田中の田中神社(たなか)【1】トップページ|滋賀県

マピオン地図
滋賀県高島市安曇川町田中1882-1( いつもNAVIによる広域地図
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 平成22(2010)年5月4日の参拝記録、『秀真伝』の継承と天照大神の天之誓約【9ヶ所】

西万木の日吉神社佐田神社田中神社三尾神社跡藤樹神社藤樹記念館にある和仁估容聡の『秀真伝』
奥石神社佐々木山五社神社

第8代孝元天皇9年(紀元前206年)、大御気主命「風ふの祭り」の田中神社のトップページ

参拝記録

拝殿

田中神社

田中神社の本殿とご祭神

田中神社の本殿と祭神

ご祭神

建速素盞鳴尊
奇稲田姫命

八柱御子神

(※)『高島郡誌』では、八柱御子神を八岐大蛇霊とする。

祭礼の日に当たっていてお神輿が出されていた

祭礼の日に当たっていてお神輿が出されていた

田中神社の摂社・蛭子神社

田中神社の摂社・蛭子神社

田中神社の摂社・蛭子神社の扁額

田中神社の摂社・天満神社と摂社・若宮八幡宮

田中神社の摂社・天満神社

田中神社の摂社・天満神社の扁額

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田中神社の摂社・若宮八幡宮

田中神社の摂社・若宮八幡宮の扁額

田中神社の摂社・国常立神社と摂社・日吉神社

田中神社の摂社・国常立神社

田中神社の摂社・国常立神社の扁額

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田中神社の摂社・日吉神社

田中神社の摂社・日吉神社の扁額

田中神社の摂社の武八幡神社・天邇伎志神社と摂社の三尾神社

摂社の武八幡神社・天邇伎志神社と摂社の三尾神社

摂社の三尾神社の扁額

三尾神社旧跡から大正4年12月5日に遷座。
三尾神社は山崎命の創祀と云い伝えられます。
山崎命は代々神主として当社に仕え彦主人王に天成神道を教授されました。
彦主人王のお后振媛さまがここに産屋を営み、三皇子をお産みになられましたが、その末子にあたられる彦太王は、後に第26代継体天皇となられます。
当社には神代文字書「秀真伝」40巻と三尾大明神本土記が伝わりました。
お社は大正4年12月5日田中神社内の摂社・三尾神社として遷座してお祀りしています。
この旧跡には振媛さまがお産のときもたれられたと伝えられる「もたれ石」があり、今でも妊婦がこの石を手で撫でて自分の腹をさすって安産を願う慣わしです。

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摂社の武八幡神社・天邇伎志神社の扁額

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十二「藤と淡海瑞の紋」(八幡書店、下巻343)

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十二「藤と淡海瑞の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P352〔32-13〕 )
九穂の夏 雨(あめ)四十日(よそか)降り 第8代孝元天皇9年、天鈴(あすず)512年の夏。
紀元前206年。
山背田(やましろた) 淡海(あわうみ)溢(あふ)れ  
田もみもち 嘆き告ぐれば  
勅(みことのり) 「大御気主命(みけぬし)教人(をし)に  大御気主命と大直根子命との関係については、本書に明文はないが、本紋〔32-19〕の「大御気主命親子(みけぬしをやこ) 噤(つぐ)み居(を)る」という記載と四十紋に付された大直根子の奥書に、天鈴(あすず)843年に『秀真伝』が上奏された旨が記されていること、および序文にこのとき大直根子が234歳であったと記されていることに鑑みると、大御気主命が蟄居したのは天鈴(あすず)567年であるから、逆算するとこのときは大直根子が生まれる52年前のこととなる。
 したがって、「大御気主親子」の「子」とは、大直根子命の親に当たり、大御気主命は大直根子命の祖父にあたることが明らかとなる。
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 ここでは『三輪高宮家系』と『旧事記』によって、大御気主命ー建飯賀田須命ー大直根子命の系をとる。
祈(いの)らしむ 淡国(あわくに)三尾(みを)に 滋賀県高島郡安曇川町田中字山崎に田中神社が鎮座する。祭神は社記に建速素戔嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子神と記し、『高島郡誌』には、八柱御子神を八岐大蛇霊とする。
田中神(たなかかみ) 晴(は)れお祈(いの)りて 高島市の田中神社が本書の田中神と関連するか。
風ふなす これ大己貴命(おおなむち)  『秀真伝(ほつまつたゑ)』で「大己貴命(おおなむち)」というときは、「奇杵命(くしきね)」を指すのだろうか。
 奇杵命(くしきね)が竹子姫と結ばれて、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)でえびす顔の奇彦・高子姫・味耜高彦根命の3人の子を産んだ。
 そして「奇杵命(くしきね)」は、沙沙貴神社で少彦名命と出会われて、共に諸国を周られたのだろう。
 大国主命が美保岬で少彦名命と出合ったと伝えられるのは、蕗根命(ふきね)の「大己貴命(おおなむち)」が豊玉姫の兄「豊祇彦命」と出会い、共に諸国を周られたものが混同されたものであろう。
 蕗根命(ふきね)がやり遂げている業績が、「奇杵命(くしきね)」-少彦名命と同じ性質のものだったので後世混同されてしまったものだろう。
 こういう点から、琵琶湖岸に「奇杵命(くしきね)」の業績が伝えられていても、何ら不思議なことはない。
田中教(たなかのり) 六月(みなつき)十六日(そむか)  
行(おこな)ひは 三百六十回(みもむそ)歌(うた)ひ  
玄参(おしぐさ)に 痛(いた)みも直(なお)る  
守りとて 田に額(ぬか)づけは  
蘇(よみがえ)り やはり若(わか)やぎ  
瑞穂(みずほ)あつ 民(たみ)糧(かて)殖(ふ)ゑて  
賑(にぎ)はえば 大御気主命(おほみけぬし)の  
祭り大臣(をみ) 名付(なづ)くそれより  
山背(やましろ)も 筑紫(つくし)直(なお)りも  
出雲(いづも)にも 伊勢(いせ)花山(はなやま)も  
年(とし)ごとに 祭(まつ)る風(かぜ)ふぞ 「風(かぜ)ふの祭り」はいわゆる「はれのいのり」のことと考えられる。
雨を祈るときは黒駒を引き、「ハレ」を祈るときには白駒を用いるのが古来の例とされた。

田中神社の宮司の伊藤さんからお声をかけていただいた・・

 田中神社で祝詞を奏上し、帰ろうとするとき宮司さんに声をかけていただいた。

宮司の伊藤さん

 松本善之助氏が田中神社に10日間泊まられ、和仁估容聡の手になる伝来本を探されていたとき、宮司の伊藤さんがお手伝いされたというお話を聞くことができた。
「ちょうど私も仕事をしていたので、仕事を終えてから、あっちに行ってくれ、こっちに行ってくれ、と方々にいきました」
 と話してくださった。
「その本は、今でも見ることが出来るよ」
 と、どこにあるかを教えていただき、和仁估容聡の手になる『秀真伝(ほつまつたゑ)』伝来本の原本を拝見することができた。

 神様からのプレゼントだと思った。

 平成7(1995)年から日本各地を周っているが、周る前には、必ずその地方に関する『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述に目を通してきた。
 それから各地の伝承を学んできた。
 現場に立つと、神々が語りかけてくれたり、映像で示してくれたりすることがあり、そのイメージや雰囲気を頼りにまた各地の伝承のもつ意味を考え続けてきたのだ。
 神様が、宮司さんの体を通してプレゼントしてくれたのだと思った。
 午後の予定を変更して、『秀真伝(ほつまつたゑ)』伝来本が納められている場所に向かった。

田中神社の地図

拝戸の水尾神社の地図