『君が代』はどのようにして国歌になっていったか|「月の光」

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「君が代」の歌は、どのくらい前からあるものなのか?

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の、巌となりて苔のむすまで
 下の(1)から(3)の3つの歌は、「君が代は」で始まっている歌である。

(1)神功皇后の三韓征伐の時代〜 西暦200年ごろ。

 福岡県・志賀島にある志賀海神社の「山誉め祭、神楽歌」。

(2)先代旧事本紀(大成経)巻六十二 詠歌本紀  下巻第五祝歌属文。

 欽明天皇(539年12月5日? - 571年4月15日?)

(3)薩摩琵琶の「蓬莱山」の一節 〜 明治の大山巌。

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 現在の「君が代」の出典とされる『古今和歌集』には、「我が君は」から始まる歌で所収されている。

 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

 上の歌は、文徳天皇(850年5月8日〜858年12月15日)の第一皇子惟喬親王に仕えていた「木地師」の読んだ歌とされる。
 木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。

 そのため各地の情報に接しやすい。

 瓊々杵尊の天孫降臨のとき、瓊々杵尊は技術者集団を引き連れて九州地方に降臨されている。

 この木地師の技術の始まりも意外と九州地方だったのではないか?

 905年に奏上された『古今和歌集』に収録された「我が君は」で始まる歌は、九州地方の伝承されている「君が代は」を「我が君は」と読み替えたものなのではないか、という感想を持つ。
 時の朝廷でも「君が代は」は知られており、そのままの歌としては収録にくい事情があって、「我が君は」と歌い替えられてようやく収録しようということになったのではあるまいか。
 ここで確認しておくべきことは、「君が代は」の歌は、厳密には「古今和歌集」には収録されていないという事実が大事だ。
「君が代は」の歌は、「古今和歌集」より700年早い神功皇后の時代に存在していた可能性があって、累々と歌い継がれていた可能性がある。
 そのため、薩摩琵琶の「蓬莱山」の一節でも歌われてきたのではないか。

 おそらく、時代を特定することが難しい歌なのではないか。

 特に、福岡県・志賀島にある志賀海神社に由来するとなると、どれだけ時代を遡らなければならないか検討が付かない。
 志賀海神社の御祭神は「表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神」でイザナギ命が黄泉国からお戻りになられて、禊されたときに生まれた神々だ。
 そういうことを鑑みると、「イザナギ・イザナミ」の時代から九州地方で歌い継がれていた可能性もあるのではないか、と思う。

国歌が必要になっていった経緯〜開国した幕末の外交儀礼上の必要性

 上の感想が私のもので、以下の記述は、Wikipedia「君が代」をベースにして情報をまとめたものです。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3

国歌が必要になっていった経緯〜開国した幕末の外交儀礼上の必要性

 日本が開国した幕末の時点において、外交儀礼上の必要性から国歌が求められた。

国歌君が代の由来  国歌 (national anthem) という考え方は、近代西洋において生まれた。
 日本が開国した幕末の時点において、国歌は外交儀礼上欠かせないものとなっていた。
 そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。
「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」
 つまり国歌の必要性は、まず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊(多くは管楽器群と打楽器群から成る吹奏楽の編成が採られる)が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。
 しかし、そもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。
 国歌と訳したものの、それまで「国歌」は「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。
 こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。

和歌としての「君が代」の作者

 作者は、文徳天皇(850年5月8日〜858年12月15日)の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。
 歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(905年に奏上、古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。
 この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては、初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている。
 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。
 また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。

万葉集や古今和歌集における「君」の意味は?

 万葉集(759年以降に成立)などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。
 転じて「わが君の御代」となる。
 国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのかどうかということがしばしば問題にされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば
「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」
 ということである。
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだ。
 最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ、歌が作られた事情もわからない。
 その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。
 したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる。
 これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。
 さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
 ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。
『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。
 堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。
 勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。
 こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。

おめでたい歌としての君が代

 元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。
 仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。
 一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。
 江戸時代には、性を含意した
「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」
(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)
 に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる)、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた。

君が代に関する諸説〜九州王朝時代を起源とする説(古田武彦)

 九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している。
「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が発見された福岡県・志賀島にある志賀海神社において、神功皇后の三韓出兵(200年)の際、志賀海神社の社伝によると、その食前において山誉の神事を奉仕したことにより、神功皇后よりこの神事を
「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」
 と庇護され今に伝承されている4月と11月の祭礼(山誉め祭)にて以下のような神楽歌として古くから伝わっている。
(後述する『太平記』にも、この舞が神功皇后の三韓出兵以前より伝わる神事(舞い)と推察される記述が存在する。)
 なお、この山誉め祭は、民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の有形民俗文化財[30]に指定されている。

 君が代(だい)は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで

 あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸(みがい)に命(いのち) 千歳(せんざい)という
 花こそ 咲いたる 沖の御津(おんづ)の汐早にはえたらむ釣尾(つるお)にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
 いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな

 — 山誉め祭、神楽歌

 糸島・博多湾一帯には、
(1)千代の松原の「千代」、
(2)伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、
(3)細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、
(4)また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ、
 極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っている。
 細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、
 桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。

先代旧事本紀(大成経)巻六十二 詠歌本紀  下巻第五祝歌属文

 先代旧事本紀(大成経)巻六十二 詠歌本紀  下巻第五祝歌属文
 引用元:http://matocayamato.blog62.fc2.com/?mode=m&no=6

 金刺宮御宇 天皇治世而大政  きんめいてんのうのみよ
 てんのうのまつりごとはおおいにおさまりて
 欽明天皇(539年12月5日? - 571年4月15日?)
 不下先皇 兆民悦之 祝世而謡之  さきつみかどにおとらず
 おおみたからこれをよろこび
 よをいわいてこれをうたう
 君之代者 千代于八千代于
 微小砂石之 盤巌興成而
 苔之結迄
 きみがよは ちよにやちよに
 さざれいしの いわおとなりて
 こけのむすまで
 時人  ときのひと

大山巌の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された君が代

 1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された。
 当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。
 翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた。
 なお、改訂版「君が代」の第2主題は、ヨーゼフ・シュトラウスが1862年に作曲した『日本行進曲』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。
 同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された。
 その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示。
 林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている。
 また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。
 以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
 1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した。
 ただし、コンクールの詳細は不明。

 薩摩琵琶歌「蓬莱山」

めでたやな 
君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に
不老門を立出で 四方の景色を詠むれば
峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ

 君が代は千代に八千代に

    さざれ石の、巌となりて苔のむすまで

   ・・・
      (中略)
・・・かほと治まる御代なれば 
千草萬木花咲実のり 五穀は國にみちみちて 
上には金殿桜閣甍をならべ
下には民の竈賑ひて賑ひて
仁義正しき御代の春
蓬莱山とは是とかや
君が代の千とせの松も常盤色
かはらぬ御代のためしには、
天長地久と、国も豊に治まりて
弓は袋に 剣は箱に蔵め置く
・・・ 略 ・・・