平成21(2009)年5月3-4日(日・月)、福井県福井市で周った神社
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足羽山の第26代 継体天皇の立像
継体天皇と山頂古墳
継体天皇石像は、明治17(1884)年、内山基四郎を中心とした石工たちが、多くの伝説に語られる天皇の業績を顕彰するために立てた像である。笏谷石(しゃくだにいし)製で高さは4mを越える立派な石像で、足羽山公園三段広場のシンボルとして広く市民から親しまれてきた。
昭和23(1948)年6月28日の福井大震災で倒壊したが、昭和27年に再建された。
継体天皇は6世紀前半に在位し、名は男大迹(おおど)という。『日本書紀』によると応神天皇5世の孫として天皇に擁立された。父は、近江(滋賀県)の豪族・彦主人王(ひこうしおう)、母は越前(福井県)の豪族の娘・振姫(ふりひめ)とされ、父の死後は越前で育ったといわれる。
福井には、継体天皇による九頭竜川の治水、笏谷石(しゃくだにいし)の採掘等の伝説が数多く残されている。
この石像の立つ三段広場と呼ばれる小丘は、実は直径60m、高さ10mを測る4世紀に造られた古墳である。公園を造るときにその形を大きく削られてしまい、本来の古墳としての形を留めていないが、円墳としては県内最大級で山頂古墳と呼ばれる。
山頂古墳は、図形の刻まれた石棺、三角縁神獣鏡が2面出土していること、また、近年の発掘調査で、埴輪が置かれていたことが明かになり、その重要性は高く評価されている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。
日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、天皇家(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。
日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、天皇家(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
山頂古墳
継体大王即位1500周年記念植樹
足羽山の地形図
「第26代 継体天皇の立像」の周辺図
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