5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光 > 聖地 探訪ノート
  附 私の物語の始まり    平成16年7月11日に収録
私の物語の始まり 目次
1995年5月12日
千引の岩戸開き
至恩郷、その1
至恩郷、その2_鶴の物語
至恩郷、その3_吉備津
なぜ「月の光」にしたか
     2.千引の岩戸開き

 山形県の出羽三山を擁する庄内地方平成7年11月26日(旧暦10月4日の日の出から夜半にかけて千引の岩戸開きが行われ、平成7年11月27日(旧暦10月5日)の午後、伊邪那岐尊と伊邪那美尊がようやく出会うことができました。
 千引の岩戸を開けるということは、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の悲願に似た約束事でした。そのことを、『ひふみ神示』は次のように書いています。

「 ここに伊邪那美命息吹き給ひて千引岩を黄泉比良坂に引き塞へて、その石なかにして合ひ向ひ立たしてつつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむ宣り給ひき。ここに妹伊邪那美命汝の国の人草日にちひと死と申し給ひき。伊邪那岐命宣り給はく、吾は千五百生まなむと申し給ひき。」
 『ひふみ神示』(第6巻日月の巻、第40帖)

 山形県の出羽三山を擁する庄内地方で千引の岩戸開きが行われるとき、私たちはちょうど山形県羽黒町の実家に帰っていました。平成7年11月26日早朝ある神(稚姫岐美命のように思えているのだが)から千引の岩戸開きが行われるという知らせを受取ったとき、すかさず私だけ月山の方角に祈り羽黒山に向けて車を走らせました。このとき太神は次のようなお話をしてくれたと記憶しています。
「この岩戸は神のマコトの混じりのない気持ちでないと開けないこと、岩戸といわれるものは無限にあり、どの岩戸が千引の岩戸かどの神も分からない事、神の気持ちに呼応した岩戸が開けれること、ウソイツワリがあればウソイツワリの岩戸が開いてしまうこと、今時廻り来て大岩戸が開けられようとしている、ようく見ておかれよ」
 
 私のホームページのタイトルを「月の光」とする大きな理由の一つは、千引の岩戸開きが行われた庄内の地に月山あるからです。あるいは、千引の岩戸開きは月山があるから庄内の地で行われたのかもしれません。私が生まれ育つなかで常に見てきた月山・羽黒山・湯殿山そして鳥海山、これらの山々を眺め見ることのできる庄内平野が「千引の岩戸開き」の足場となった土地でした。
 千引の岩戸開きに立ち合わさせて頂いた直後に、私が4歳か5歳ごろよく「櫛」の映像を見ていたのを思い出しました。その櫛というは、伊邪那岐命の湯津々間櫛だったのだろうと思います。
上の『ひふみ神示』からの引用文の少し前にある一文
「伊邪那岐命、是見、畏みてとく帰り給へば、妹伊邪那美命はよもつしこめを追はしめき、ここに伊邪那岐命黒髪カツラ取り、また津々間櫛引きかけて、なげ棄て給ひき。」
 私だけの真実では、庄内にある湯殿山の「湯」は「湯津々間櫛」の「湯」です。ご神体の赤茶の岩はお湯が湧き出ているから「湯殿」と名づけられたかのように考えられていますが、私だけの真実では、千引の岩戸閉めの際の湯津々間櫛を「湯殿」と尊称したものと考えられます。私の実家がある羽黒町から湯殿山に車で行くには、櫛引町、朝日村と通っていきます。「櫛引」という地名は「湯津々間櫛引きかけて」の「櫛引」に因縁あっての地名のように思えます。羽黒、櫛引、朝日に「津々間(つつま)」なんていう地名があったら出来すぎだろうと思ってしまいますけれど。

 千引の岩戸は無事開けられました。時代が落ち着いて、私の物語が真実に沿っていそうなものなら、ぜひ羽黒山か月山か湯殿山で記念祭を執り行ってほしいところです。あるいは、羽黒山を開設された第32代崇峻天皇の子、蜂子皇子の因縁に基づいて奈良県の大和の地で記念祭を行うか、どちらかであってほしいと思います。



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 私が、この世での使命を終え、向こうの世界に帰るときここのところはぜひ検分しておきたいところです。人の小さい脳髄に神々の出来事がどのように映ってくるか、私にとっては、私自身が勉強材料なのかもしれません。




           
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