和仁估容聡の手になる『秀真伝』が発見される西万木の日吉神社(ひよし)
平成22(2010)年5月4日の参拝記録、『秀真伝』の継承と天照大神の天之誓約【9ヶ所】
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紀元前1,290,607年、瓊々杵尊の第二次天孫降臨の時、井堰をなす・・・
紀元前1,290,607年3月15日、梅の花の下に御饗(みあえ)を催された瓊々杵尊は、微笑んで申されました。
「以前日読みの宮にて、梅の花の下、三種の神宝を天照神より賜り、めでたく門出をした。
そしてまた、この白山にて梅の花の下ウケステ女の峰輿を得て、宴を張っている。これはきっと天意に叶った印である」
とおっしゃって、梅の小枝を折り頭にかざして、近江の国の高島に至りました。
その地の酒波(ささなみ)という場所に咲いていた桜の花も美しいとして、君はまたその小枝を折りかざしたのでした。
子守神の生まれた郷である高島の万木村(よろきむら)周辺を田にしようと、子守神の子、太田命と箕島命が井戸や運河を掘って、あたりに水を引きました。
紀元前1,499,704年の第一次天孫降臨で、官職を辞す奇彦命・・
御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・
奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され、父と母の宮を祀られたらしい。大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。
高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)には与呂伎神社(よろぎ)が鎮座しており、祭神は子守神と勝手神である。
地元の人は与呂伎神社(よろぎ)を「コーモリさん」と呼び習わしていて、同社の地名を「古森」と称する。
このことは吉野山の子守宮を「コーモリさん」と呼び、同地に子守という地名が残ることと類似し、何らかの関係が存在することを示している。
なお、与呂伎神社(よろぎ)は、同地で最も古い神社として伝えられている。
この地は、『秀真伝』の記述から子守神(万木麿命)の誕生の地であると考えられる。
太田命は子守命の12男、箕島命は子守命の11男である。
子守神の子の名に因んでいるような青柳の太田神社と新旭町の太田神社、箕島神社とい名の神社があることが注目される。
紀元前1,290,607年、第二次天孫降臨の時に瓊々杵尊が滞在された宮は・・
紀元前1,290,607年、第二次天孫降臨の時に、瓊々杵尊が高島市で治水事業を手がけるとき、西万木の日吉神社に留まられたのかもしれない。
西万木の日吉神社の祭神が瓊々杵尊になっているところから、紀元前1,290,607年の第二次天孫降臨に深く関わる神社なのかもしれない。
西万木の日吉神社の祭神が瓊々杵尊になっているところから、紀元前1,290,607年の第二次天孫降臨に深く関わる神社なのかもしれない。
和仁估容聡(わにこやすとし)の手になる『秀真伝』伝来本が発見された神社・・
この西万木の日吉神社が和仁估容聡(わにこやすとし)の手になる『秀真伝』伝来本が発見された神社である。
こういう書物は、神の代の何らかの縁がなければ「単なる偶然」として現れ出てくるはずがない。
詳しくはこちらのメモ書き参照!
こういう書物は、神の代の何らかの縁がなければ「単なる偶然」として現れ出てくるはずがない。
詳しくはこちらのメモ書き参照!
本殿
ご祭神
瓊瓊杵尊西万木の日吉神社の摂社・愛宕神社
西万木の日吉神社の地図
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