大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)【3】文献に掲載されている由緒書き|滋賀県

マピオン地図
滋賀県近江八幡市北津田町529( いつもNAVIによる広域地図
 ⇒ 公式サイトはこちらです。

文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

 記載ありません。

その他の文献

滋賀県神社庁の大嶋奥津嶋神社から引用。

 大島興津島量神社は、延喜式神名帳加列の名神であり、興津島神社は名神大に、大島神社は名神小に列せられている。
 両者は各々別の処に鎮座されていたと思われるが、いつ頃からか同境に鎮座されている。
 永仁六年神宮村人の起請文には既に両社と記してあり、延文五年比丘尼法心の寄進状には大島郷奥島庄内の田地を大島息津島両社の神供料として寄進する旨が記されてあるので、それより以前に両社が一境の鎮座である事を、知る事が出来る。
 本社の創祀は、社伝には成務天皇高穴穂宮遷都の時に、大臣竹内宿禰勅を奉じて勧請するとあり、その後天智天皇志賀大津宮に御在世の折、皇后さま御不予により当社に平癒の祈願されたところ忽に霊験があったので、勅使をご差遺になり奉賽の幣帛を奉られた事や、同七年天皇御幸の時に又幣帛を奉られた事など伝える。
 島中より所産の薁が天智天皇の御代より、長寿無病の霊果と称えられ長い間、朝廷への貢ものの嘉例などと考えられるは、大津京時代には、比の島と皇室との縁故の深かった事を知る事が出来る。
 大島神社は大国主命を祭神とし、稱徳天皇神護景雲元年神封一戸を充てられ、興津島神社は奥島比売命を祭る大同元年神封一戸を充てられた事が、新抄格勅符にあり、三代実録貞観元年の条には、近江国従五位下興津島神従五位上を授け奉るとあり、それ以前より神位を授けられていた事を知ることが出来る。
 大正三年県社に加列、同四年神饌幣帛料供進指定となる。社宝として大般若経六百巻、古文書二百余通を蔵す。