昭和64年・平成元(1989)年〔私30歳〕のメモ書きと更新履歴
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この年の主要なトピック。
1月7日(土)午前6時33分、第124代昭和天皇の崩御1月7日(土)14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が「平成」と発表
4月1日(土)、第74代竹下登総理大臣の元で消費税法施行 税率3%
6月4日(日)、中国で六四天安門事件
10月から、ヒッグス粒子の本格的な探索の開始
11月9日、ベルリンの壁崩壊
1月7日(土)午前6時33分、第124代昭和天皇の崩御
第124代昭和天皇の崩御。
1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(死去)、87歳。
1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(死去)、87歳。
1月7日(土)14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が「平成」と発表

「平成」は、元号法が制定された際に陽明学者・安岡正篤が考案したと言われ、改元時の内閣総理大臣・竹下登ら政府首脳も決定前から執心していた。
また、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外部に漏れ、幾ばくかの国民の間には予め予想する事が可能でもあった。
政府は第124代天皇 (昭和天皇)が崩御された1989年(昭和64年)1月7日午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と衆参両院正副議長に3つの候補を示し、意見を聴いた。
その際、「平成」は最初に書かれており、また、他の「修文(しゅうぶん)」、「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になり初めから選び得ないものだった。
同日14時10分から開かれた臨時閣議で正式に決定し、14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が記者会見で発表。
同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が公布され、翌日から施行された。
写真は、記者会見で新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官。
◆ 1989年1月7日の夕刊より
政府は七日、天皇陛下が崩御され、新天皇が即位されたのに伴い、「昭和」に代わる新元号を「平成」と決定した。八日から施行される。
改元は従来、時々の天皇主導のもとで行われてきたが、今回は歴史上初めて、政府が法律(元号法)に基づき、政令で決めた。
「大化」(西暦六四五年)以来、二百四十七番目の元号(内閣調べ)となる。
「大正」や「昭和」への改元は、新天皇即位当日の「即日改元」だったが、今回は翌日改元となるのが特徴だ。
新元号の出典は史記の五帝本紀と書経の大禹謨中の
「内平らかに外成る」(史記)、
「地平らかに天成る」(書経)
という文言の中から引用されたものである。
小渕恵三官房長官が、その中から味村治内閣法制局長官と協議して、数個の元号原案を選んだ。
午後一時から、小林与三次・日本新聞協会会長(読売新聞社社長)ら民間有識者による「元号に関する懇談会」の意見を聞くとともに、国民代表として衆参両院正副議長の意見を聞いた。
これらの意見を参考に全閣僚会議で協議、午後二時過ぎの閣議で、新元号の政令を正式に決定した。 政令は新天皇のご決裁(ご署名)を経て七日中に公布され、改元実施は八日からとなる。
今回の特徴は、大正、昭和への改元が「一世一元」(行政官布告)により、即日改元だったのに対し、翌日改元となること。
これは元号法により、元号を政令で決めることになったため、手順の上から即日改元が困難な場合があることと、元号法では「元号は皇位継承があった場合に限り改める」との規定となり、厳密に一世一元の原則にこだわらなくてよくなったため。
1月8日(日)、新元号の「平成」の施行
新元号の出典は史記の五帝本紀と書経の大禹謨中の
「内平らかに外成る」(史記)、
「地平らかに天成る」(書経)、
という文言の中から引用されたものである。
「内平らかに外成る」(史記)、
「地平らかに天成る」(書経)、
という文言の中から引用されたものである。
1月9日(月)、30歳の誕生日
元号が「平成」に変わって私の「30歳」だった。
2月ごろ、渋谷の不動産に転職
2月ごろ、渋谷の不動産に転職。
4月1日(土)、第74代竹下登総理大臣の元で消費税法施行 税率3%
第74代竹下登総理大臣の元で消費税法施行 税率3%。
6月4日(日)、中国で六四天安門事件
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺したとの報告がある)し、多数の死傷者を出した事件である。
6月5日(月)、天安門事件に反対する丸腰の男性

天安門事件から一夜明けた1989年6月5日(月)、北京市内の天安門広場に面する通りで、人民解放軍の戦車の前に立ちふさがる男性。
1989年10月から、ヒッグス粒子の本格的な探索の開始

トリスタン超伝導高周波空洞システムは、有効長1.5mのニオブ製加速空洞32台、6.5kW液体ヘリウム冷凍機及び8組の500MHz大電力高周波システムからなる複合システムであり、米国のCEBAF研究所の超伝導空洞システムが本格的に稼働を開始した平成7(1995)年までは世界最大であった。
このシステムは1988年11月に世界初の大規模かつ大電力システムとして稼働を開始し、翌1989年10月には残る半分の加速空洞の追加により、トリスタンのビームエネルギーを、設計値30GeVを上回る32GeVまで押し上げた。
超伝導空洞導入以前の最高エネルギー28GeVに比べると、エネルギー増としては4GeV、1.14倍にすぎないが、電子シンクロトロンにおいては必要加速電圧はその4乗の1.7倍になる。これを常伝導空洞で実現するためには、約200mの空洞の増設が必要であり、使用電力も当然70%増加する。一方設置された超伝導空洞は約50m、電力増もわずか10%であり、優れた加速性能を実証した。
空洞のみに集中していた開発研究から実際の応用システムとしての開発が始まったのは1982年で、その2年後には最初のビームテスト、さらに2年後の1986および1987年には実用機のモデルのビームテストを成功させ建設に入った。
この間、電解研磨法を中心とした空洞の表面処理方法の確立等により空洞の最高加速電界は平均10MV/mとそれまでの2倍以上の性能が保証できるようになった。
最も難しいと予測していた大電力高周波入力カプラーも最後のビームテストでは目標の100kWまでのテストに合格し、計画成功の自信を与えてくれた。また、クライオスタット、日本最大のヘリウム冷凍機システムもビームテストを通じ完成度の高いものになっていった。
この約5年の開発期間は、ドイツのHERA(DESY)、スイスのLEP(CERN)の同様の計画に比べると2年以上も短く、またトリスタンでの開発が常に先行していたことから、世界的に高い評価を得ている。
一方短期間での計画の遂行に当たっては、確実に動作するものの開発を心がけたため部品によっては最適化されていないものがあるが、空洞本体の性能は7年間の運転の後も後続のHERA、LEPの空洞を上回っている。
この大規模システムは当然運転においても世界初のシステムであり、長期の運転中にはビームテストでは予期できぬ故障もあった。
初期には、加速ビームにより誘起される高調波モードを取り出す高周波ラインのセラミックコネクターのいくつかが、接触不良による異常発熱を起こし、ビーム電流値を制限しなければならなかったが、1990年の夏に抜本的な改良を行い解決した。
また、運転開始から約3年後の平成3(1991)年後半から翌年の平成4(1992)年にかけては、2種類のリークが相次いで起こり、担当者をおおいに慌てさせた。
一つは大電力高周波カップラーの窓を水冷にするための銅製のジャケットからの水漏れで、水流による銅の浸食によるものであった。
もう一つは、空洞と他部品との接合部での真空リークで、わずかな不具合が多数回の冷却サイクルによる熱ひずみにより故障に至ったものである。
この時期の運転空洞台数は23台にまで落ち込んでしまったが、その後の3年間リークは一度しか起こらなかった。
1989 年〜2000 年までの11年間稼働したLEP(Large ElectronPositron collider) 実験は、電子と陽電子を周長27km の円形加速器で加速し衝突させる実験である。
円形加速器の利点を活かし、重心系エネルギーを209GeV まで上げて実験されたが、ヒッグス粒子を発見することはできなかった。
その結果ヒッグス粒子の質量は114GeV以下 でないことが分かった。また、周長6km のシンクロトロンで1TeV まで加速した陽子と反陽子を衝突させるTevatron 実験では、最近160GeV〜170GeV にはヒッグス粒子は存在しないことが分かってきた。
大型ハドロン衝突型加速器 (おおがたハドロンしょうとつがたかそくき、Large Hadron Collider、略称 LHC) とは、高エネルギー物理実験を目的としてCERNが建設した世界最大の衝突型円型加速器の名称。 スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境をまたいで設置されている。
2008年9月10日に稼動開始した。
また、LHC実験はそこで実施されている実験の総称。
このシステムは1988年11月に世界初の大規模かつ大電力システムとして稼働を開始し、翌1989年10月には残る半分の加速空洞の追加により、トリスタンのビームエネルギーを、設計値30GeVを上回る32GeVまで押し上げた。
超伝導空洞導入以前の最高エネルギー28GeVに比べると、エネルギー増としては4GeV、1.14倍にすぎないが、電子シンクロトロンにおいては必要加速電圧はその4乗の1.7倍になる。これを常伝導空洞で実現するためには、約200mの空洞の増設が必要であり、使用電力も当然70%増加する。一方設置された超伝導空洞は約50m、電力増もわずか10%であり、優れた加速性能を実証した。
空洞のみに集中していた開発研究から実際の応用システムとしての開発が始まったのは1982年で、その2年後には最初のビームテスト、さらに2年後の1986および1987年には実用機のモデルのビームテストを成功させ建設に入った。
この間、電解研磨法を中心とした空洞の表面処理方法の確立等により空洞の最高加速電界は平均10MV/mとそれまでの2倍以上の性能が保証できるようになった。
最も難しいと予測していた大電力高周波入力カプラーも最後のビームテストでは目標の100kWまでのテストに合格し、計画成功の自信を与えてくれた。また、クライオスタット、日本最大のヘリウム冷凍機システムもビームテストを通じ完成度の高いものになっていった。
この約5年の開発期間は、ドイツのHERA(DESY)、スイスのLEP(CERN)の同様の計画に比べると2年以上も短く、またトリスタンでの開発が常に先行していたことから、世界的に高い評価を得ている。
一方短期間での計画の遂行に当たっては、確実に動作するものの開発を心がけたため部品によっては最適化されていないものがあるが、空洞本体の性能は7年間の運転の後も後続のHERA、LEPの空洞を上回っている。
この大規模システムは当然運転においても世界初のシステムであり、長期の運転中にはビームテストでは予期できぬ故障もあった。
初期には、加速ビームにより誘起される高調波モードを取り出す高周波ラインのセラミックコネクターのいくつかが、接触不良による異常発熱を起こし、ビーム電流値を制限しなければならなかったが、1990年の夏に抜本的な改良を行い解決した。
また、運転開始から約3年後の平成3(1991)年後半から翌年の平成4(1992)年にかけては、2種類のリークが相次いで起こり、担当者をおおいに慌てさせた。
一つは大電力高周波カップラーの窓を水冷にするための銅製のジャケットからの水漏れで、水流による銅の浸食によるものであった。
もう一つは、空洞と他部品との接合部での真空リークで、わずかな不具合が多数回の冷却サイクルによる熱ひずみにより故障に至ったものである。
この時期の運転空洞台数は23台にまで落ち込んでしまったが、その後の3年間リークは一度しか起こらなかった。
引用先: http://legacy.kek.jp/hyouka/TRISTANreport/4_2_1.html
ヒッグス粒子探索は過去にも行われてきた。1989 年〜2000 年までの11年間稼働したLEP(Large ElectronPositron collider) 実験は、電子と陽電子を周長27km の円形加速器で加速し衝突させる実験である。
円形加速器の利点を活かし、重心系エネルギーを209GeV まで上げて実験されたが、ヒッグス粒子を発見することはできなかった。
その結果ヒッグス粒子の質量は114GeV以下 でないことが分かった。また、周長6km のシンクロトロンで1TeV まで加速した陽子と反陽子を衝突させるTevatron 実験では、最近160GeV〜170GeV にはヒッグス粒子は存在しないことが分かってきた。
大型ハドロン衝突型加速器 (おおがたハドロンしょうとつがたかそくき、Large Hadron Collider、略称 LHC) とは、高エネルギー物理実験を目的としてCERNが建設した世界最大の衝突型円型加速器の名称。 スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境をまたいで設置されている。
2008年9月10日に稼動開始した。
また、LHC実験はそこで実施されている実験の総称。
11月9日(木)、ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁崩壊
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