焼火神社(たくひ)【5】記録に残しておきたいメモ書き|島根県隠岐の島の島前

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島根県隠岐郡西ノ島町美田焼火山
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記録に残しておきたいメモ書き

記録に残しておきたいメモ書き

天照神年表では細矛千足(山陰地方)のご巡狩を伝えている。

鳥取県鳥取市の霊石山に天照大神の行幸の伝承が残っている。
○島根県隠岐の島の西ノ島に天照大神が降臨した伝承(別ウィンドウ)が残っている。
 ⇒待場神社・峯美神社(別ウィンドウ)
 ⇒焼火神社

こんどのいわとひらきにはひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。

下の2つの神社が、おのころ、水蛭子・淡島、隠岐の三子島に相当か?

・島根県の【島前】の西ノ島にある焼火神社(たくひ)
・島根県の隠岐の島の【島後】にある水祖神社(みおや)

「こんどのいわとひらきにはひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。」

 『ひふみ神示』 補巻「月光の巻」 第2帖 より

細矛千足(山陰地方)のご巡狩は、道奥伝授の一環・・

【メルマガ平成19年5月30日 第60号「天照大神降臨伝説」より】

 今回2007年5月3日に西の島に行ったときの私の関心は、この伝説はいつの出来事か、におかれていました。
 西ノ島の天照大神降臨伝説は、『秀真伝』の下の記述から、紀元前1,710,417年から紀元前1,710,408年までの約9年間の間の出来事だと捉えています。
 天照神は、宮城県の今は失われている日高見国で豊受神より「天の道の奥義」を学ばれていましたが、全て学びきれていなかったので、最後の学びを京都府の宮津の宮(天之橋立付近)でなされました。
 天照神は171万年前、豊受神より天の道の奥義を伝授を受けた後、西ノ島に渡られたのでしょう。
 西ノ島の天照大神降臨伝説は、実にリアルな記録です。
 鳥取県鳥取市の霊石山の伝承と同じくらいにリアルです。

(※)東北を「道の奥」というのは、「天の道の奥義」に由来するでしょう。

 今は失われている宮城県の日高見国と京都府の宮津の宮と天之橋立付近の関わりはとても深いものがあります。
 日本三景の内の二つが密接に結びつくんですね。

 日本三景とは、宮城県の松島・京都府の天之橋立・広島県の厳島です。

 この出来事の約10万年後に天照神の岩戸隠れと白人・胡久美の乱に端を発する六ハタレと魔軍の動乱が起きます。
 境港周辺は、水木しげる氏に代表される「ゲゲゲのキタロウ!」に魔軍伝承の片鱗をみることができるでしょう。
 同じように魔軍伝承の片鱗は岩手県の遠野にも見ることができるかもしれませんね。

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  『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)上巻PP365-366 の記述

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 天照神の御世も浦安く豊かに治まり、大濡煮命の代より数えて129万301年(紀元前1,710,417年)に、宮津の宮より急の使者が天照神のもとに遣わされました。豊受神がお隠れになられるとの知らせに、天照神は急ぎ真名井に行幸されます。
 ときに豊受神は天照神に、
「むかし日高見のヤマテの宮で道奥の全てを伝授できなかったので、ここで待っていたのだ」
とお話になり、天の道の奥義を天照神にお授けになりました。
「諸神たちもしかと聞け。君というものは幾世までも、臣民の御親なのであるぞ。これは国常立尊の畏くも尊い御教えである」
 と仰せられ、洞を閉ざしてお隠れあそばしたのでした。その洞の上に朝日の宮を建立し、天照神は懇ろに、豊受神の御魂をお祭になられました。

(※)宮津の宮・・・・

 京都府宮津市大垣の籠神社。
 奥宮の地・真名井ヶ原は、天照皇大神が丹後国与謝郡に鎮座の砌、豊受神が御饌を奉供した霊跡であると伝えられる。
 しかし、多くの文献にその地は、切戸文殊堂(智恩寺)の境域にあったと記されている。

(※)朝日の宮・・・

 京都府加佐郡河守上村字天田内の元伊勢外宮のこと

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の六「日の神 十二后の紋」

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の六「日の神 十二后の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P349-368 )
  御代も豊かに  
治まりて 八万年経て  
二十二鈴 五百五枝初穂に 大濡煮命の代より数えて129万301年(紀元前1,710,417年)。
宮津より 早雉子飛べば  
天日神 急ぎ真名井に 豊受神がいらっしゃる宮津の宮の地。
行幸なる 時に玉杵尊  
相語り 「昔陸奥
尽くさねば ここに待つ」とて かつて、天照神が日高見のヤマテ宮にて豊受神に天の道の奥義を学んだ時のことを差している。
授けまし 「諸神たちも  
しかと聞け 君は幾世の 二十七紋に天照神の勅として「われ昔 天の道得る 香久の文 御祖大神お 授く名も 御祖天君」〔27-14〕とみえ、この豊受神との真名井での奥義伝承のことを語っていることがわかる。「香久の文」の「香久」とは国常立尊を象徴したもの。
御親なり これ国常立尊の  
勅」と 洞お閉ざして  
隠れます その上に建つ  
朝日宮 君懇ろに 二十八紋に天照神崩御の砌の遺言が記されている。「真名井に契る 朝日宮 同じ所」〔28-22〕ともみえる。福知山市大江(京都府加佐郡河守上村大字天田内)に豊受大神社がある。別称外宮ともいい元伊勢ともいう。祭神は豊受姫の命である。福知山市大江(京都府加佐郡河守上村内宮)には、皇大神社があり、天照皇大神を祀る。この両社が本書の伝承と関係するか。
祭りして のち帰まさん  
御輦(みてぐるま) 届むる民お 豊受神を失った民が不安のあまり天照神の御輦(みてぐるま)を引き止めるので、不憫に思われた天照神は、しばらく御親ら細矛千足国(山陰)の政事を聞し召されたのでした。
天照神は豊受神が崩御されてから9年間滞在したことになる。
憐れみて 親ら政  
聞こし召す 趣き告げる  
雉子にて 向津姫(むかつひめ)より  
勅(ことのり)し 日高見に祭る  
豊受神 持子の典侍(すけ)と  
早子(はやこ)内侍(うち) 味子姫(あぢこ)と三人  
早行きて 真名井の原の  
宮仕ゑ 勅(ことのり)あれば  
門出して 宮津の宮  
あるときに 君の御狩(みかり)に 天照神は、細矛千足国(山陰)にご巡狩され政事の道をお定めになり、国をお治めになりました。
千足国(ちたるくに) 道お定めて 細矛千足国のこと。山陰地方をさす。「六月の晦の大祓詞」の中に「根国底之国」とあり、地下の世界などとされているが、この「底之国」の「ソコ」は山陰地方を示す「サホコ」の訛音であろうと考えられる。
治むのち 八十杵尊の弟  
神狭日命(かんさひ)お 益人となし  
また弟子(おとこ) 兵主命(つわものぬし)と  
胡久美(こくみ)添ゑ 局(つぼね)留めて 本紋〔6-5〕に「千足国 益人(ますひと)胡久美(こくみ) 怠れば」とあるように、胡久美が政務を怠ったので、益人の官職から「添え」に格下げされた。
帰らんと 去年(こぞ)より仕(つか)ふ  
素戔鳴尊(そさのを)と 天道根命(あまのみちね)と  
門出(かどで)なす ネナト三月(やよひ)の 大濡煮命の代より数えて129万250年(紀元前1,710,408年)。
望(もち)よりぞ 四月(うつき)の望(もち)に  
帰ります