊が神上がられたとき、瓊々杵尊は3年の喪祭りを行った。
 喪祭りの済んだ紀元前1,120,700年、瓊々杵尊は比叡山造成の勅を出された。
 深泥池(ミゾロ池)西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、生かし、雷を分け鎮めた。
 そして分け鎮めた雷(鳴る神)を、葵葉(あおいば)と(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 これが上賀茂神社(賀茂別雷神社)の創祀に関わることかもしれない。

紀元前898,627年、豊玉姫は敦賀湾の気比の松原(推定地は神明神社)で鵜葺草葺不合尊を生んだ。

 そして、産後の体を休めているとき、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、遠敷の宮に鵜葺草葺不合尊を預けおき、罔象女宮(貴船神社の奥宮)に身を隠した。
 翌年紀元前898,626年罔象女宮(貴船神社の奥宮)において、瓊々杵尊が葵葉(あおいば)と桂葉(かつらば)を用いた説得を行い、豊玉姫は心を許すことになった。

 紀元前898,626年のその時、瓊々杵尊から豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)に、

「豊玉姫を養うように」
 と詔が下され、河合の国(河合神社がある一帯か)を賜った。河合神社の北側には鴨御祖神社がある。

(※)紀元前898,626年のこの出来事が、

「太古鴨の大神が降臨された御蔭山
という伝承になったのかもしれない。

河合神社境内図

◆彦火々出見尊は、瓊々杵尊が神上がられると、天照神からご指示どおり喪祭りを行う。

 それを喜ばれた天照神から「御祖に仕ふ天君」という讃え名をもらう。(P110)
 豊玉姫は、罔象女宮(貴船神社の奥宮)において瓊々杵尊が神上がられた48日の喪祭りを営み、一年祭も御饗をして神を祭られたのです。
 瓊々杵尊の一年祭を終えた紀元前898,625年、彦火々出見尊は、三穂津姫の孫・磯依姫を使者として豊玉姫に御歌を届け、豊玉姫は瑞穂の宮に登り、彦火々出見尊とともに暮らされることになった。

◆豊玉姫が瑞穂宮に戻った紀元前898,625年7月7日に、鴨建祗命に勅命が下った。

 それは、彦火々出見尊の12后の一人である三穂津姫の孫・磯依姫を妻にするようにという内容のものだった。
 三穂津姫の孫・磯依姫は、1年前に罔象女宮(貴船神社の奥宮)にいた豊玉姫に彦火々出見尊の御歌を届けられたことがあった。
 三穂津姫の孫・磯依姫は、鴨建祗命の妻になり、河合の館(河合神社がある)に共に住むようになった。

豊玉姫を養うために、瓊々杵尊から鴨建祗命が河合の国を賜った

紀元前489,645年の8月4日、火々出見尊と豊玉姫は大津シノ宮で神上がられた。

 火々出見尊の御尊骸は、鹽土老翁神に笥飯(けゐ-弁当箱)をもらってから、巡りが開け、鉤(ち)を得る門出(かどで)になった笥飯(けゐ)に納められた。
 → 気比神宮の土公
 豊玉姫の亡骸罔象女宮(貴船神社の奥宮)に納められた。
(※)罔象女宮の舟形石が豊玉姫の御陵墓か
 豊玉姫尊にとって罔象女宮(貴船神社の奥宮)は瓊々杵尊から教えを受けたとても貴い場所だったからである。

 紀元前489,643年の夏、鵜葺草葺不合尊は、天照神から、「御祖天君」という讃え名をもらう。

 天照神は「御祖大神」と讃えられている。
 春日神と子守神は、糺の殿(鴨御祖神社のある糺の森と関連があるか)にいてあまねく治めになられていた。

玉依姫は、紀元前178,625年ごろ、河合の館(河合神社がある)で誕生された。

 鴨建祗命と磯依姫は河合の館(河合神社がある)に住んで13鈴(72万年)経つが、子供ができなかった。
 それで、別雷神(賀茂別雷神社のことか)にお祈りされた。
 すると、その夜の夢に玉が現れ、すぐに子供ができたのでした。
 その子を玉より生まれた姫という意味で、玉依姫と名付けられた。
 玉依姫の誕生には、別雷神(賀茂別雷神社のことか)の力が加わっている。

玉依姫が生まれてから6万年経って、紀元前118,625年ごろ建祗命と磯依姫が神上がられる。

 玉依姫は、ご両親が神上がられたので、河合の神として祭り、喪祭りを行った。
 建祗命と磯依姫の喪祭りを済ませてから、玉依姫は上賀茂神社(賀茂別雷神社)に詣でていた。
 玉依姫がある日瀬見の小川(賀茂川)で禊されていると、白羽の矢が飛んできて、河合の館の軒の茅の間に刺さった。
 すると姫の月経が止まり、子を身籠った。
 その子が3歳になったとき、飛んできた白羽の矢を指して
「父・・・」
 というと、矢はたちまち空に飛び上がったのです。
 この噂はたちまちにして広まり、みな口々にその矢が、
「別雷の神なり(雷)」
 と噂し世に鳴り渡りました。
 玉依姫とこの珍の御子を諸神がもらい受けようと願い出たのですが、一向に姫はうなずかれませんでした。
 姫は人目を避け高野の森に隠れ住み、別雷神を祠に祭って、常に御神影をお慕いしておられた。

(※)玉依姫が隠れ住んだと伝わる高野の森とは、御蔭神社周辺のことだろう。

 御蔭山が、御生山(みあれやま)と呼ばれるようになったは、玉依姫命が、出雲の御子(御毛入命)を生み育てたことによるかもしれない。

八瀬姫は、紀元前66,043年に五瀬尊を生み、すぐ神上がられた。

 そのため、五瀬尊に御乳を差し上げる御乳姫を求めるお触れが出された。
 そのお触れを見た民が玉依姫のことを告げた。
 紀元前66,043年、玉依姫が鵜葺草葺不合尊の内侍となり、五瀬尊の養育に当たられた。

紀元前711年、玉依姫神が内宮となり神武天皇を生む。

 紀元前698年、鵜葺草葺不合尊が神上がられ時の勅命、
 シラヤの璽 → 神武天皇へ
 国を治めるための「百の文」 → 天種子へ
 八咫鏡 → 玉依姫が預かり、別雷の宮に納める(天種子の父・天押雲命が授かったもの)
 八重垣剣 → 玉依姫が預かり、別雷の宮に納める(天種子の父・鰐彦櫛甕玉が授かったもの)
 神武天皇が15歳の時(紀元前698年)、鵜葺草葺不合尊が神上がられ、吾平津山に御祖神としてお祭りした。

 玉依姫が神上がられるとき、

 八咫鏡は河合の宮に遷し置かれることになった。
 そして、玉依姫も神上がられ、河合の地に御祖神(鵜葺草葺不合尊)と共に合祀され、のち夫婦の神としてその御神徳の著しいものがあった。

河合神社の本殿

ご祭神

玉依姫命(神武天皇の御母神)

本殿

河合神社の本殿

垣内にある摂社・貴布禰神社

垣内にある摂社・貴布禰神社

垣内にある摂社・貴布禰神社の説明版

要文化財申請社殿:貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神 高龗神(たかおかのかみ)
天地に恵みを与える雨をつかさどり、祈雨・止雨に霊験あらたかな神様です
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で、水の神として有名。

垣内にある摂社・任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)

任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)

任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)の説明版

任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)
御祭神 八咫烏命(やたがらすのみこと)
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。
昭和六年(1931)御祭神の八咫烏命が、日本の国土を開拓した神の象徴として
日本サッカ−ボ−ル協会のシンボルマ−クとなって以来、サッカ−必勝の守護神として有名である。

六社(むつのやしろ)

六社

六社の説明版

鴨長明の方丈

鴨長明の方丈
鴨長明の方丈の説明版

鴨 長明

 久寿二年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)七歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月源の頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。
 正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。
 しかし、元久元年(1204)五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」に

石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ

をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で没した。

 長明の方丈

 鴨長明は、五十歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。
 その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。広さは一丈(約三メ−トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。
 下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。

三井社(みついしゃ)

みついしゃ

みついしゃの説明版

三井社(みついしゃ)
御祭神:
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)

玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)

伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)とは、
子守神の第三女の磯依姫であろう。

賀茂御祖神社周辺

賀茂御祖神社周辺

葛野から比叡山