5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光>このサイトの歴史観
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 日本の聖地と伝えられている場所を、現在ある状態で正確に伝えるという構成をとっていません。
   『ひふみ神示』がいわんとする層、『竹内文献』関連の著作が伝える層、『秀真伝』が伝える層、各地に残る伝承や各神社の言い伝えの層、これらの層を同時に重ねて推理するとこんな風になるのではないか、という構成にしようと思っています。

  ですから、推理小説を読むように、フィクションとして取り扱ってください。

  このサイトの歴史観

 武仁尊と天種子命に、鵜葺草葺不合尊よりの勅があった。
 その中の一文。
「武仁、天種子よ、しかと聞くがよい。わたしはつくづく考えてみるに、民の御食はその回数と量が増え、性格も生まれつき小賢しく、
寿命も千歳から百歳と減ってしまって、わたしが80万歳生きたことも、民が百歳しか生きないことも、世の民はおなじことであるかのように考えておる。」
   
『完訳 秀真伝』(鳥居 礼 編著、八幡書店刊))下巻 1700ページより

「神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふよりほかに道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。」
  『ひふみ神示』(岡本天明著、発行元コスモテン・パブリケーション、発売元太陽出版)
  下巻216ページ


 上の『秀真伝』と『ひふみ神示』の引用文から、かつては
「神人(かみひと)」という方たちが存在し民を導き暮らされていたこと、そして「神人(かみひと)」の寿命は長かった事が伺われます。けれど、世の中の曇りのため神武天皇が人皇として立たざるをえなくなった時の岩戸しめで「神人(かみひと)」の長寿の源泉も閉ざされ、急激に寿命が短くなったようです。

 しかしながら『古事記』雄略天皇の項に、一言主神に関する記述があることは、神武天皇によって岩戸が閉められてからも「わずかながらもマコトの神道の光」が残っていたことが示されていると思います。
 上の脈絡から『秀真伝』を記述した太田種子が、『秀真伝』を上奏したときに200歳を超えて生きたという『秀真伝』の記述は信じるべき記述だと私は考えていますし、『秀真伝』上奏後、300歳を越えて生存していた可能性も否定できないだろうと考えています。ですから、太田種子の説話は、2世紀のことでもあるし5世紀のことでもありえるというのが真実なのではないかと思います。同じく、武内宿禰が300歳を超えて生きていたという計算(
『日本の神様辞典』川口謙二編著、柏書房刊、154ページ)も誇張した表現でははく真実だとわたしは考えています。
 仏教の渡来とともに
「神人(かみひと)」の寿命は、さらに短くなり現在のような状況になったのでしょう。短くなってしまった人の寿命を前提にして考えるから、200歳や300歳という寿命が信じられなくなるのです。ましてや万年の寿命を信じろというほうが無理があるでしょうが、神人の時代には『秀真伝』がいうように万年単位の寿命が当たり前だったのだろうと思います。
 今の世では、かつての
「神人(かみひと)」の系図を引かれる方たちは、世の隅に落っこちていて、ご苦労されているのかもしれません。

                    

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