5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光 > 聖地 探訪ノート
  附 私の物語の始まり    平成16年7月11日に収録
私の物語の始まり 目次
1995年5月12日
千引の岩戸開き
至恩郷、その1
至恩郷、その2_鶴の物語
至恩郷、その3_吉備津
なぜ「月の光」にしたか
     4.至恩郷〜その2_鶴の物語

 伊勢から至恩郷に向けて車を走らせてながら、天之宇受女命と鶴のご神紋が何とはなしに脳裏から離れません。昨日今日のことを振り返りながら車を運転し、三重県菰野町の至恩郷に到着したのは、平成8年6月11日の3時ごろでした。昨夜の暗闇ではあたりの様子は分からなかったのですが、結構広々した様子です。
 人影が見えないので、奥に見える小さな平屋のほうに声をかけました。奥から出てこられたのは、小柄な老女です。昨夜電話をしたのは私たちであること、伊勢神宮の参拝を済ませ、至恩郷の参拝に伺った旨を伝えると、まだ三貴神像を掲げている月の宮に案内してくれます。

 (注)月の宮というのは、平成6年11月11日、千葉県成田市台方にある麻賀多神社から祭典に使用した廃材を頂戴し、それを材料に平成7年8月6日に落成した第二神殿のことです。
 ちなみに平成10年3月23日午前11時5分、ある方が至恩郷に訪ねて来られ敷地に足を踏み入れようとすると、敷地を掃除していたお手伝いの青年の箒の先から火が走り、日の宮、天明画室、道場が全焼してしまったそうです。しかし、この月の宮だけが消失から免れています。
(この注は平成16年5月私が記す)

 月の宮への参拝を終え、今は消失している道場でお茶をご馳走になりながら岡本天明夫人である三典さんは小さな小箱を取り出して語り始めます、
平成5年8月6日、48回目の広島原爆投下日に爆心地に近い会場(エソール広島)で天明展を開催中、山形県酒田市の菅原さんご夫妻ら5人がご来場くださった。菅原さんご夫妻ら5人が昼食を取るために会場を出られ、平和公園近くの元安川橋のタモトを歩いていると、友人の足元に小さな折鶴が落ちていたそうです、菅原さんの奥さんはそのを拾ってもらい、折鶴を開けてみると、倉敷市玉島という文字の列が飛び込んできたそうです、そういう地名が印刷された新聞の折込広告の紙だったのです。菅原さんたち一行は今見てきた天明の生誕地をの名前を覚えておられましたから、直ちにその意味を解されて、私たちの元に届けてくれたのです」
 そう言い、小さな小箱を開けて、中から取り出されたのは小さな折鶴だったのです。猿田彦神社の摂社天之宇受女神社で丸に鶴のご神紋を見て驚いた私です、まるで天之宇受女が私たちに
「私が天之宇受女でございます」といって名刺を差し出してくれているかのように、その場の風景が、私にはこの世の現場と霊的現場の二重に見えていました。を手渡した菅原さんご一行は山形の酒田市だし、私は山形の酒田市に近い羽黒町で生まれ、鶴岡の鶴岡南高校で高校生活を送りました。酒田からでは月山が見えるかどうか微妙なところですが鳥海山ははっきりと見えるはずです。三典さんのところで山形の庄内地方が交わっています。
 三典夫人には三典夫人のの物語がありますが、私は幼いころから私の鶴に対する物語を持っていました。そういう鶴の物語が至恩郷で交差したのです。
 これ以来、私たちだけの真実では、三典夫人は「天之宇受女命」であるということになりました。
 三典さんのお話を伺い、天明の生まれ故郷の氏神様である吉備津彦神社の資料を頂戴し東京に戻りました。


 翻って、果たして本当に三典さんは天之宇受女命なのだろうか、三典さんが天之宇受女命だとすると天明は猿田彦命ということになるが、猿田彦命が太神の神示を受取る資格がどこにどういうふうにあるのだろうか、という具合に様々な疑問が頭を駆け巡ります。平成8年当時は、このあたりの事情は皆目見当がつきませんでした。8年経った平成16年の今なら、ある程度説明できます。下のメモ書きにあらすじを記載しておきます。





    
私の鶴の物語〜この部分だけ平成18年3月26日に追記

 私が5歳の時、仲間といっしょに「カゴメカゴメ」を歌って遊んでいた。

    かごめかごめ 
    かごのなかのとりは
    いついつでやる
    よあけのばんに
    つるとかめがすべった
    うしろのしょうめんだあれ


 突然、子供の私にひらめくものがあって、みんなに叫んでいた。
「この歌変だよ、鶴と亀は滑りっこないよ。滑りそうになったら鶴は飛びたてるんだから始めからおかしいよ。鶴はお空から亀がどこにいるのか探しているんだよ。そして、鶴は亀を探し出して出会うんだよ。ンッ!絶対そうだ。」
  
 それ以来、ここの部分を

  つるとかめはであぁう   
          
 と私だけ歌うようになっていた。ズ〜ッと、このように「ある時」まで歌い続けていました。


 この日を境にして私にとって「鶴」は「亀」に出会うべき存在になったのです。

 「よあけ」の「よ」は数霊の「4」。しかし、分かる人は少なさそうだ。2013年頃になれば、次の時代を荷負う世代の台頭があり、こういう話を求めてくる人も多くなるだろう。

 それまでは弘法大師空海のように

        後ろの照明たれ

 「鶴」の物語はどこかでこういう風に書いておきたかった。
 これで胸のひっかかりがとれました。



(メモ書き)

 出口王仁三郎 ⇒ 天智彦命(思兼神)=那岐那美両神が心を合わせてお生みになられた素盞鳴神。
 出口直⇒ 稚姫岐美神。
天智彦命(思兼神)と稚姫岐美命は夫婦。

岡本天明 ⇒ 猿田彦命。猿田彦命の通常の根本使命は
           「人々を伊勢に向けさすお役」。
          あるいは、野立彦命(『霊界物語』)である可能性の方
          が高い。
          
岡本三典 ⇒ 天之宇受女命、「ダマシタ岩戸開き」の際、岩戸の前で神楽を踊る。時代が下って、第二次天孫降臨に際して、猿田彦命の妻神になられる。

 三重県鈴鹿市山本町御旅の椿大社(つばきおおかみやしろ)は瓊瓊杵命の母神である栲機千々姫が鎮まる宮である可能性が高いのに伊勢国の一ノ宮と猿田彦命の総社を主張されている。同じく三重県鈴鹿市一ノ宮町の都波岐神社(つばきじんじゃ)・奈加等神社(なかとじんじゃ)も伊勢国の一ノ宮と猿田彦命の総社を主張されているようだ。
 鈴鹿市に猿田彦命を祀る主要神社が二つあるという現象は、鈴鹿市から西北にある三重県菰野町に同じような流れをくむ至恩郷と錦之宮という2つの宮があるという具合に、現代に焼きなおされているようにも見える。



    (至恩郷_2_「鶴の物語」附録)
 三重から東京に戻ってきた日の夜、テレビで徳川家康のドラマをやっており、たまたま女房と見ていたのですが、家康の母・お於の方が画面出でてきたところで私は女房と顔を見合わせました、
「おい、お於の方を見てどう思う、三典さんじゃないのか?」
女房「うん、三典さんだと思う」
 人は生まれ変わり死に変わりしてきていますが、三典夫人はかなりの確度でお於の方として生きてこられたでしょう(こういうことを知ったからといってどうなるわけでもないのですが)。
 お於の方は、信長から「人質の家康を助けてもよいが、何をくれるか?」と問いをかけられ、「信長様に母の心を差し上げます」と幼少の家康を陰で助けたのであるが、この度のお於の方は「信長」に何を差し上げるのだろうか?



【菅原さん御主人の著作】
 『死んでも生きている いのちの証し』(たま出版)
三典夫人に頂戴した本。

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【新聞折込広告〜平成17年7月10日に追記】
 平成8年6月11日に至恩郷の岡本三典さんから新聞折込広告で折られている鶴の写真を頂戴し家に飾ってあります。
 振り返ってみると、私は、翌年の平成9年3月に縁あって新聞折込広告の配送をしている現在勤務している会社に入社しています。さらに、現在勤務している会社が属する配送団体は平成17年5月から「鶴」のマークをトラックの両前扉に貼って、首都圏の各新聞販売店に新聞チラシを届けるようになっています。
 岡本三典さんから頂戴した新聞折込広告でできた鶴の写真といい、私の現在の新聞折込の仕事とその仕事にまつわる鶴といい、新聞折込と鶴は私には切っても切れぬ縁があるようです。


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