1978(昭和53)年のメモ書きと更新履歴(私19歳-大学2年- 午年)
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19歳になった。
12月8日(金)、弟・成田守(18歳5か月)で死亡

昭和35(1960)年7月8日に生まれた弟・成田守(18歳5か月)、
昭和53(1978)年12月8日(金)午後4時に死亡。
弟は小学校3年生のとき、川に流されて溺れかかっている。
小学校5年生のとき、スキーで遊んでいる時、スキー板が操作不能になって、両足を開いて電信柱に突っ込もうとした。
最後は18歳の時だ。
試験を終えて休んでいる時、友人がやってきて、ドライブに行った。
雨の中のドライブで、トラック下に突っ込んでいったのだ。
ドライバーの友人はかすり傷だけで、弟の守だけが亡くなった。
昭和53(1978)年12月8日(金)午後4時に死亡。
とてもショックだった。
弟と私は仲が良かった。弟は小学校3年生のとき、川に流されて溺れかかっている。
小学校5年生のとき、スキーで遊んでいる時、スキー板が操作不能になって、両足を開いて電信柱に突っ込もうとした。
最後は18歳の時だ。
試験を終えて休んでいる時、友人がやってきて、ドライブに行った。
雨の中のドライブで、トラック下に突っ込んでいったのだ。
ドライバーの友人はかすり傷だけで、弟の守だけが亡くなった。
幼いころからの流れからいったら、短命に終わる流れだったようだ。
○ この弟との問題の深刻さは、35年後の平成25(2013)年5月20日(月)に知ることになった。12月31日(日)、台湾とアメリカの国交断絶の前日に台湾国旗の掲揚

沈代表はあいさつで、断交前日の1978年12月31日(日)、台湾当局が所有する米首都ワシントンの施設で、台湾の「国旗」降納式典が行われた。
米中の国交樹立後、台湾の「国旗」は、「ひとつの中国」政策の下で米国内できわめて敏感な扱いを受けてきた。
米中の国交樹立後、台湾の「国旗」は、「ひとつの中国」政策の下で米国内できわめて敏感な扱いを受けてきた。
再び掲揚されたのは平成27(2015)年1月1日であった。
12月8日(金)、弟・成田守(18歳5か月)で死亡
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