5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光 > 聖地 探訪ノート
  附 私の物語の始まり    平成16年7月11日に収録
私の物語の始まり 目次
1995年5月12日
千引の岩戸開き
至恩郷、その1
至恩郷、その2_鶴の物語
至恩郷、その3_吉備津
なぜ「月の光」にしたか
     3.至恩郷〜その1

 山形県の出羽三山のある庄内で平成7年11月26日に千引の岩戸開きが行われ、11月27日に伊邪那岐尊と伊邪那美尊の悲願だった再会が成し遂げられました。
 翌年の平成8年は主だった神々がそろう大事な年であるように思えます、さらに私たちにとっても子供が生まれるとても大事な年にあたっています。そういう大事な年がやってくることを私は次のように表現しました。

 19(絶対光)96年(くむとし)、平成8年(ひらくとし)来る。

 平成8年6月10日に、私たちにだけ自覚されていた神事(かみごと)があったのですが、それが実に大変でした。
 平成8年6月9日、夜10時に東京出発、翌6月10日奈良県吉野の天川神社に参拝、そこから和歌山県の高野山に入り、三重県菰野町の至恩郷に向かうという行程をくみました。ところが、これが難行程だったのです、天川神社から高野山へつながる山間の道路の狭い幅員と険しさで時間だけが過ぎています。和歌山県の高野山を出発するのが6月10日の午後3時になっていましたから、6月10日の日のあるうちに三重県菰野町の至恩郷に辿り着けません。事情を説明すれば参拝できるかもしれないと思ったので、夜8時ごろ、本日中に参拝したい、夜11時ごろ伺えるけれどどうだろうという問合せの電話をしてみました。電話口からは、日も暮れているので翌日にしたほうが良いのではないか、と当日中の参拝の断りの声が聞こえてきます。私たちだけに自覚された神事(かみごと)の成就という希望を明日につなぐため、夜11時過ぎに至恩郷の前に立ち、明日改めて訪ねてくる来るという心を置いてその場を立ち去ったのでした。
 翌日の早朝、三重県津市生まれである女房の両親の墓参りを済ませてから伊勢神宮に向かいました。途中、女房の実家に近い国魂神社に急きょ立ち寄り祝詞を奏上していきました。
 伊勢神宮では、子供を授かった感謝と昨年来のことを報告しました。
 伊勢を出発し菰野町の至恩郷へ行く前に伊勢神宮の五十鈴川向かいにある、猿田彦神社にも立ち寄り参拝を済ませました。そして、摂社の天之宇受女神社の前に来たとき、私は思わずしゃがみこんで賽銭受けに掲げてある御神紋をじっと見入ってしまいました。というのも、猿田彦神社の摂社天之宇受女神社は丸に鶴の御神紋を掲げていたからです。昨年来、鶴とか白鳥(しらとり)、あるいは観音の黄金輪は影となり日となり私たちを導いてきてくれていました。しかも私だけの真実では、鶴や観音は天御中主神に由縁を持ちます。いったい、どういう縁で天之宇受女が鶴の御神紋を掲げることが出来るのか?本当に疑問でしたし、驚きでした。
 当時から8年経った平成16年の今ならなんとなく理解できる事柄なんですが、当時は本当に幼かったと思います。天之宇受女が鶴に縁ある神や事柄を尊敬したり慕ったりするのなら、鶴のご神紋を掲げたくなるのも道理であるというふうには考えだにしませんでした。


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