天之岩戸開きの真実(2017年7月28日) |「月の光」

目次

『旧約聖書』の神の言葉がどうして厳しいものになるのか?

『旧約聖書』の神の御言葉は非常に厳しいものになっています。

 「創世記」第3章14-19節。
 主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
 神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」
 神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

『旧約聖書』のこの厳しさは、全編に共通するものになっています。

 なぜ、『旧約聖書』はこのように厳しくなってしまうのでしょう。

日本の神代の昔にあった天之岩戸開きがウソ・偽りに満ちていた

『旧約聖書』が厳しくはこのように厳しくなって

天之岩戸開きの全体像はどうなっている?

 天照大御~、忌服屋(いみはたや)に坐して、~御衣(かむみそ)織らしめし時、其の服屋の頂(いただき)を穿(うが)ちて、天の斑馬(ぶちごま)を逆剥ぎに剥ぎて、墮し入れたる時に、天の衣織女(みそおりめ)、見驚きて梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。【陰上を訓みて富(ほ)登(と)と云う】

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 天照大神が、神聖な機屋はたやにいて、神に献上する御衣を機織り女たちに織らせていたときに、速須佐之男命がその機屋の棟に穴をあけて、斑ぶち入りの馬を逆剥ぎにして落とし入れたところ、機織り女はこれを見て驚き、梭(ひ)で女陰を突いて死んでしまった。

 故、是に天照大御~見畏(かしこ)みて、天の石屋(いわや)の戸を開きて、刺し許(こ)母(も)理(り)【此の三字は音を以ちてす】坐しき。 爾くして高天原、皆暗く、葦原中國、悉く闇(くら)し。 此に因りて常夜(とこよ)往きき。 是に萬(よろず)の~の聲は狹蝿(さばえ)那(な)須(す)【此の二字は音を以ちてす】皆な滿ち、萬(よろず)の妖(わざわい)悉く發(おこ)りき。

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 そして、天照大御神はそれを見て恐れて、天の石屋の戸を閉じて中にこもった。
 すると高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて闇になった。こうしてずっと夜が続いた。そして大勢の神々の騒ぐ声は夏の蠅のように充満し、あらゆる災いがことごとく起こった。

 是を以ちて八百萬(やほよろず)の~、天の安(やす)の河原に~集(かむつど)い集(つど)いて【集を訓みて都(つ)度(ど)比(ひ)と云う】、
 高御産巣日の~の子、思金(おもいかね)の~に思わしめて【金を訓みて加(か)尼(ね)と云う】、
 常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、
 天の安河の河上の天の堅石(かたいわ)を取り、天の金山(かなやま)の鐵(くろかね)を取りて、
 鍛人(かぬち)に天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて【麻羅の二字は音を以ちてす】、
 伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命に科(おほ)せ【伊より下六字は音を以ちてす】、鏡を作らしめ、
 玉祖(たまのおや)の命に科せて、八尺の勾の五百津の御須麻流の珠を作らしめて、
 天兒屋(あめのこやね)の命、布刀玉(ふとだま)の命を召し【布刀の二字は音を以ちてす。下、此に效え】て、天の香山(かやま)の眞男鹿(まおしか)の肩を内拔(うちぬき)に拔きて、天の香山の天の波(は)波(は)迦(か)【此の三字は音を以ちてす。木の名ぞ】を取りて、占合(うらな)い麻(ま)迦(か)那(な)波(は)しめて【麻より下の四字は音を以ちてす】、
 天の香山の五百津眞賢木(いほつまさかき)を、根(ね)許(こ)士(じ)爾(に)許(こ)士(じ)て【許より下五字は音を以ちてす】、
 上つ枝に八尺の勾の五百津の御須麻流の玉を取り著け、
 中つ枝に八尺の鏡を取り繋け【八尺を訓みて八(や)阿(あ)多(た)と云う】、
 下つ枝に白丹寸手(しろにきて)、青丹寸手(あおにきて)を取り垂(しで)て【垂を訓みて志(し)殿(で)と云う】、
 此の種種(くさぐさ)の物は、布刀玉の命、布(ふ)刀(と)御幣(みてぐら)登(と)取り持ちて、
 天兒屋の命、布(ふ)刀(と)詔戸言(のりとごと)祷(ほ)き白して、
 天手力男の~、戸の掖(わき)に隱り立ちて、
 天宇受賣の命、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋けて、天の眞析(まさき)をと爲して、手草(たぐさ)に天の香山の小竹(ささ)の葉を結いて【小竹を訓みて佐(さ)佐(さ)と云う】、天の石屋の戸に(う)氣(け)【此の二字は音を以ちてす】を伏せて、蹈み登(と)杼(ど)呂(ろ)許(こ)志(し)【此の五字は音を以ちてす】~懸(かむがか)り爲(し)て、胸乳(むなぢ)掛き出し、裳の緒を番(ほ)登(と)に忍し垂れき。
 爾くして高天原動(とよ)みて、八百萬(やほよろず)の~共に咲(わら)いき。
 そこで八百万の神々が、天の安の河の河原に集まり、高御産巣日神の子、思金神に思わせた(考えさせた)、
(1)常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、( → 朝(時)が来ていないのにウソ鳴きさせる
(2)天の安の河の川上にある堅い岩を取り、天の金山の鉄を採って、鍛冶職人の天津麻羅を捜して、 (3)伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、
(4)玉祖命に命じて八尺の勾の五百津の御須麻流の珠を作らせ、
  ※ 天照大御神様の統治権の侵害
  ( → 時の進行の意図的操作
(5)天児屋命、布刀玉命を呼んで、
   天の香山の雄鹿の肩の骨を抜き取り、
 天の香山の天の波波迦(ハハカ)を取ってその骨を灼いて占わせ、
(6)天の香山の枝葉の茂った榊を根こそぎ掘り起こしてきて、
 上の枝には八尺の勾の五百津の御須麻流の玉を取り付け、
 中の枝には八尺鏡を掛け、
 下の枝には楮(こうぞ)の白い幣帛と麻の青い幣帛を垂れかけ、
 これらさまざまな物は、布刀玉命が神聖な御幣として捧げ持ち、
(7)天児屋命は神聖な祝詞を唱えて寿ぎ、
(8)天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、
(9)天宇受売命は
   天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、
 天の真拆葛を髪飾りとして、
 天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、
 天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
 神がかりして乳房を掻き出し、
 裳の紐を女陰まで押し垂らした。

(10)すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。

 是に天照大御~、怪しと以爲(おも)い、天の石屋の戸を細く開きて、内に、
「吾が隱り坐すに因りて、天原自ずから闇く、また葦原中國皆闇しと以爲(おも)うに、何の由にか天宇受賣は樂を爲し、また八百萬の~は諸(もろもろ)咲う」
 と告げき。 
 爾くして天宇受賣、白して、
「汝が命に益して貴き~坐(いま)す故に、歡喜(よろこ)び咲(わら)い樂(あそ)ぶ」
 と言いき。
 如此(かく)言う間に、天兒屋の命、布刀玉の命、其の鏡を指し出し、天照大御~に示し奉る時に、天照大御~、逾(いよ)よ奇(あや)しと思いて、稍(ようや)く戸より出でて臨み坐す時に、其の隱り立てる天手力男の~、其の御手を取りて引き出だすに、即ち布刀玉の命、尻久(く)米(め)【此の二字は音を以ちてす】繩を以ちて其の御後方(みあとへ)に控(ひ)き度(わた)し、白して、「此より内に還り入るを得じ」と言いき。 故、天照大御~、出で坐しし時、高天原及び葦原中國自ずから照り明るを得たり。

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 そこで天照大神は不思議に思って、天の石屋戸を細めに開けて、戸の内から、
「私がここにこもっているので、天の世界は自然と暗く、また葦原中国もすべて暗いだろうと思うのに、なぜ天宇受売は舞楽をし、八百万の神はみな笑っているのだろう」
 と言った。
 すると天宇受売は、
「あなた様にもまさる高貴な神がいらっしゃるから、喜び笑って歌舞をしているのです」 ( → ウソの申告

 と言った。

 そう言う間に、天児屋命と布刀玉命が、その鏡を差し出して、天照大御神に見せると、天照大御神はいよいよ不思議に思って、少しずつ戸から出て鏡を覗き込む時に、戸の脇に隠れて立っていた天手力男神が、その手を取って外へ引っ張り出した。( → 暴力
 すぐに布刀玉命が、注連縄を天照大御神の後ろに引き渡して、
「ここより内へはお戻りになることはできません」( → 実力行使
 と言った。
 こうして天照大御神が出てきた時に、高天原も葦原中国も自然と照り明るくなった。

 是に八百萬の~、共に議りて速須佐之男の命に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負わせ、また鬚と手足の爪を切り祓(はら)えしめて~(かむ)夜(や)良(ら)比(ひ)夜(や)良(ら)比(ひ)岐(き)。

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 そして、八百万の神々は、一緒に相談して、速須佐之男命にたくさんの贖罪の品物を科し、またその鬚と手足の爪を切って祓えをさせ、高天原から追放した。( → 速須佐之男命をスケープゴートにして罪をなすりつける。

 又、食物(くらいもの)を大氣都比賣(おおげつひめ)の~に乞いき。 爾くして大氣都比賣、鼻、口、と尻より種種(くさぐさ)の味物(うましもの)を取り出だして、種種に作り具えて進(たてまつ)る時に、速須佐之男の命、其の態(わざ)を立ち伺い、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)ると爲(おも)いて乃ち其の大宜津比賣の~を殺しき。 故、殺されし~の身に生りし物は、頭に蠶(こ)生(な)り、二つの目には稻種(いなだね)生り、二つの耳には粟(あわ)生り、鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麥(むぎ)生り、尻に大豆(まめ)生りき。 故、是に~産巣日御祖(かむむすひみおや)の命、茲(こ)の成れる種を取らしめき。

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 また、食べ物を大気都比売神に乞うた。そして大気都比売が、鼻や口や尻から、さまざまなおいしい物を取り出し、さまざまに調理し盛り付けて差し出した時に、 速須佐之男命は、その様子を立ちうかがって、食べ物を穢して差し出すのだと思い、すぐさまその大宜津比売神を殺した。すると、殺された神の身体に成った物は、頭に蚕がなり、二つの目に稲種がなり、二つの耳に粟がなり、鼻に小豆がなり、陰部に麦がなり、尻に大豆がなった。そこで、神産巣日御祖命は、これらを取らせて種とした。

 故、避(さ)り追われて出雲の國の肥の河上、名は鳥髮(とりかみ)の地に降りき。 此の時に箸、其の河より流れ下りき。 是に須佐之男の命、其の河上に人有りと以爲(おも)いて尋ね(もと)め上り往けば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人在りて童女(おとめ)を中に置きて泣けり。 爾くして、「汝等は誰ぞ」と、問い賜いき。 故、其の老夫答えて、「僕(やつがれ)は國つ~、大山津見の~の子ぞ。 僕が名は足名椎(あしなづち)と謂い、妻が名は手名椎(てなづち)と謂う。 女(むすめ)が名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と謂う」と、言いき。 また問いしく、「汝が哭く由は何ぞ」。 答えて白さく、「我の女(むすめ)は本より八たりの稚女(むすめ)在り。 是に高志(こし)の八俣の遠(お)呂(ろ)智(ち)【此の三字は音を以ちてす】年毎に來て喫(くら)う。今其の來る可き時ぞ。故に泣く」と言いき。 爾くして問いしく、「其の形は如何に」。 答えて、「彼の目は赤加(か)賀(が)智(ち)の如くして、身一つに八つの頭、八つの尾有り。 また其の身に蘿(ひかげ)と桧(ひ)・榲(すぎ)生い、其の長さは谿八谷、峽八尾を度りて其の腹を見るに悉く常に血爛(ただ)れたるなり【此に謂う赤加賀知は今の酸醤(ほほづき)なり】」と白しき。

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須佐之男命が黄泉国に行きたいと泣き叫んだのは何故?

 伊邪那岐命が建速須佐之男命に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。

 この簡単な表現の仕方の中に、実は、大きな物語が秘められていた。

 何故、須佐之男命は根の国(黄泉の国)に行きたいと思ったのか?
 そもそも根の国(黄泉の国)とはどういうところなのか?
 須佐之男命が「泣き叫ぶ」と伝えているが、なぜ「泣き叫んでいたのか」
 須佐之男命の統治領域は海原であるのに、須佐之男命の統治領域を超えて、なぜ「天地」に甚大な被害を与えてしまうのか?
 この素朴な疑問は、『旧約聖書』「創世記」の冒頭2行の解読を進めていた私にとって、「創世記」と同じくらい難解な場所だった。

 「創世記」の冒頭3行

 〔1行目〕初めに、神は天地を創造された。
 〔2行目〕地は混沌であって
       闇が深淵の面(おもて)にあり、
      神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 〔3行目〕神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

 「創世記」の第2行目の解読に、1995年から2005年までの10年を費やしている。
 量子物理学から、「創世記」第2行目と『古事記』の上の文に同じ水準の光を当てると、同じ状況を違う言語で表現しているということを発見した。
 2005年の秋口に解読できたときは、非常に嬉しかった。
 解読に成功したとき、神皇産霊神様から
「あなたが追及されたことを発表されてください」
 という要請を受けて文章化したのが『人生秘中の奥義書』だった。
『人生秘中の奥義書』の公開は、2006年7月までに公開するように」
 と発表時期まで区切られた要請だった。
 日本神話を量子物理学から切り込む切り口は当時ほとんどなかったので、斬新さがあった。
 2012年12月21日まで公開し、そしていろんなところでお話しさせていただいたが、量子物理学と神代の天照大神と須佐之男命以降に誕生された神々では知ることの出来ない領域の事柄に属していたので非常に難しかしい内容だったかもしれない。
 『古事記』と量子物理学を武器に、「創世記」は日本の神々が関わるテーマだと示そうとした大きな目的は、ヘブライ語を知らないことが弱点になって、達成したとは言い切れない状況で終わった。
 この弱点のため、話を前に進めることが出来なくなっていた。
 2017年5月14日に淡路島で行ったユダヤ遺跡の祭典で、ヘブライ語の『聖書』の研究を50年続けてこられた先生のご指導を受けられるようになって、この弱点は解消されようとしている。
 『人生秘中の奥義書』の発表から11年経って本来の使命として掲げた、世界の火薬庫である中東問題に、『古事記』をベースに関わっていくことが出来るようになりつつあるようだ。
 先生のご指導を得て、私が取り組んでいる今の作業を参考にすれば、『古事記』や『日本書紀』を知っている方は、すぐさま、『旧約聖書』や『聖書』のいわんとすることを解説できるようになるかもしれない。

「腹が減った」

「飯屋(メシヤ)に行こう」
 心の飢えを満たすのも「メシヤ」ではないのか?

「ヤベー(ヤハウエ〜ヘブライ語の神)ことをしちまった」

「もうあとがない(アドナイ〜ヘブライ語の神)ぞ」
 日本の何気ない言葉の中に、聖書のニュアンスが生きている国が日本だ。
 そういう国柄の日本人が『聖書』を語らないと、世界の『聖書』を信奉している方々の信仰に紛れが生じるだろう。

根の国とはどういう場所か?

 まず、「根の国」のwiki での解説から見てみよう。
根の国は、日本神話に登場する異界である。
『古事記』では「根之堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)、祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。
 根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にあり(大国主の神話)、一般には根の国と黄泉の国は同じものと考えられている。しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。
 柳田國男は、根の国の「ネ」は琉球の他界信仰である「ニライカナイ」と同じものであるとし、それに「根」の字が宛てられたために地下にあるとされるように変化したとしている。
 また、高天原も根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになったとする説もある。
 いずれにしても、根の国が地下にあるとされたことで、それが死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。
 祝詞においては、罪穢れは根の国に押し流すとしていたり、悪霊邪鬼の根源とされたりしている。逆に、『古事記』では大国主が王権の根拠となる刀・弓矢・琴を根の国から持ち帰っていたり、スサノオが根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいたりする。これらのことから、根の国は正と負両方の性格を持った世界と捉えられていたと考えられる。柳田國男は根の国が「ニライカナイ」と同根であるとの考えから、根の国は本来は生命や富の根源の地(=根の国)であり、本来は明るいイメージの世界だったとしている。

 私が理解するところでは、根の国と音の国は同義である。

 「音(ね)の国」から説明したほうが理解しやすい。

 日の光が水中に入って、水中に留まります。

 時がきて、水中から日の光が立ち上ってくる状態の時が「音」の領域だ。
 音(フォノン)は水がないと存在しない。
 水中に留まった日の光が、音に転換する領域が「音の国」だ。
 「音の国」は、海中や大きな湖の湖水の中に存在している。
 須佐之男命が統治している領域は、海原であって、「音の国」ではない。
 海原のもう一つ下の領域が「音の国」だ。
 質量ゼロの「音(フォノン)」と質量ゼロの「光(フォトン)」が水面で結びつき、質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」が生じる。
 須佐之男命が統治しているのはそういう領域だ。
 須佐之男命は人や生き物の「心の実体」が誕生する海原の表面を統治している。
 「音の国」「根の国」の領域は伊邪那美命の領域だ。

あいう

 次に根の国の説明です。

 根の国とは文字通り、根の国です。

あいう

 根の状態を詳しく見てみると、下の構造体のようになっていることがわかります。
 筒状の根で大地の水分を吸い上げます。
 この時の状態が、水中の「音の国」と同じ現象を引き起こします。
 水が筒状の根を通るときに、質量ゼロの「音(フォノン)」が生じるのです。
 この質量ゼロの「音(フォノン)」と質量ゼロの「光(フォトン)」が木の表層で結びつき質量を生じた「光を発しないエバネッセント光子(心の実体)」が生じます。
 この点で、木は命の源であり、「心の実体」の源であるのです。
 これが「根の国」です。

あいう

 音の国も根の国も同じ内容をもっていました。
 「音(フォノン)」が生じる領域が海中や湖水などの場合、ストレートに音の国と表現し、樹木の木の根を通して「音(フォノン)」が発生する場合、根の国と表現しています。
「音(フォノン)」が発生するという点では全く同じです。
 しかし、「音(フォノン)」が発生する場所によって、民族性は大きく異なってくるのでしょう。
 この点は、この論考のテーマではありません。
 竜宮の乙姫(音姫)という場合、竜宮は海中にあるので、海中で「音」を司る領域にあることがわかりますね。
 この「乙姫(音姫)」という風に日本神話が伝える呼び名も、量子物理学的観点がないと、おとぎ話になってしまいますね。

黄泉国とはどういう場所か?

 黄泉国について考えている時、一番の啓示を受けたのは、ロケット工学の糸川英夫博士の音響について書かれた論文でした。
 糸川博士の音響の説明を読んだとき、今までわからないことのほとんどを理解することが出来た。
 糸川博士は、音の伝達方法に2つあると説明します。
 一つは、水や木や鉄のような物質を通して伝わる伝導の仕方。
 二つは、空気を通して伝わる空気伝導。

 私の言葉に置き換えて表現すると、

 一つ目の音の伝導の仕方は、内意やテレパシーに属する伝導の仕方です。
 自分の体の水を通して、床やテーブルを伝わる響きから何を言われているのか瞬間的に分るのです。
 この伝達の仕方には言葉は不要です。
 思い、念じ、感ずる領域です。
 二つ目の空気伝導の領域は、「読まれ(発声され)」たものが空気を伝って伝わる空気伝導の世界です。
 神代の昔に「かくつち命」が生まれているので、書いて伝える領域が神代で生じたのでしょう。
 書かれたものは「読まれ」ますので、「読み国」が生じた。
 当初の「よみこく」は「読み国」だったのが、時代が下るにつれて「読み国」でも神意が伝わらなくなって「黄泉国」という神意が伝わらない意味合いを込めて「死者の国」のニュアンスが強くなったのでしょう。

  伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸。

 神代の世界に生じた「文字」を読む行為の取扱をめぐって、伊邪那岐命と伊邪那美命の意見がまとまらなくなって、伊邪那美命が「読み国(黄泉国)」に降る決心をします。
「かくつち命」が神代の領域で文字を書いていますので、誰かが「読み国(黄泉国)」に降らなければなりません。
 文字を通しても神意が伝えられるようになって「読み国(黄泉国)」が生じ、神代の以心伝心の流儀が衰えていきました。
 伊邪那美命が神去ったあと、文字で神意を伝える風習を一掃するために「かくつち命」を切り刻むんですね。
 書かれた文字に「邪念」「邪心」「妬み」「嫉妬」「憎しみ」が染み込んでいる恐れも考えられたのです。

 この辺りの事情はこちらを参照→ 「高龗神とはどういう神なのか? 」

 この事件以降、神が文字を書く行為は慎まれたのでしょう。
 しかし、これまで「かくつち命」が書いた文字が残されてしまっています。

 伊邪那岐命にとって、「かくつち命」が書いた文字の浄化が喫緊の課題になっていました。

 まず、文字の響きのなかで、神代の文字を浄化する民族を創出する決定が下されました。
 この民族の課題は、神代の文字が重要なのではなく、文字で表現しようとしている言葉の本来の響きと意味合いが重要視されました。
 これが日本民族です。
 日本には、いろんな神代文字があって、これが日本古来の文字だという風に特定することは困難です。
 これは、文字が重要なのではなく、「音」の響きと調和、それに意味合いこそが日本民族には大事だったからなのです。
 同時に、日本民族の対極に、「かくつち命」が本来書くべきだった文字を厳格に伝える民族も創出されました。
 これがユダヤ民族です。
 ユダヤ民族の始まりは紀元前2000年のアブラハムの時代ですが、ヘブライ語の始まりは紀元前3500年のシュメール文明をキッカケにします。
 旧約聖書では、旧約聖書の教えを文字として厳格に伝えることを求めます。
 日本の『古事記』で厳格に求められているのは、文字の読み方である「音」と意味合いです。
 「かくつち命」が書く前の神代の発声と意味合いを伝えることを日本民族は求められ、「かくつち命」が書いた文字を厳密に再現することをユダヤ民族は求められている。
 「かくつち命」が書かれた文字に染み込んだ「邪念」「邪心」「妬み」「嫉妬」「憎しみ」「怒り」といった想念をユダヤ民族を通して洗い出そうとしているかのように見えます。
 この点からも、「かくつち命」の状況を知っている日本民族でなければ、ユダヤ民族に救いの手を差し出すミカエル役を務めることは出来ないのでしょう。

 「音の国(根の国)」と読み国(黄泉国)は隣り合わせで存在しています。

 海原の表面で生じるエバネッセント光子の集合体の領域が須佐之男命の統治領域でした。
 ところが、三貴神の分割統治時代の末期に、高天原から降りてくる日の光の状態が思わしくなくて、海中で発生する「音」の状況に異常をきたすようになってきました。
 海中で発生する「音」の状況を整えようと、大きな声で叫ぶのですが、須佐之男命の叫び声が海中まで届きません。
 「音」の状況を整えない限り、海原の表面で生じるエバネッセント光子の集合体(この世の実体・人の意識の主体)の異常を治す手立てはありません。
 そのため、須佐之男命は音の国(根の国)に行く決心をします。
 音の国(根の国)に行く前に高天原の天照大神にご挨拶してから行こうと考えて、高天原に登っていきます。
 そして、天照大神と須佐之男命が天之誓約をすることになるわけです。
 この天之誓約の時にいろんな意見交換、善処策が考えられただろうと想像できます。
 日の光が海中に入って、音に転換する時に異常が生じているので、問題は高天原にあったのです。
 須佐之男命にしてみれば、天を批判することはできません。
 天照大神に感じ取っていただく他ないのです。
 天照大神にしても、須佐之男命と誓約の時に情報交換してみて、事態の深刻さを認識します。
 それで、須佐之男命に高天原の改革を託したわけです。

 この点については → 天之機屋事件と天照大神の岩戸隠れ

天ノ誓約の後、人体を持つ神々が現れると、「根の国」「音の国」は人体のなかに

 天之誓約の最終局面で人体を持つ神々が登場し始めはした。

 参考→ 天照大神と須佐之男命の天之誓約(琵琶湖を挟んで)

あいう  人体を持つ神々が登場し始めた結果、人体の毛細血管網が「根の国」と同じような働きをするようになりました。
 同時に、人体の体液が海の海中と同じような働きをするようになり、「音の国」の作用もするようになりました。
 人体が発声器官をもつことによって、「よみこく」(読み国・黄泉国)への作用を及ぼすようにできるようになりました。
 こういう点で、人体をもつ人が天地の主宰者であるかのように現れることが出来るのです。
 人体をもっていなかった神々の段階で生じた諸問題を、人体を持った地上の神々の問題に移し対処できるようになったのです。

 このようになったのは138億年のビックバーン宇宙のなかでまだ300万年なのです。

(※)体の中の血管を全てつなげると、地球2周半するほどあるといいます。
  その99%が「毛細血管」で、そこを血液は50秒で1周します。