須佐之男命の海原の統治から天照大神の高天原へ参内 |「月の光」

目次

須佐之男命の統治が決まるまでの経緯

 伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸閉めのあと、九州宮崎県江田神社周辺で禊祓いし、天照大神、月読命、須佐之男命の三貴神を生みあげました。
 天照大神は高天原、
 月読命は夜の喰す国、
 須佐之男命は青海原、
 を統治することに決まった。

 まず、千引の岩戸閉めまでの経緯について。

 天地開闢において神世七代の最後に伊邪那岐命と伊邪那美命が生まれた。
 そして高天原の神々に命ぜられ、海に漂っていた脂のような国土を固めるべく、天の浮き橋から矛で海をかき回し、出来上がったオノコロジマにて伊邪那岐命と伊邪那美命は結婚した。
 国産み・神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命との間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。
 伊邪那美命が、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなった。伊邪那岐命が伊邪那美命の遺体にすがって泣いていると、彼の涙からナキサワメ(泣沢女神)が生まれた。
 その後伊邪那岐命はカグツチを殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。
 伊邪那岐命は、伊邪那美命に逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国まで逢いに行った。
 そこで
「決して覗いてはいけない」
 という伊邪那美命との約束を破って見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれた伊邪那美命の姿であった。
 その姿を恐れて伊邪那岐命は地上へ向かって逃げ出してしまう。追いかけてくる八雷神、黄泉醜女(よもつしこめ)、そして伊邪那美命に、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実(意富加牟豆美命、おほかむづみ)を投げながら難を振り切った。
 伊邪那岐命は、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁した。
 岩の向こうから伊邪那美命が
「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」
 と言うと、伊邪那岐命は
「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」
 と言い返した。

 時代の転換点で、人口が大きく減じるのは、伊邪那岐命と伊邪那美命の誓いによる。

 伊邪那美命が黄泉国で1000人殺すので、伊邪那岐命は1500人の産屋を建てる。
 差引500人づつ残ってくるので、長い目で見れば人口は増えていく。
 ところが、近視眼的に50年や100年の目で見ると、時代の激変によって15,000万の人口は5,000万人に急激に減じてしまう、と『古事記』は言っている。
 どの時代に千引の岩戸が閉められているのかについては触れている文献はないが、私は約500万年前のことだろうと推測している。
 天照大神の岩戸隠れが今から258万年前の出来事なので、この地点を参考にして
「1500-1000=500」
 という伊邪那岐命と伊邪那美命の約束を指標にすると約500万年前、と推測することが妥当だと思われる。
 日本の神界において、千引の岩戸が開かれたのは2016年(平成28年)6月11日であったし、天照大神の岩戸開きは2016年6月23日であった。また、迦具土命の復活は2016年8月6日であった。

月の光

 千引の岩戸開きと天照大神の岩戸開き、迦具土命の復活が呼応する形の神経綸になっているようだ。
 千引の岩戸閉めは500万年前なのでまだ人体を持った神々は登場していない。
 山や川は海や石に足場を組んで神々が活動していた時代だ。
 迦具土命が誕生するのは1000万年前や、1500万年前なのだろうが、現実的に想像つかない。

 その後、伊邪那岐命が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれた。
 最後に、左眼からアマテラス(天照大神)、右眼からツクヨミ(月夜見尊・月読命)、鼻からスサノオ(建素戔嗚尊)の三貴子が生まれた。
 伊邪那岐命は三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
 伊邪那岐命に委任された三貴神の統治時代は、千引岩戸閉めから天照大神と須佐之男命の天之誓約までの200万年間の長期に渡る。
『古事記』では三貴神の統治領域が決まって、すぐに須佐之男命が嫌だといったふうに読めるが、海原の統治をするために須佐之男命が大きな声を出さざる得ない状況になってきたのは、三貴神統治時代の末期のことだったろう。
 海原を統治するには、黄泉国にいかないと出来ない状況まで深刻な状況になっていた。
 200万年間の大半はうまく統治できていたのだが、伊邪那美命が亡くなってしまう原因が、三貴神の統治時代にも現れてきた。
 こちらを参照→ 「高龗神とはどういう神なのか? 」

 しかし、須佐之男命が「妣国根之堅州国」(旧出雲国、現;島根県安来地方)へ行きたいと言って泣き止まないため須佐之男命を追放し、伊邪那岐命は淡道(淡路島)の多賀の幽宮(現在の伊弉諾神宮)に篭った。
 須佐之男命は、母・伊邪那美命の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に、姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行うことになった。

須佐之男命が黄泉国に行きたいと泣き叫んだのは何故?

 伊邪那岐命が建速須佐之男命に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。

 この簡単な表現の仕方の中に、実は、大きな物語が秘められていた。

 何故、須佐之男命は根の国(黄泉の国)に行きたいと思ったのか?
 そもそも根の国(黄泉の国)とはどういうところなのか?
 須佐之男命が「泣き叫ぶ」と伝えているが、なぜ「泣き叫んでいたのか」
 須佐之男命の統治領域は海原であるのに、須佐之男命の統治領域を超えて、なぜ「天地」に甚大な被害を与えてしまうのか?
 この素朴な疑問は、『旧約聖書』「創世記」の冒頭2行の解読を進めていた私にとって、「創世記」と同じくらい難解な場所だった。

 「創世記」の冒頭3行

 〔1行目〕初めに、神は天地を創造された。
 〔2行目〕地は混沌であって
       闇が深淵の面(おもて)にあり、
      神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 〔3行目〕神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

 「創世記」の第2行目の解読に、1995年から2005年までの10年を費やしている。
 量子物理学から、「創世記」第2行目と『古事記』の上の文に同じ水準の光を当てると、同じ状況を違う言語で表現しているということを発見した。
 2005年の秋口に解読できたときは、非常に嬉しかった。
 解読に成功したとき、神皇産霊神様から
「あなたが追及されたことを発表されてください」
 という要請を受けて文章化したのが『人生秘中の奥義書』だった。
『人生秘中の奥義書』の公開は、2006年7月までに公開するように」
 と発表時期まで区切られた要請だった。
 日本神話を量子物理学から切り込む切り口は当時ほとんどなかったので、斬新さがあった。
 2012年12月21日まで公開し、そしていろんなところでお話しさせていただいたが、量子物理学と神代の天照大神と須佐之男命以降に誕生された神々では知ることの出来ない領域の事柄に属していたので非常に難しかしい内容だったかもしれない。
 『古事記』と量子物理学を武器に、「創世記」は日本の神々が関わるテーマだと示そうとした大きな目的は、ヘブライ語を知らないことが弱点になって、達成したとは言い切れない状況で終わった。
 この弱点のため、話を前に進めることが出来なくなっていた。
 2017年5月14日に淡路島で行ったユダヤ遺跡の祭典で、ヘブライ語の『聖書』の研究を50年続けてこられた先生のご指導を受けられるようになって、この弱点は解消されようとしている。
 『人生秘中の奥義書』の発表から11年経って本来の使命として掲げた、世界の火薬庫である中東問題に、『古事記』をベースに関わっていくことが出来るようになりつつあるようだ。
 先生のご指導を得て、私が取り組んでいる今の作業を参考にすれば、『古事記』や『日本書紀』を知っている方は、すぐさま、『旧約聖書』や『聖書』のいわんとすることを解説できるようになるかもしれない。

「腹が減った」

「飯屋(メシヤ)に行こう」
 心の飢えを満たすのも「メシヤ」ではないのか?

「ヤベー(ヤハウエ〜ヘブライ語の神)ことをしちまった」

「もうあとがない(アドナイ〜ヘブライ語の神)ぞ」
 日本の何気ない言葉の中に、聖書のニュアンスが生きている国が日本だ。
 そういう国柄の日本人が『聖書』を語らないと、世界の『聖書』を信奉している方々の信仰に紛れが生じるだろう。

根の国とはどういう場所か?

 まず、「根の国」のwiki での解説から見てみよう。
根の国は、日本神話に登場する異界である。
『古事記』では「根之堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)、祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。
 根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にあり(大国主の神話)、一般には根の国と黄泉の国は同じものと考えられている。しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。
 柳田國男は、根の国の「ネ」は琉球の他界信仰である「ニライカナイ」と同じものであるとし、それに「根」の字が宛てられたために地下にあるとされるように変化したとしている。
 また、高天原も根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになったとする説もある。
 いずれにしても、根の国が地下にあるとされたことで、それが死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。
 祝詞においては、罪穢れは根の国に押し流すとしていたり、悪霊邪鬼の根源とされたりしている。逆に、『古事記』では大国主が王権の根拠となる刀・弓矢・琴を根の国から持ち帰っていたり、スサノオが根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいたりする。これらのことから、根の国は正と負両方の性格を持った世界と捉えられていたと考えられる。柳田國男は根の国が「ニライカナイ」と同根であるとの考えから、根の国は本来は生命や富の根源の地(=根の国)であり、本来は明るいイメージの世界だったとしている。

 私が理解するところでは、根の国と音の国は同義である。

 「音(ね)の国」から説明したほうが理解しやすい。

 日の光が水中に入って、水中に留まります。

 時がきて、水中から日の光が立ち上ってくる状態の時が「音」の領域だ。
 音(フォノン)は水がないと存在しない。
 水中に留まった日の光が、音に転換する領域が「音の国」だ。
 「音の国」は、海中や大きな湖の湖水の中に存在している。
 須佐之男命が統治している領域は、海原であって、「音の国」ではない。
 海原のもう一つ下の領域が「音の国」だ。
 質量ゼロの「音(フォノン)」と質量ゼロの「光(フォトン)」が水面で結びつき、質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」が生じる。
 須佐之男命が統治しているのはそういう領域だ。
 須佐之男命は人や生き物の「心の実体」が誕生する海原の表面を統治している。
 「音の国」「根の国」の領域は伊邪那美命の領域だ。

あいう

 次に根の国の説明です。

 根の国とは文字通り、根の国です。

あいう

 根の状態を詳しく見てみると、下の構造体のようになっていることがわかります。
 筒状の根で大地の水分を吸い上げます。
 この時の状態が、水中の「音の国」と同じ現象を引き起こします。
 水が筒状の根を通るときに、質量ゼロの「音(フォノン)」が生じるのです。
 この質量ゼロの「音(フォノン)」と質量ゼロの「光(フォトン)」が木の表層で結びつき質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」が生じます。
 この点で、木は命の源であり、「心の実体」の源であるのです。
 これが「根の国」です。

あいう

 音の国も根の国も同じ内容をもっていました。
 「音(フォノン)」が生じる領域が海中や湖水などの場合、ストレートに音の国と表現し、樹木の木の根を通して「音(フォノン)」が発生する場合、根の国と表現しています。
「音(フォノン)」が発生するという点では全く同じです。
 しかし、「音(フォノン)」が発生する場所によって、民族性は大きく異なってくるのでしょう。
 この点は、この論考のテーマではありません。
 竜宮の乙姫(音姫)という場合、竜宮は海中にあるので、海中で「音」を司る領域にあることがわかりますね。
 この「乙姫(音姫)」という風に日本神話が伝える呼び名も、量子物理学的観点がないと、おとぎ話になってしまいますね。

黄泉国とはどういう場所か?

 黄泉国について考えている時、一番の啓示を受けたのは、ロケット工学の糸川英夫博士の音響について書かれた論文でした。
 糸川博士の音響の説明を読んだとき、今までわからないことのほとんどを理解することが出来た。
 糸川博士は、音の伝達方法に2つあると説明します。
 一つは、水や木や鉄のような物質を通して伝わる伝導の仕方。
 二つは、空気を通して伝わる空気伝導。

 私の言葉に置き換えて表現すると、

 一つ目の音の伝導の仕方は、内意やテレパシーに属する伝導の仕方です。
 自分の体の水を通して、床やテーブルを伝わる響きから何を言われているのか瞬間的に分るのです。
 この伝達の仕方には言葉は不要です。
 思い、念じ、感ずる領域です。
 二つ目の空気伝導の領域は、「読まれ(発声され)」たものが空気を伝って伝わる空気伝導の世界です。
 神代の昔に「かくつち命」が生まれているので、書いて伝える領域が神代で生じたのでしょう。
 書かれたものは「読まれ」ますので、「読み国」が生じた。
 当初の「よみこく」は「読み国」だったのが、時代が下るにつれて「読み国」でも神意が伝わらなくなって「黄泉国」という神意が伝わらない意味合いを込めて「死者の国」のニュアンスが強くなったのでしょう。

  伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸。

 神代の世界に生じた「文字」を読む行為の取扱をめぐって、伊邪那岐命と伊邪那美命の意見がまとまらなくなって、伊邪那美命が「読み国(黄泉国)」に降る決心をします。
「かくつち命」が神代の領域で文字を書いていますので、誰かが「読み国(黄泉国)」に降らなければなりません。
 文字を通しても神意が伝えられるようになって「読み国(黄泉国)」が生じ、神代の以心伝心の流儀が衰えていきました。
 伊邪那美命が神去ったあと、文字で神意を伝える風習を一掃するために「かくつち命」を切り刻むんですね。
 書かれた文字に「邪念」「邪心」「妬み」「嫉妬」「憎しみ」が染み込んでいる恐れも考えられたのです。

 この辺りの事情はこちらを参照→ 「高龗神とはどういう神なのか? 」

 この事件以降、神が文字を書く行為は慎まれたのでしょう。
 しかし、これまで「かくつち命」が書いた文字が残されてしまっています。

 伊邪那岐命にとって、「かくつち命」が書いた文字の浄化が喫緊の課題になっていました。

 まず、文字の響きのなかで、神代の文字を浄化する民族を創出する決定が下されました。
 この民族の課題は、神代の文字が重要なのではなく、文字で表現しようとしている言葉の本来の響きと意味合いが重要視されました。
 これが日本民族です。
 日本には、いろんな神代文字があって、これが日本古来の文字だという風に特定することは困難です。
 これは、文字が重要なのではなく、「音」の響きと調和、それに意味合いこそが日本民族には大事だったからなのです。
 同時に、日本民族の対極に、「かくつち命」が本来書くべきだった文字を厳格に伝える民族も創出されました。
 これがユダヤ民族です。
 ユダヤ民族の始まりは紀元前2000年のアブラハムの時代ですが、ヘブライ語の始まりは紀元前3500年のシュメール文明をキッカケにします。
 旧約聖書では、旧約聖書の教えを文字として厳格に伝えることを求めます。
 日本の『古事記』で厳格に求められているのは、文字の読み方である「音」と意味合いです。
 「かくつち命」が書く前の神代の発声と意味合いを伝えることを日本民族は求められ、「かくつち命」が書いた文字を厳密に再現することをユダヤ民族は求められている。
 「かくつち命」が書かれた文字に染み込んだ「邪念」「邪心」「妬み」「嫉妬」「憎しみ」「怒り」といった想念をユダヤ民族を通して洗い出そうとしているかのように見えます。
 この点からも、「かくつち命」の状況を知っている日本民族でなければ、ユダヤ民族に救いの手を差し出すミカエル役を務めることは出来ないのでしょう。

 「音の国(根の国)」と読み国(黄泉国)は隣り合わせで存在しています。

 海原の表面で生じるエバネッセント光子の集合体の領域が須佐之男命の統治領域でした。
 ところが、三貴神の分割統治時代の末期に、高天原から降りてくる日の光の状態が思わしくなくて、海中で発生する「音」の状況に異常をきたすようになってきました。
 海中で発生する「音」の状況を整えようと、大きな声で叫ぶのですが、須佐之男命の叫び声が海中まで届きません。
 「音」の状況を整えない限り、海原の表面で生じるエバネッセント光子の集合体(この世の実体・人の意識の主体)の異常を治す手立てはありません。
 そのため、須佐之男命は音の国(根の国)に行く決心をします。
 音の国(根の国)に行く前に高天原の天照大神にご挨拶してから行こうと考えて、高天原に登っていきます。
 そして、天照大神と須佐之男命が天之誓約をすることになるわけです。
 この天之誓約の時にいろんな意見交換、善処策が考えられただろうと想像できます。
 日の光が海中に入って、音に転換する時に異常が生じているので、問題は高天原にあったのです。
 須佐之男命にしてみれば、天を批判することはできません。
 天照大神に感じ取っていただく他ないのです。
 天照大神にしても、須佐之男命と誓約の時に情報交換してみて、事態の深刻さを認識します。
 それで、須佐之男命に高天原の改革を託したわけです。

 この点については → 天之機屋事件と天照大神の岩戸隠れ

天ノ誓約の後、人体を持つ神々が現れると、「根の国」「音の国」は人体のなかに

 天之誓約の最終局面で人体を持つ神々が登場し始めはした。

 参考→ 天照大神と須佐之男命の天之誓約(琵琶湖を挟んで)

あいう  人体を持つ神々が登場し始めた結果、人体の毛細血管網が「根の国」と同じような働きをするようになりました。
 同時に、人体の体液が海の海中と同じような働きをするようになり、「音の国」の作用もするようになりました。
 人体が発声器官をもつことによって、「よみこく」(読み国・黄泉国)への作用を及ぼすようにできるようになりました。
 こういう点で、人体をもつ人が天地の主宰者であるかのように現れることが出来るのです。
 人体をもっていなかった神々の段階で生じた諸問題を、人体を持った地上の神々の問題に移し対処できるようになったのです。

 このようになったのは138億年のビックバーン宇宙のなかでまだ300万年なのです。

(※)体の中の血管を全てつなげると、地球2周半するほどあるといいます。
  その99%が「毛細血管」で、そこを血液は50秒で1周します。

「創世記」の冒頭三行

 「創世記」の冒頭3行

 〔1行目〕初めに、神は天地を創造された。
 〔2行目〕地は混沌であって
       闇が深淵の面(おもて)にあり、
      神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 〔3行目〕神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

 3行目の「光あれ」という神様の発声は、千引の岩戸が閉められた後、伊邪那岐命が天照大神、月読の命、須佐之男命の統治領域を決めるときの発声です。
 2行目の「神の霊が水の面(おもて)を動いていた」という記述から、「光あれ」という発声の前に、「神の霊」が存在していたことになります。
 伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みの段階で、「水の面(おもて)」を動いているのは、ヒルコと淡島です。
 国生みの初発の段階で、伊邪那岐命と伊邪那美命はヒルコと淡島を生みあげて流します。
 「創世記」の記述から、ヒルコと淡島は常に存在している状況になっている。
 つまり、日の光(ヒルコ)の「日」が海中に「日」という状態で留まり、上昇する時に質量ゼロの「音」となり、海の表面で質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」という淡島が誕生するという量子物理学的法則があるんですね。
 1行目の「初めに、神は天地を創造された」という記述は、ヘブライ語では「ベート(アルファベットのB、つまり2番目)」で始まっていることから、「創世記」では第二番目の「天地の創造」のことを語るんですよ、と明示していることになります。
 2006年の『人生秘中の奥義書』の段階では、ヘブライ語の知識がないために、この点の理解が弱点だった。
 ヘブライ語の「アルファベート」を知るだけで、こういうことを簡単に主張できるようになった。
 「創世記」では、最初の天地創成のことが語られているのではなく、伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みと神生みのことが語られているんです。
 だから、ヘブライ語では「ベート(アルファベットのB、つまり2番目)」で始まっている。
「創世記」では、最初の天地創成が隠されて岩戸閉めの状態になっていて、聖書だけ読んでいても光が差し込まないようになっている。
 最初の天地創成は、日本では天之御中主神様と大国常立大神様に由来します。

『古事記』では以下のように「あ」から始まります。

 「い」から始まっていません。
「あめつち(天地)初めてひらけし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」
 神典の一番最初の文字を何から始めるのか?
 あるいは、作品の最初の出だしをどうするのか?
 これは文章や物語を描く人たちは常に気を使う場所です。
 最初に滑ると、立て直しが難しくなる。
 何度もいいますが、「創世記」はヘブライ語の「ベート(アルファベットのB、つまり2番目)」で始まっている。
 欧米人にとっては、驚愕の『聖書』解釈になってしまいますね。

 日本人こそが『聖書』の奥義を語れる、という神意がこういう所にもあるという由縁です。

 『聖書』の読解から、欧米の2000年以上の精神文明が根底から覆されていくことになり、日本の指導的地位が明確になっていきます。
 このことを『聖書』が論証してくれるのです。

┏ ダニエル書から引用 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
〔2:31〕王様、あなたは一つの像をご覧になられました。
 その像は巨大で、非常に輝き、あなたの前に立ち、
 見るも恐ろしいものでした。
〔2:32〕それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、
〔2:33〕すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。
〔2:34〕見ておられると、
 一つの石が人手によらずに切り出され、
 その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
〔2:35〕鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、
 夏の打穀場のもみがらのようになり、風に吹き払われ、
 跡形もなくなりました。
  その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。
〔2:44〕この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。
 この国は永遠に滅びることなく、
 その主権は他の民の手に渡ることなく、
 すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。
〔2:45〕山から人手によらず切り出された石が、
 鉄、青銅、陶土、銀、金をを打つのをご覧になりましたが、
 それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様に
 お知らせになったのです。
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ダニエル書から引用 ┛

 上のダニエル書からの引用で、神様がダニエルに示されたことは、来るべき未来の日本の果たす役割についてです。
 石と「一つの国」は同義であって、しかも、日本の国歌「君が代」には「さざれ石」が歌い込まれています。