解説-秀真伝序説二「伝来享受・諸本」【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝(ほつまつたゑ)

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御解説-秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の概略

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解説-秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の概略

【1】『秀真伝』上奏とその後の大まかな流れ(上巻P39-40 )

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』および『三笠紀』の序文にみえるごとく、『秀真伝(ほつまつたゑ)』『三笠紀』と天皇親らが編んだ『香久御機』の三大書は、第12代景行天皇(垂仁天皇の子 71年8月24日 - 130年12月24日)の皇子である日本武尊の死去に大きく起因していた。
 古代日本の東西の国々が第12代景行天皇のもとに大きく平定されようとした矢先、それを担った皇子の死は、朝廷に大きな不安を与えたに相違ない。
 このようなとき、祭政を糾し、より揺るぎ難い政道を開かんと三書が期を同じくして編纂されたのであろう。
 しかし、それより200年のちの第15代応神天皇(仲哀天皇の子 270年2月8日 - 310年3月31日)の時代に大きな政治的変換期を迎えることになる。
 漢字の伝来や儒学の受容である。
 政治は大陸思想の影響を大きく受けはじめるのである。
 大陸の思想を積極的に取り入れたとみられる第15代応神天皇の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子や第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)に反し、天成る道を基軸とする『秀真伝(ほつまつたゑ)』などの思想は第16代仁徳天皇の弟・速総別(はやぶさわけ)皇子の手に委ねられ、第11代垂仁天皇(前69年1月26-後70年8月8日)の御子である磐衝別(いわつくわけ)皇子(みこ)も天成る道を学んだとされる近江国の水尾御所(拝戸御所)にその本拠地が移される。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の思想は、その地において代々受け嗣がれ、400年後の第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)の時代にふたたび宮中で用いられたとされる。
 ところが物部氏を滅ぼし、仏教の受容を好まなかった第30代敏達天皇(572年4月30日 - 585年9月14日)を殺害した蘇我馬子は、皇統初の女帝・第33代推古天皇(593年1月15日 - 628年4月15日)の世に至り、聖徳太子と共同執政という形を取りながら仏教興隆政策を大きく打ち出していくのである。
 この新興仏教勢力の台頭とともに、日本の古伝を記す『秀真伝(ほつまつたゑ)』がもし宮中に伝えられていたとすれば、当然影に隠れてしまうか、あるいは蘇我氏の手中に握られてしまったであろうと推測される。
 のち中大兄皇子らを中心とする大化の改新によって蘇我氏は滅亡するが、その際に「皇極天皇記」に「蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記、国記、珍宝を焼く。船史恵尺、即ち疾く、焼かるるの国記をとりて、中大兄に奉幣る」とみえるように、聖徳太子が馬子と議して記録したとされる天皇記、国記、臣連伴造国造八十部公民等本記が悉く焼失してしまった。あるいは、この中に『秀真伝(ほつまつたゑ)』などの古伝も含まれていたかもしれない。
 それより降って第46代孝謙天皇(749年8月19日 - 758年9月7日)・第48代称徳天皇(764年11月6日 - 70年8月28日)重祚時代、大賀茂臣の直系として『秀真伝(ほつまつたゑ)』をはじめとする『神代古記』を伝承してきた赤坂彦は、『生洲問答』に記す道鏡の『日本書紀』改竄にともなう国書消失に臨み、それらを子の世々彦に託し、近江国の和邇邑に蟄居させる。ここに『秀真伝(ほつまつたゑ)』の継承は宮中よりふたたび近江の地に移るのである。

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【2】第11代垂仁天皇の御子である磐衝別(いわつくわけ)皇子

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の磐撞別命より

 磐撞別命(いわつくわけのみこと、生没年不詳)は、記紀などに伝える古墳時代初期の皇族(王族)。
 磐衝別命、磐撞別皇子、石衝別王・伊波都久和気とも。第11代垂仁天皇(前69年1月26-後70年8月8日)の第10皇子、母は山背大国不遅の娘・綺戸辺(かむはたとべ、弟苅羽田刀弁)で、同母妹に両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命。仲哀天皇の母)がいる。
 子に磐城別命(石城別王・伊波智和気)がおり、羽咋君、三尾君の祖とされる。
 「上宮記」逸文によれば、その5世孫の振媛命は彦主人王に嫁ぎ、継体天皇を生んだ。
 『先代旧事本紀』「天皇本紀」では丹波道主王の娘・真砥野媛と垂仁天皇の間に生まれ、稲別命と兄弟とされ、また「国造本紀」では羽咋国造・加我国造の祖とされる。
 磐撞別命関係系図命の子孫は高島郡高島村(滋賀県高島市拝戸)に住み、同地に水尾神社(延喜式内社・県社)を創建して磐撞別命を祀った。水尾神社境内には磐衝別命墓があり、大正6年(1917年)宮内省により陵墓に指定された。
 水尾神社によると命は猿田彦命の天成神道を学ぶ為に同地に訪れ、同地で薨去した。
 王子の磐城別王が三尾山に命を葬り水尾神社を創建したという。
 他に石川県羽咋市川原町の県社羽咋神社(延喜式内社)にも祀られている。
 羽咋市の無形文化財に指定されている唐戸山神事相撲は同地で仁政を敷いた命を偲んで命日である9月25日に相撲を行った事に由来するという。
 また、羽咋の地名の由来は磐衝別命の故事によるという。
 命はこの地で領民を苦しめた悪鳥を射落とし、その鳥の羽を命が連れていた三匹の犬が喰ったといい、古くは「羽喰」と称したという。
 但し、一説には大国主命の故事によるともいう。
 子孫の振媛命は越前(福井県)の出であるが、その福井県坂井市・大湊神社の古い記録によると嘗ては同神社に磐撞別命も祭神として祀っていたという。

【3】第16代仁徳天皇の弟・速総別(はやぶさわけ)皇子(上巻P26-29 )

 ここでは、第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)の時代における速総別(はやぶさわけ)親王と『秀真伝(ほつまつたゑ)』の享受について、和仁估容聡(わにこやすとし)の宮中奉呈本に付された「自序」をもとに、その概略を述べたい。
 ・・・<引用省略>・・
 ・・概略すれば、次のようになる。
 神武天皇の御世に至り『秀真伝(ほつまつたゑ)』の祭政思想に基づいた天成る道は全盛を極めた感があったが、後儒教の経典の伝来(第15代応神天皇の時代)とともに、儒教における政治思想をもって政務を補佐するようになり、ついに第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)に至っては、聖王(ひじりのきみ)として知られるにおよんだ。
 しかし第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)の弟君である速総別(はやぶさわけ)皇子は、のちに天成る道が廃絶することを恐れ、親しく近江の国の水尾御所(みをごしょ)に赴かれ、天成る道を学ばれたのだった。
 これによって子孫の第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)が皇位に就き、再び天成る道の政事を行われ、万民は安泰に暮らすことができた。
 以上、速総別(はやぶさわけ)皇子第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)と『秀真伝(ほつまつたゑ)』との密接な関係を記すが、いずれも現在明らかにされていないことばかりなので不信の念を禁じ得ない。
 しかし、あえてこの和仁估容聡(わにこやすとし)の筆になる速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)と『秀真伝(ほつまつたゑ)』との関係について考察を加えていきたい。
 日本に儒学が伝わったのは応神天皇15年(284年)に百済の使者・阿直岐(あちき)が来朝し、さらに翌年(285年)に博士・王仁(わに)が渡来して『論語』10巻と『千字文』1巻を貢献したのにはじまるとされる。
 このとき第15代応神天皇の皇子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は阿直岐(あちき)を師として典籍を学び、翌年、阿直岐(あちき)に代わって王仁(わに)を師とし、さらに種々の典籍を習い、すこぶる通達したと『日本書紀』に記している。
 ・・・・
 また、のちに稚郎子(わきいらつこ)皇子と兄の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)のあいだに皇位の推譲があったと伝えられるが、これは『論語』泰伯篇にある泰伯の事跡と類似していて、この説話が創作された可能性があるともいわれている。もちろん、この第15代応神天皇(仲哀天皇の子 270年2月8日 - 310年3月31日)の時代に突然儒学が伝えられたとは考えられないが、第15代応神天皇(仲哀天皇の子 270年2月8日 - 310年3月31日)の時代を機に儒学に対する関心が高まり、徐々に政事にまで影響を与えるようになったとみるのは順当なことといえよう。
 のちに第26代継体天皇10年(516年)には五経博士王柳貴、易博士王道良らが来朝したといわれ、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)を中心とする儒学がかなり盛んに伝えられたことを物語っている。
 推古天皇12年(604年)に発布された聖徳太子の17条憲法の条文には、五経と『論語』との句がそのまま引用され、あるいは多少改作されてとり入れられていて、第15代応神天皇(仲哀天皇の子 270年2月8日 - 310年3月31日)の時代から約300年間に儒学思想がわが国の祭政に不可欠の存在になったことを示しているといえよう。
 このような外国思想の流入にともなう政治形態の変遷の中にあって、容聡(やすとし)の「自序」が示すように、それまで外国思想の影響を受けず存続していたわが国の祭政思想を守らんと、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)は近江国の水尾御所に逃れ、その淵源たる『秀真伝(ほつまつたゑ)』を学んだのであろうか。『日本書紀』「仁徳天皇即位前紀」に大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)と菟道稚郎子尊(うじわきいらつこのみこと)がたがいに皇位を譲りあううちに、長兄である大山守(おおやまもり)皇子は父帝応神天皇が菟道稚郎子尊(うじわきいらつこのみこと)を寵愛し、自分を皇位に立てなかったことを恨み、稚郎子尊(わきいらつこのみこと)暗殺を企てたことが記されている。稚郎子尊(わきいらつこのみこと)は大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)の密告によってそれを知り大山守皇子(おおやまもりのおうじ)を殺す。
 このような皇位継承をめぐる争いと、従来の神道一色の政治体制が崩れはじめ、新興の儒学が政治思想に影響を与えはじめたという内外における混乱の中で、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)がそれを回避して水尾の地に至ったとしてもそう不思議なことではないだろう。
 このような従来の伝統的な祭政の体制が大きく変化しようとするとき、それを守り古事を貫こうとする者が朝廷から一人くらい輩出しても不自然ではない。稚郎子尊(わきいらつこのみこと)や大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)のような新興思想をもった勢力に対し、保守勢力が台頭しようとすることは、極めて自然なことであり、そのような政治思想の変化に一言も言及していない記紀の記述の方が正確さを欠いているともいえるのではないか。
 政治体制が新興思想をもとにしたものに変革するときに保守勢力との間に争いが起こることは、のちの蘇我氏と物部氏の崇仏論をめぐる争いをみれば一目瞭然であり、これは歴史的にみて自然な成り行きであるといえる。
 稚郎子皇子(わきいらつこおうじ)や大鷦鷯皇子(おおささぎおうじ-後の仁徳天皇)の儒学勢力に対し、古神道勢力として速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が「自序」の中に描かれているのである。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、記紀における速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の反乱伝承である。
 『日本書紀』では仁徳天皇40年(352年)に、第16代仁徳天皇が雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を后に迎えようと、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)を媒(なかだち)としたところ、皇子は密かに皇女を娶って久しく復命せず、天皇ははじめ忍んで罰しなかったが、やがて恨みがつのり皇子を殺そうとしたことが描かれている。
 時に皇子は皇女をつれ、伊勢神宮に参詣しようとしたところ、伊勢蒋代野(こもしろの)にて殺されてしまうのである。
 この速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の反乱伝承と「自序」に記す、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の水尾御所への回避とはいかなる関係をもつものであろうか。
 水尾御所行きはこの反逆事件よりも、もっと以前のことなのであろうか。
 今後検討の必要なところである。

 三重県津市白山町の白山町の伝説より

 隼別皇子は雌鳥皇女の死体を廬杵河(いほきがわ:現在の雲出川)のほとりに埋めたといわれた場所があるらしい。
 → めおと塚古墳の紹介

 ここで参考のために、滋賀県高島郡安曇川町大字田中(旧、産所-さんじょ)の三尾神社のものとして伝わる『和解三尾大明神本土記』をみることにしよう。同書の奥書には「大同3年(808年)戌子吉日」などと記されているが、俄かには信じ難い。しかし容聡(やすとし)の「自序」との関連において、興味深い記述もあるので、次に記すことにする。

 誉田天皇ノ第十一男速総別ノ皇子諱道元尊ト名ク。コノ君ワカカキトキヨリ、神道ヲ得ントオボス。コレニ依テ、遂ニ、コノ三尾ノ郷ニイタリ、アラタニ拝戸宮ヲ造リ、ココニ居テ、ツ子ニ山崎氏神職ノ人ヲマ子キテ、神道ヲ是ニ学ビ、ツ井ニ天成神道ノ奥儀ヲ得タマヒテ、以テ、コレヲ講シ世上ニ流布ナシ玉フ。是ヲ水尾御所と称セリ、

 (旧、産所-さんじょ)の三尾神社のものとして伝わる『和解三尾大明神本土記』より


 ここに記されているように、皇子が若きときより神道に深い興味を示していたとすれば、儒学を積極的に取り入れようとしていた菟道稚郎子皇子(うじわきいらつこのおうじ)や大鷦鷯皇子(おおささぎのおうじ-後の仁徳天皇)との対立は必定であろう。そして、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が、三尾の地に伝えられた神道思想の神髄を記した『秀真伝(ほつまつたゑ)』を学んだとしても不思議ではないのである。
 「自序」よれば、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』の根幹思想である天成る道を学んだことによって、玄孫(やしゃご)である彦太尊(ひこふとのみこと)、すなわち第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)がその思想を受け嗣ぎ、天つ日嗣を知ろしめたのち、天成る道によって国を治めたことが記されていた。

【4】第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)

 「自序」よれば、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』の根幹思想である天成る道を学んだことによって、玄孫(やしゃご)である彦太尊(ひこふとのみこと)、すなわち第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)がその思想を受け嗣ぎ、天つ日嗣を知ろしめたのち、天成る道によって国を治めたことが記されていた。
 ・・・・

 (旧、産所-さんじょ)の三尾神社のものとして伝わる『和解三尾大明神本土記』より

 其子太程ノ皇子、諱一成ト名ツク。其子枝裴皇子、諱頼一ト名ツク。其子淡海主人、諱一元ト名ツク。コノ君、三尾氏七世ノ孫振姫(六世三聞大一太范王ノ女振姫ナリ)、容顔美麗ナルヲキキ玉ヒテ、使者ヲツカワシ、三国ノ坂井に聘テ、水尾宮ニ納テ妃トシ、遂ニ、三子ヲウメリ

 とあり、この三子の一人こそ、のちの継体天皇であるとする。
 さらに同書には、次のようなことも記されている。
 妃が臨月になった時、三尾大明神が一元王(かずもとおう)の夢に現れ、皇位を継承する皇子が生まれるので、お産にあたり父母ともに謹慎せねばならないと告げた。
 そこで、一元王(かずもとおう)は、神職の山崎氏を招いて相談したところ、山崎氏は山崎社の拝殿をもって産所とし、自らは南天に向かい安産を祈り、一元王(かずもとおう)は北に360歩離れた仮宮にて北極星に祈り、これによって三つ子を産んだというのである。
 この「産所」とは、のちの近江国高島郡産所村にあったとされる三尾社のことであろう。
 滋賀県高島郡高島町下拝戸に鎮座する水尾神社の社記によれば、のちに継体天皇の両親を北の仮社跡に祀って三重生神社(みおう)と三重生(みえなり)の地名が残っているとする。興味深いことに、地元ではこの三重生の地は縁起のよい安産の場所として知られ、昔神道が盛んだったころは、臨月の女子がこの村に来てお産をし、産後75日してから帰ったということが伝えられている。この75日というのは、おそらく『秀真伝(ほつまつたゑ)』26紋(26-5)に記される、鵜葺草葺不合尊が生まれたときに、お産の神である勝手神(かってかみ)が彦火々出見尊に、
「君は産屋を覗いてはなりません。4月の望の日より75日間、日ごとに卯葺草(うがや)の産湯をお上げください。これは古より伝わる教えにございます」
 と進言した旨が記されていることと関連するものと思われる。
 三重生の地にて、産後75日過ごしたというのは、ただ居ただけでなく、薬草による産湯をつかわせていたのではないだろうか。
 また、安曇川町の伏原付近には継体天皇の胞衣塚が残っている。
 元来新生児の胞衣は、その処理次第によって産婦に禍いをおよぼしたり、後日の出産に祟るとされ、日取りや方角に注意したり、それを行う物も定められているというような忌避すべき存在とされるが、これは『秀真伝(ほつまつたゑ)』にみえる胞衣の伝承が時代が下るにしたがい変質したものとみなせよう。

【5】赤坂彦

 赤坂彦

【6】井保勇之進(いほゆうのしん)が和仁估(わにこ)容聡(やすとし)を名乗る

 井保勇之進(いほゆうのしん)が和仁估(わにこ)容聡(やすとし)を名乗る

【7】小笠原通當

 小笠原通當

【8】松本善之助

 松本善之助