記録に残しておきたいメモ書き
紀元前1,290,607年、瓊々杵尊の第二次天孫降臨の足跡
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宮司さんは岸さんだという、かつて岩谷さんが宮司をやっていたこともある・・
平成22(2010)年5月3日(月曜日)、青柳の太田神社の宮司の奥さん(中村さんという)に、『秀真伝(ほつまつたゑ)』に関係する日吉神社はこちらの日吉神社ですか、と聞いてみた。
奥さんの話だと、「井保」姓なら西万木に多いので、西万木の日吉神社ではないか、という助言を頂戴した。
それで平成22(2010)年5月4日(火曜日)の参拝は西万木の日吉神社から始めることになった。
祀りの後片付けをされている年配の氏子の方にお話を伺った。
「この神社の宮司さんは代々岸さんです」
「途中、親戚関係になった岩谷さんが宮司を勤めていることもありましたが、今では岸さんに戻っています」
とのことだった。
そして、岸さんの自宅を教えていただいた。
自宅まで行き、お話しを聞こうとしたのだが、ビジネスホテルを経営されているらしく、連休中でもあり忙しそうにみんなが立ち回っておられたので、声を掛けきれずに終わってしまった。
奥さんの話だと、「井保」姓なら西万木に多いので、西万木の日吉神社ではないか、という助言を頂戴した。
それで平成22(2010)年5月4日(火曜日)の参拝は西万木の日吉神社から始めることになった。
祀りの後片付けをされている年配の氏子の方にお話を伺った。
「この神社の宮司さんは代々岸さんです」
「途中、親戚関係になった岩谷さんが宮司を勤めていることもありましたが、今では岸さんに戻っています」
とのことだった。
そして、岸さんの自宅を教えていただいた。
自宅まで行き、お話しを聞こうとしたのだが、ビジネスホテルを経営されているらしく、連休中でもあり忙しそうにみんなが立ち回っておられたので、声を掛けきれずに終わってしまった。
西万木の日吉神社から、和仁估容聡の『秀真伝』の伝来本が発見・・
この西万木の日吉神社から、和仁估容聡の『秀真伝』の伝来本が発見されたのだ。
◆『秀真伝(ほつまつたゑ)』(八幡書店、上巻PP95-97)〔解説〕の紹介引用・・野々村家(水尾神社の神主)に所蔵されていた『生洲問答』『三笠紀』『神勅基兆伝太占書紀』。
・・・・・・・
野々村(水尾神社の神主)が『秀真伝』の存在を知ったのは、慶応年間(1865-1868)、岩谷忠正(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)より容聡(やすとし)の親族が売却した『秀真伝』を見せられて以降のことと思われ、同じく容聡(やすとし)の親族より外部へ流出した『生洲問答』『三笠紀』についてのみ岩谷忠正(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)を介することなく、野々村立蔵(水尾神社の神主)がすでに入手していたというのでは、不自然な感がぬぐい難い。
同じ容聡(やすとし)の親族より売却されたものが、一方は岩谷家(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)、一方は野々村家(水尾神社の神主)の手に渡ったということも、確かに考えられないことはないが、岩谷家は井保家と同じ西万木にあり、しかも、写本を入手した岩谷忠正は、井保家の氏神である西万木の日吉神社の神主という井保家と浅からぬ関係にあるのに対し、野々村家(水尾神社の神主)は時に当主立蔵が『秀真伝』の伝来と多少縁故のある拝戸の水尾神社の神主とはいえ、岩谷家に比べると地理的に遠く、井保家との関係はさほど深いものではなかったと思われ、井保家より売却された『三笠紀』『生洲問答』を直接入手しうる立場にあったとはとうてい思えない。
・・・・・・・
したがって結論を記すと、野々村家(水尾神社の神主)所蔵の『三笠紀』『生洲問答』についても、『秀真伝』とともに岩谷忠正より入手、それも岩谷ないし岩谷の仲介により井保家より写本そのものを購入したものではなく、『秀真伝』同様書写したものと思われ、容聡(やすとし)系統のものであるとしても、容聡(やすとし)本そのものとみなすことは不可能とはいえないまでも問題が多い。
・・・・・・・
野々村残簡本に関しては・・・最終的結論に関しては、遺憾ながら現時点では差し控えざるをえないが、おおむね岩谷家(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)旧蔵本を野々村立蔵(水尾神社の神主)が書写したものと見られる。
平成22(2010)年5月2-5日(日-水)の滋賀県旅行記録からの引用
平成22(2010)年5月2-5日(日-水)の滋賀県旅行記録からの引用
平成21(2009)年8月8-11日(土-火)、白山登山に代わって第二次天孫降臨の跡を追ったときのことだった。旅行3日目の平成21(2009)年8月10日(月曜日)10時ごろ、行過天満宮(ゆきすぎ)阿志都彌神社(あしづみ)の参拝を終え、次の参拝地の志呂志神社(しろし)に向かっている途中のセブンイレブンでトイレと朝食休憩にした。
(※)セブンイレブンの住所:滋賀県高島市新旭町饗庭1629
そのとき、会社から
「メールの送受信が出来ないのはなぜ?」という問合せの電話があった。
このころから雨が降り出してきた。
次の参拝先の志呂志神社(しろし)に行く前に問題の所在の可能性の見当をつけ、その次の長田神社で一応原因は究明できた。
そして、白鬚神社の参拝を終えたとき、メーラの正常動作を確認できるようになった。
(※)昨年の平成21(2009)年8月10日(月)に車を止めて携帯電話で話していたのは第26代継体天皇の胞衣塚の前だ、と今回の参拝旅行で知った。
こういう風になるときは、過去の縮図であると共に未来の予言になっていることが多いと思う。
饗庭という土地でトラブルの連絡があったこと、高島市安曇川町三尾里の第26代継体天皇の胞衣塚の前で原因らしいことが解ったこと、長田神社(高島市永田)で問題が解決したこと、白鬚神社(高島市鵜川)での参拝を終えて昼食をしているとき、メーラの設定に問題があったことも解決したこと。そして、今回のトラブルを解決するのに関わった3人の人物を忘れてはいけない。
ところが、トラブルはこれに留まらなかった。
年が明けて平成22(2010)年になってから旅行の整理を始めた。昨年志呂志神社(しろし)の参拝に行く前にトラブルがおきたのだったが、その志呂志神社(しろし)の整理を始めた平成22(2010)年2月25日(木)2時過ぎからサーバーの不具合が発生し、システムが不安定になった。
この日に原因を突き止めることができず、翌日の平成22(2010)年2月26日(金)に〔NTFSのファイルシステムのエラー〕と判明。
昨年のトラブル時にもお世話になたkobaさんの手を煩わせることになった。
セブンイレブンから志呂志神社(しろし)・長田神社・大炊神社・白鬚神社にかけての一帯の持つ意味を再度暗示されたのだろうと思った。
さらにkobaさんの役割も暗示していそうだ。
この地域には何かある。
あまりにもトラブルの発生がドンピシャリすぎるのだ。私は、昨年の旅行整理中に、怒りと憎しみに満ちた夢で目覚めた。
旅行整理中の平成22(2010)年2月27日(土)の朝の夢だった。私は教師だった。
私は同僚の髪の長い女性教師に好意を寄せていた。その女性教師があるトラブルに巻き込まれて、ある教室である人物と話し合いをしようとしているらしかった。
ある人物は教室の窓側に机と椅子を高く積み上げて小高い山のようにしていて、その上で寝そべっていた。
椅子と机で小高くなった頂上から
「なんだ女じゃねぇか」
「これはいいや」
と舐めるように見回し、今にも自分のものにしようという雰囲気だった。
隙間から教室の中を探っていた私は怒りと憎しみの感情を抑えきれなくなった。
教室のドアを開け、そのある人物の胸ぐらをつかみ、「こうやるとお前なんか命がなくなるのだぞ」
「こうやるとお前なんか死んでしまうのだぞ」
・・・と怒りと憎しみに満ちて、自分自身が抑えきれなくなっていた。
目覚めてからも怒りと憎しみが抜けきらない、それほど激しいものだった。
◆上の夢は、2月25日(木)と2月26日(金)のトラブルと、志呂志神社(しろし)・長田神社・大炊神社・白鬚神社に関わる遠い昔の記憶なのだろうと思った。音玉川(小田川)で寝そべっている猿田彦命、詰め寄った鈿女命、覗き見をした彦火々出見尊との関連性。
女性教師がいる辺りは志呂志神社(しろし)なような気がするが、だとすると、机と椅子を高く積み上げた小高い山は拝戸の水尾神社か大炊神社あたりなのだろうか、田中神社か三尾神社跡あたりだろうか、と思っている私がいる。このあたりで私自身が抑えきれない怒りと憎しみに捉われて暴発したことがあったのだろう。
これまでの私の人生で、中背で弁当箱のような体系の人物に会ったことがあるが、その度にこういう人物に苦手意識を常にもってきたのだ。
遠い過去のこういう記憶が原因なのだろう。
滋賀県高島市の安曇川周辺には、私にとって抜き差しならない何かある。
平成22(2010)年4月11日(日)、第16代仁徳天皇の事蹟を知ってショックを受けた。 解説-秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の引用を開始し、第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)の時代における速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の物語を記述し始めると、平成22(2010)年2月27日(土)に見た夢の場面と状況が似ているのにとても驚くことになった。仁徳天皇陵は、鍵穴に似ているので、「鍵穴」として何度か夢で見たことがあった。 いつの時代の神代かわからないが、遠い昔、成田の家は「神代の鍵穴」の両側を生田の家とともに守護する役目を担っていたらしい。その時から仁徳天皇陵は気になる存在になっていたのだが、今日は『秀真伝(ほつまつたゑ)』との関わりにおいて再び強烈に印象付けられることになった。 第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)は、自分が后に迎えようとしていた雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)に奪われたこと、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』を信奉する勢力の代表格になっていること、これらを鑑みて速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の追討の命をだした。 速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)と雌鳥皇女(めどりのひめみこ)は、伊勢神宮へ難を逃れようとしたが、三重県津市白山町の出雲川で亡くなったのだという。 平成22(2010)年2月27日(土)に見た夢の場面と状況が極めて似ているのだ。 第16代仁徳天皇が大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)といわれていたころ、弟に菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)という儒学に秀でた弟がいた。弟の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、兄の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)を天皇にするため、自害したのだという。 私の弟は、自害ではないが18歳で交通事故で亡くなっている。 本来であれば、成田の家を継ぐ人物であったのだ。 ただただ、天を仰ぐ・・・ |
私の怒りと憎しみによって大地が裂けた・・
火の国の中心が安土山の位置に相当し、その安土山から烈火が走り、観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕の南側の位置に相当し佐々木山(小中山・常楽寺山)の南側の位置に相当する大地を裂いた。志呂志神社(しろし)・長田神社・大炊神社・白鬚神社周辺の出来事がきっかけとなって暴発した火の国の烈火は大地を裂いてしまったが、老蘇の森(→奥石神社)の星霜を経ることによって鎮静化されてきたものらしい。
天之誓約の時に天照大神が観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕から佐々木山(小中山・常楽寺山)に降臨されたこと、
時を経て、少彦名命が沙沙貴神社に漂着し、奇杵命(大国主命)とともに民の教化にあたられてこと、
樹木を植え緑につつんだこと、
・・などこの土地の秘めた物語はとても深い。
怒りと憎しみは、前の宇宙でも克服できなかったことらしい
平成22(2010)年4月4日(日)の夜寝るとき、「怒りと憎しみの感情は、前の宇宙でもツマヅイタところだし、今の宇宙でも克服できないでいるところだ」
と告げられた。
怒りと憎しみの感情の根っこは深いのかもしれない。
怒りと憎しみの感情はどこからやってくるのか?
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