平成22(2010)年5月5日(水)、天之誓約における天照大神・・、それから奇彦命(えびす様)【6ケ所】
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興津島神社は名神大に、大島神社は名神小に列せられている
紀元前1,499,704年、奇彦命は、第一次天孫降臨のとき官職を辞しこの地に蟄居
平成22(2010)年5月5日、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)で祝詞の奏上すると、
「わが宮によく訪ねてくだされた」
とお声をかけていただいた。
三輪神社で聞いたことのある声なので奇彦命だと思う。
この大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)で奇杵命(大国主命)は竹子姫と結婚され、奇彦命・高子姫・味耜高彦根命の3人の子を産んだらしい。
国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年、奇彦命は、奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、この大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたのだという。
しばらくして奇彦命は「瓊々杵尊を守れ」といわれ、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
与呂伎神社のある万木の森で奇彦命と三穂津姫は、子守神(万木麿命)を生み育てたらしい。
【系図】素戔嗚尊-奇杵命(大己貴命)-奇彦命(えびす顔)-子守神
大国主命と竹子姫が結婚され、奇彦命・高子姫・味鋤高彦根命を生む
『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の七〔遺し文祥禍お立つ〕紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P380-382 )より
「沖つ島」28紋には「竹子姫 多賀に詣でて 大物主が 館に終われば 薄島(すすきしま) おもむろ納め 竹生島神」〔28-33〕とみえる。この原文から考察すると竹子姫は近江の竹生島に祭られたことになる。
竹生島には都久夫須麻神社があって、安芸の厳島神社、相模の江島神社とならんで日本三大弁天の一つとされていることからも、竹子姫の遺骸を竹生島に納め、そこに社が建ったとみるのが順当であろう。
ところが本紋に「沖つ島」とある。
この沖つ島に関連して、滋賀県近江八幡市北津田町に大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)がある。
この大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)は、延喜式内の名神大社の由緒をもつ古社で、祭神は、奥津嶋姫命。鎮座地は、現在の社殿のある近江八幡市の北部の島山という、琵琶湖東岸のかつての島の中央部南岸にあたる。
一説には、近江八幡の沖合いに浮かぶ沖島の奥津嶋神社 (おきつしま)より現在の場所に遷座されたものともいわれている。
さらに、現在同社の鎮座する島山には本書において奥津嶋姫命の夫と伝えられる大物主命を祭る大島神社も鎮座していて、本書の所伝と何らかの関連を示している。
ここで『秀真政伝』をみると「三女自天を弁て、筑前沖津嶋、中津島、辺津島に身を流罪して世を恥恐玉ふ。又後に、安芸市杵嶋、近江竹生島、相模江島の三嶋に移って益以、罪を流清玉ふ」と記されている。
私見では、竹子姫は筑紫にて罪を償ったのち、近江沖津島にて、大物主の大己貴命とともに暮らし、その館にて神上がって、竹生島に遺骸を納めたのではないだろうか。
なお、竹子姫については、28紋に「竹生島神 昔流浪い 琴お弾く 時に霰の 薄打つ 琴に響きて 妙なれば 木の葉お写し 琴造る 名も糸薄打ち 島湖も 名は糸薄(いすき)なり」〔28-33〕とあり、後に「竹生神」という称え名を賜ったという記述がみえる。
「相模江の島」28紋に「湍子姫 香久山祗命の 妻となり 香児山命生みて 相模なる 江の島神と なりにけり」〔28-34〕とある。「相模」は天照神の夢で大蛇を象徴した「さ噛みに 噛みて」に通じ、「さ噛む」という意味。「江の島」は、神奈川県藤沢市片瀬町にある江島のこと。
ここに鎮座する江島神社は、本書の所伝にいう三女神にあたる多紀理毘売命、市寸島比売命、田寸津比売命の三柱を祭っている。
しかも、同社には、寿永元年北条時政が祈願のため、この島の窟中に籠り、一顆の玉を感得したという本書の所伝の「三玉」との関連を暗示する伝承も伝えられている。
大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)の本殿
ご祭神
大国主神興津島比賣神(おきつしまひめかみ)
大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)
大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)にある白山神社の碑
大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)の地図
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