賀茂御祖神社の南側に出雲井於神社【1】ここだけは紹介しておきたい!

マピオン地図
京都府京都市左京区下鴨泉川町59( マピオンによる広域地図
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 平成21(2009)年5月5-6日(火・水)、京都市で周った神社

梶取社貴船神社(本宮)貴船神社(奥宮)の船形石貴船神社(奥宮)貴船神社(結社)
鞍馬寺鞍馬寺の不動堂鞍馬寺の魔王殿
河合神社下賀茂神社(賀茂御祖神社) 出雲井於神社(いずもいのへ)三井神社(みつい)井上社(御手洗社)
上賀茂神社(賀茂別雷神社)上賀茂神社摂社の片山御子神社神山(こうやま)深泥池(ミゾロ池)広沢池

賀茂御祖神社(下賀茂神社)拝殿南にある出雲井於神社(いずもいのへ)・・

出雲路森(いづもじもり)に関連しそうな出雲井於神社(いずもいのへ)・・

賀茂御祖神社(下賀茂神社)の拝殿南にある出雲井於神社(いずもいのへ)

賀茂御祖神社(下賀茂神社)の拝殿南にある出雲井於神社(いずもいのへ)
  賀茂社―上賀茂神社・下鴨神社 (日本の古社) からの引用

 玉依姫は、紀元前178,625年ごろ、河合の館(河合神社がある)で誕生された。

 鴨建祗命と磯依姫は河合の館(河合神社がある)に住んで13鈴(72万年)経つが、子供ができなかった。
 それで、別雷神(賀茂別雷神社のことか)にお祈りされた。
 すると、その夜の夢に玉が現れ、すぐに子供ができたのでした。
 その子を玉より生まれた姫という意味で、玉依姫と名付けられた。
 玉依姫の誕生には、別雷神(賀茂別雷神社のことか)の力が加わっている。

玉依姫が生まれてから6万年経って、紀元前118,625年ごろ建祗命と磯依姫が神上がられる。

 玉依姫は、ご両親が神上がられたので、河合の神として祭り、喪祭りを行った。
 建祗命と磯依姫の喪祭りを済ませてから、玉依姫は上賀茂神社(賀茂別雷神社)に詣でていた。
 玉依姫がある日瀬見の小川(賀茂川)で禊されていると、白羽の矢が飛んできて、河合の館の軒の茅の間に刺さった。
 すると姫の月経が止まり、子を身籠った。
 その子が3歳になったとき、飛んできた白羽の矢を指して
「父・・・」
 というと、矢はたちまち空に飛び上がったのです。
 この噂はたちまちにして広まり、みな口々にその矢が、
「別雷の神なり(雷)」
 と噂し世に鳴り渡りました。
 玉依姫とこの珍の御子を諸神がもらい受けようと願い出たのですが、一向に姫はうなずかれませんでした。

 姫は人目を避け高野の森に隠れ住み、別雷神を祠に祭って、常に御神影をお慕いしておられた。

(※)紀元前898,626年に鴨建祗命が河合の国を賜ったとき、御蔭山に降臨し、河合の国に立ち降りられた。
 そして、紀元前118,625年ごろ、建祗命と磯依姫が神上がられてから、玉依姫命が、出雲の御子(御毛入命)を生み育てたことによって、御蔭山は、御生山(みあれやま)と呼ぶようになったのかもしれない。
 御蔭神社があるあたりが、高野の森だろうか。

出雲路森(いづもじもり)という地名の由来。

 玉依姫が子を産んで、隠れ住むようになった森に五色の雲が起こったため出雲路森(いづもじもり)と名付けられたという。
 河合神社に西を流れる賀茂川の西岸に出雲路(いづもじ)という地名が残っている。
 この出雲路森(いづもじもり)と出雲井於神社(いずもいのへ)の関連があるかもしれない。

賀茂御祖神社周辺〜出雲路

八瀬姫は、紀元前66,043年に五瀬尊を生み、すぐ神上がられた。
 そのため、五瀬尊に御乳を差し上げる御乳姫を求めるお触れが出された。
 そのお触れを見た民が玉依姫のことを告げた。
 紀元前66,043年、玉依姫が鵜葺草葺不合尊の内侍となり、五瀬尊の養育に当たられた。

紀元前711年、玉依姫神が内宮となり神武天皇を生む。

出雲井於神社(いずもいのへ)

ご祭神

建速須佐乃男命

出雲井於神社(いずもいのへ)の末社、岩本社(北側)と橋本社(南側)

 岩本社(北側)

広沢池の西岸にある児神社
祭神:住吉神

 橋本社(南側)

広沢池の西岸にある児神社
祭神:玉津島神

「出雲路森」に関連しそうな出雲井於神社(いずもいのへ)の由緒書き・・

「出雲路森」に関連しそうな出雲井於神社(いずもいのへ)の由緒書き

重要文化財

出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)
祭神 建速須佐乃男命

例祭日 10月14日

「延喜式に」「出雲井於神社」とある神社で「日本書紀」神武天皇2年の条に葛野主殿県主部とある氏族が祖神として奉斎した社である。
 この県主部は古代山城北部に蟠踞し、鴨氏と同じ祖先を持ち「神亀3年(726)山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳(正倉院文書)で知られる氏族である。
 大宝令(700)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川の西方より東山までの地域が愛宕郡となり鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸出雲郷となった。「井於(いのへ)」とは、川のほとりのことで、出雲郷の川のほとりに坐す社の意である。
 承和二年(844)2月20日、太政官符によって制定された鴨社領出雲郷の総社であったところから、氏神社、地主社としての信仰が厚く、元永2年(1119)2月1日、当神社大火の記録(長秋記、中右記、百練抄等々)に収載の社でもある。
 通称を比良木(ひらき)神社と呼ばれているのは、本宮の御陰祭(御生(みあれ)神事)が行われていた犬柴社と愛宕郡栗田郷藪里総社柊社がいずれも同神であったところからこの社に合祀されたので、その名がある。
 また、社の周辺に植える木はことごとく柊になるとの伝承があり「何でも柊」と呼ばれ、京の七不思議に数えられている。
 現在の社殿は寛永6年度(1629)式年遷宮の時、先の式年遷宮(天正9年 1561)に造営された本宮本殿が移築されたもので中世の鴨社社殿として貴重である。

賀茂御祖神社周辺

賀茂御祖神社周辺〜出雲路

葛野から比叡山