盾津を退却してから五瀬尊が落命するまで【1】ここだけは紹介しておきたい!|大阪府

マピオン地図
大阪府東大阪市日下町( マピオンによる広域地図
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神武天皇、盾津を退却してから男里で五瀬尊が落命するまで・・

 大台ケ原から井光(いひか)を通って宮滝へ

大台ケ原の牛石ヶ原(神武天皇の銅像あり)和田井光神社井光神社の奥宮
川上鹿塩神社大蔵神社岩神神社宮滝

 神武天皇、宇陀制圧の前編

宮滝十二社神社宇陀の高城桜実神社
宇賀神社穿邑顕彰碑三島神社田口の血原橋熊野神社宮城(みやしろ)

 宮滝(宮瀧)から菟田の高城までで神武天皇に関わるかもしれない神社

吉野山口神社高鉾神社剣主神社宮奥ダム

 神武天皇、宇陀制圧の後編

高城岳(たかぎだけ)城山(旧、高倉山)高角神社(現、高倉山)笑ヶ嶽屑神社皇大神社音羽山是室山
伊奈佐山神武の渕御井神社福地岳墨坂伝承地墨坂神社
高龗神社(たかおかみ)吉隠川(よなばりがわ)慈恩寺佐野生根神社

 朝原祈祷の5つの伝承地(南から)

丹生川上神社(中社)魚見岩(うおみいわ)神部神社(かんべ)八坂神社阿紀神社丹生神社

 白庭(生駒市周辺)で長髄彦の反乱軍の鎮圧

鵄邑(とびむら)顕彰碑鵄山(とびやま)伝承地長髄彦本拠地鳥見白庭山
饒速日命墳墓(日の窪山)「御炊屋姫の墓」という碑
哮ノ峯(磐船神社の北)磐船神社
「眞弓塚」という碑がある眞弓塚(かつての白庭山か?)伊弉諾神社(眞弓山の長弓寺にある)

 瓊々杵尊の兄・天之火之明尊が飛鳥治君に(第一次天孫降臨)

石切剱箭神社(いしきりつるぎや)石切神社(上の社)
哮ノ峯(生駒山の北麓)日下山(饒速日山・草加山)生駒山宝山寺

 (※)参考ページ ⇒ 「神武天皇大和討ち」

盾津を出発して、五瀬尊が落命するまで・・

 神武天皇は草香津に引き返し盾を並べて盾津と呼び、雄たけびを挙げて士気を鼓舞した。
 幸い敵が深追いして来なかったので武器、兵糧、兵員の撤収を完了し、四月二十三日に盾津から出発して再び大阪湾に船団を浮かべた。

【地図】生駒山・饒速日山・日下山・草加やま  

 葛城山の南から侵入を試みる・・  

 大和国に西側から侵入することをあきらめ、葛城山の南から侵入するコースを選択した。
 以下に大阪府下の佐野命関連伝承地を北から順に示す。

 梶無神社 大阪府東大阪市六万寺町3丁目

 祭神:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめ)
 神武天皇東征の時、孔舎衛坂戦に利無く紀州に廻幸の途、波高く風強く船梶が折れた所、この地に無事に船を着けることができた、これは祖神のご守護として二神を祀った、この地を梶無と命名された。
 神武天皇上陸地は現在の下六万寺町3丁目付近の梶無の小字名の残る地であるという。

 日部神社 大阪府堺市草部262

 祭神:佐野命、彦坐命、道臣命
 当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地な りと古事記伝に記されている。
 「輪の内」の旧社地(現在地の南方約三百米)の近くに「御山古墳」という道臣命の墳墓 と称する古墳がある。

 大阪府泉北郡忠岡町・大津町の口碑

 五瀬命の矢傷を洗ったところと伝える。

 男乃宇刀神社 大阪府和泉市仏並町1740

 祭神:彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命
 神武が大和めざして進軍中、兄五瀬命が矢傷を負ったとき、地元の豪族「横山彦命」が二人をこの地に迎え仮宮を造ったのが起源とある。

 蟹井神社 大阪府河内長野市天見字常磐21番地

 神武天皇東征の折、紀の川を上り、紀見峠にて賊慮の状況を視察した時、今の神社の北に天見川の石を集め、磐境として神籬を建て、天津神を祀って戦勝祈願をしたのが創始。

 神引分神社 大阪府泉佐野市字東千振引分森

 祭神:佐野命
 神武天皇御東遷の際、皇軍、賊慮の襲うところとなり、奮戦ついに撃退したところ。

 日根神社 大阪府泉佐野市日根野631-1

 祭神:鵜葺草葺不合尊、玉依比売命
 神武天皇が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまり

 男神社 大阪府泉南市男里3丁目16−1

 祭神:彦五瀬命 神日本磐余彦尊命 天児屋根命 熊野速玉命

 由緒

 元府社・男(おの)神社は大阪府泉南市男里、即ち古への呼唹郷(おのさと)の地である延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命、神日本磐余彦尊命を祀り、相殿には、天児屋根命、熊野速玉命を祀る。
 境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹鬱蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。
 その北方一キロ余の処に摂社浜宮がある。
 本社の元宮で境内九千平方メートル松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門(おのみなと)は、即ち此の地である。
 神武天皇御東遷のみぎり、孔舎衛坂で長髄彦と激戦した。此時、皇兄・彦五瀬命が賊の流矢に中って、肱脛に瘡を負はせあれ、『吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故れ賊奴が痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ』と仰せられた。よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し、紀伊に向わせられよとして紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重あせられた命は、剣の柄を堅く握られ『酒哉大丈夫にして披傷於虜手、報いずして死なむや』と雄詰(おたけび)給ふた。
 よって、此の地を雄水門といふ。
 即ち、彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが当社で、社伝によれば、貞観元年三月、今の地に御遷座し奉ったという。
 毎年十月十一日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地に神輿渡御の儀が行われる。明治七年七月畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。

 男神社浜宮

   男神社の元宮である。
 神武の兄五瀬命が生駒日下坂の戦いで矢傷を負い、その傷が悪化この地で”雄たけび”して亡くなったとある。
 この雄たけびが雄水門(男水門)の名の由来となっている。
 大和へ入るには大和川を遡るのが定石である。
 その経路をとらなかったのは、その周辺を反乱軍が占拠していたためと考える。
 大和川以外にも西側から大和に入る経路はいくつもあるが、その入り口がいずれも反対派に占拠されていたため、熊野迂回をすることになったのであろう。
 佐野命一行は饒速日山で長髄彦の弓矢を受けて五瀬命が傷つき、命からがら草香津まで戻ってきた。追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。
 会議を開いて、大和に西側から侵入するのは不可能であることを悟り、南からの進入を考えた。早速船に乗り、草香津を出航した。

 梶無の地に上陸し船を修繕

 出航直後、嵐がやってきて船の梶が折れたので、梶無の地に上陸し船を修繕した。途中(日部神社)で休息をとり、大津町あたりに上陸して五瀬命の傷を洗っていたところ土地の豪族横山彦命が現れた。
 彼は仮宮(男乃宇刀神社)を作ってくれ、佐野命一行はこの地でしばらく休息した。
 横山彦命から周辺の地理を聞くうち、この地から西へ向かえば、葛城山の南端から大和へ入れることがわかり、症状が悪化している五瀬命をこの地に残して、奥地に入っていった。

 蟹井神社の地で、天見川を遡って紀見峠から紀ノ川流域の様子を探る

 現在の河内長野市の蟹井神社の地まで到達して、行程の無事を祈願して紀見峠から大和に入ろうとしたが、南からの進入口にも反対派の軍が配置されていることがわかり、南からの進入も断念して仮宮の地に戻った。

 蟹井神社の伝承に紀ノ川を遡って紀見峠にて賊慮を視察したとある。

 しかし、紀ノ川を遡って紀見峠に来る必要は地理的に見てありえない。
 そのまま遡って御所あたりの様子を見るはずである。
 天皇は天見川を遡って紀見峠から紀ノ川流域の様子を探ったのではないだろうか。
 その結果、ここから大和に入れないということがわかり、和歌山に立ち寄ったとき、紀ノ川を遡らなかった理由が説明できる。

 蟹井神社の伝承は方向が逆であると推定する。

 南からの進入も不可能であることがわかった。

どうすれば大和に入れるか会議を開いたところ、紀伊半島には高倉下(天之火之明尊の養子になり破談後に高倉下と名乗った田倉麿尊)や天道根命がいて彼らの協力が得られそうなこと、また、長髄彦の反乱に抵抗する勢力が大和国内の東側に多いことから、紀伊半島を迂回して東側(伊勢湾)より大和に侵入することに決定した。

 早速、仮宮を出航して南下した。

 現在の泉佐野あたりに上陸したところ、反乱軍に加担する土地の豪族に急襲されたが、何とか撃退することができた。
 しかし、前途多難であるため、近くの日根神社の地で神を祭り無事大和に入れるように祈願した。

 五瀬尊、落命・・

 その後さらに南下したが、男里近くを南下中五瀬命の様態が悪化したので、男神社摂社浜宮の地に上陸して五瀬命を介抱した。
 しかし、その甲斐もなく5月8日、彼はこの地で亡くなった。
 盾津を出発してから半月ほどであった。