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神武天皇、五瀬尊の崩御ののち名草鎮圧
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五瀬命の御尊骸は水門吹上神社(みなとふきあげ)で上陸し・・
神武天皇の東征時、兄・五瀬尊が崩御された場所と伝えられている「男水門」である。
「神武天皇聖蹟 男水門顕彰碑」が立っている。
天鈴55年、紀元前663年、神武天皇、饒速日山からの退却
神武天皇一行は饒速日山で長髄彦命の弓矢を受けて五瀬尊が傷つき、命からがら草香津まで戻ってきた。
追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。
会議を開いて、大和に西側から侵攻するのは不可能であることを悟り、南からの侵攻を考えた。
追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。
会議を開いて、大和に西側から侵攻するのは不可能であることを悟り、南からの侵攻を考えた。
五瀬(ゐつせ)御子(みこ) | 肱(ひぢ)お射(い)られて | |
進(すす)み得(ゑ)ず | 天皇(すめらぎ)触(ふ)れる | |
議(はか)り事(ごと) | 「われは日(ひ)の孫(まご) | |
日(ひ)に向(むか)ふ | 天(あめ)に逆(さか)えば | |
退(しりぞ)きて | 神(かみ)お祭(まつ)りて | |
日(ひ)のままに | 襲(おそ)はば仇(あだ)も | |
破れん」と | みな「しかり」とて | |
八尾(やお)え退(ひ)く | 仇(あだ)もせまらず | 大阪府八尾市 |
天鈴55年、紀元前663年、神武天皇、和歌山へ進軍・・
早速船に乗り、草香津を出航した。
出航直後、嵐がやってきて船の梶が折れたので、梶無の地に上陸し船を修繕した。途中(日部神社)で休息をとり、大津町あたりに上陸して五瀬命の傷を洗っていたところ土地の豪族横山彦命が現れた。彼は仮宮(男乃宇刀神社)を作ってくれ、佐野命一行はこの地でしばらく休息した。
横山彦命から周辺の地理を聞くうち、この地から西へ向かえば、葛城山の南端から大和へ入れることがわかり、症状が悪化している五瀬命をこの地に残して、奥地に入っていった。
現在の河内長野市の蟹井神社の地まで到達して、行程の無事を祈願して紀見峠から大和に入ろうとしたが、南からの進入口にも反乱軍が配置されていることがわかり、南からの進入も断念して仮宮の地に戻った。
南からの進入も不可能である。
どうすれば大和に入れるか会議を開いたところ、紀伊半島には天道根命や高倉下がいて、彼らの協力が得られそうであり、また、長髄彦命の反乱軍鎮圧に呼応できそうな動きが大和国内の東側に多いことから、紀伊半島を迂回して東側(伊勢湾)より大和に侵入することに決定した。神武天皇一行は仮宮を出航して南下した。
現在の泉佐野あたりに上陸したところ、長髄彦反乱軍に呼応した土地の豪族に急襲されたが、何とか撃退することができた。前途多難である。
そのため、近くの日根神社の地で神を祭り無事大和に入れるように祈願した。
さらに南下したが、男里近くで五瀬命の様態が悪化したため、男神社摂社浜宮の地に上陸して五瀬命を介抱した。
しかし、5月8日、五瀬尊はこの地で亡くなった。
盾津を出発してから半月ほどで経った時である。
高倉下とは饒速日尊の子という説もあるが・・
「饒速日尊」と瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊は混同されて語られることが多い。両者が混同されているという理解に立てば、高倉下とは奇玉火之明尊の養子に入った田倉麿命(たぐらまろ)と考えられるのではないか?
田倉麿命(たぐらまろ)は、養子に入ってすぐ、初瀬姫の気に入られず破談になっている。
瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊が崩御されて後、田栗命(田倉麿の父)が初瀬姫と田倉麿命(たぐらまろ)の調停に入ったが失敗。
その結果、火明尊(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が饒速日尊と改名し、瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊の養子になった。
こうした経緯が、「高倉下は饒速日尊の子」という伝承の下地になったのではないか?
田倉麿命(たぐらまろ)は、瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊との養子が破談になったのち、高倉下を名乗ったのではないか?
高倉下とは、立場が違っていれば饒速日尊の位置にいた人であったのかもしれない。
天鈴55年、紀元前663年、五瀬尊の崩御と埋葬
神武天皇一行は、天道根命のいる和歌山で五瀬尊を埋葬するために、男里で亡くなった五瀬命の遺骸を船に乗せて、紀淡海峡を越えて南下し、紀ノ川河口の水門吹上神社の地に5月10日ごろ上陸した。
天道根命は長髄彦命の反乱軍に呼応する一部の名草一族の動きを警戒しながら、奥地の竈山神社の地に五瀬尊を埋葬した。
まもなく、長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは中言神社(和歌山市吉原)の地に戦いを仕掛けてきた。
浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。
汐見峠を越えて、中言神社(和歌山市吉原)を攻めている反乱軍の背後に回ろうとしたところでそれを察知した反乱軍が神武天皇一行を迎え撃つ形になった。
連合軍は退却した反乱軍を追って、東へと追撃し、宇賀部神社(海南市小野田)、杉尾神社(海南市阪井)、千種神社(海南市重根)の地に追い詰めて鎮圧した。
本拠地の地に、反対派の3首領を祀り変えたのだろう。
日本にはこういう祀り方が多い。
天道根命は長髄彦命の反乱軍に呼応する一部の名草一族の動きを警戒しながら、奥地の竈山神社の地に五瀬尊を埋葬した。
長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは、高倉山(杉尾神社の御神体山)を拠点として同調者を集めた。
杉尾神社に行く途中に撮影した高倉山(高倉山の南側)
長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちの動きを察知した天道根命は、佐野命一行を矢宮神社 の地に避難させた。まもなく、長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは中言神社(和歌山市吉原)の地に戦いを仕掛けてきた。
名草彦が応戦する中、佐野命一行は矢宮神社 の地に陣を構えて様子を見た。
戦いは長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちの優勢の中で行われており、佐野命一行は天道根命の要請に応じて戦闘に協力することになった。神武天皇軍が反乱軍の背後に回り込み、挟撃する作戦をたてた。
神武天皇一行は、天道根命の案内で矢宮神社 の近くの和歌の浦を出航し海岸沿いに南下し毛見浜に上陸。浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。
汐見峠を越えて、中言神社(和歌山市吉原)を攻めている反乱軍の背後に回ろうとしたところでそれを察知した反乱軍が神武天皇一行を迎え撃つ形になった。
神武天皇軍と反乱軍はクモ池周辺で激突した。
クモ池の西岸にある海南市民温水プールの駐車場から撮影。
反乱軍の背後から名草彦の軍が攻め、挟み撃ちの形になった反乱軍は形勢不利となり高倉山に退却した。連合軍は退却した反乱軍を追って、東へと追撃し、宇賀部神社(海南市小野田)、杉尾神社(海南市阪井)、千種神社(海南市重根)の地に追い詰めて鎮圧した。
本拠地の地に、反対派の3首領を祀り変えたのだろう。
日本にはこういう祀り方が多い。
この戦いは戊午6月23日と思われる。
天道根命の名草一族にも長髄彦反乱軍に呼応する動きが・・
神武天皇が和歌山市にやってくる頃は、天道根命がこの周辺を統治していたと思われる。これが名草一族である。神武天皇が長髄彦命の反乱軍を鎮圧するという話は紀伊国にも伝わってきており、神武天皇の呼びかけに応じるもの、反乱軍に呼応するものが入り乱れていた。
それは名草一族でも同じであった。
名草一族が神武天皇一行と戦闘をしているという伝承と、後の紀伊氏の系図に名草の名が残り大和朝廷の協力者になっているという事実から、名草一族のなかでも神武天皇の呼びかけに応じるもの、反乱軍に呼応するものが入り乱れていたことが理解できる。浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。
名草一族の本拠地と考えられる場所は名草山の北東に位置する中言神社の地である。この地は五瀬命の御陵の目と鼻の先である。このことは、五瀬命の葬儀を見守っていたか協力していたことを意味し、神武天皇一行と対立していたとは考えにくい。伝承をつなぐと、佐野命軍は矢宮神社の陣地を出発し和歌の浦を出航、琴の浦に上陸し船尾から汐見峠を越え、クモ池周辺に攻め込んでいる。
この経路から判断すると、長髄彦命の反乱軍に呼応するものの本拠地は高倉山周辺だったのだろう。
水門吹上神社(みなとふきあげ)の本殿
ご祭神
御子蛭児神大己貴神
水門吹上神社(みなとふきあげ)の拝殿
水門吹上神社(みなとふきあげ)の拝殿の上部の扁額
水門吹上神社(みなとふきあげ)の拝殿の中
『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述による神武天皇のご兄弟
『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述による神武天皇のご兄弟
『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P137-29 )二神は | 常に糾(ただ)すの | 二神とは、春日神と子守神のこと |
殿(との)に居て | あまねく治む | 「糾すの殿」とは、京都市左京区賀茂御祖神神社の鎮座地「糾す森」と関連があるか? |
民(たみ)豊(ゆた)か | 折鈴(さくすず)なれば | |
植(う)ゑ継(つ)ぎて | 七鈴(なすず)およべど | |
なお豊か | 四十九(よそこ)の鈴(すず)の | |
九百十一枝(こもそひゑ) | 初穂キアヱの | 2,934,001年、1月3日。 |
初三日(はつみか)に | 天児屋根命(こやね)申(もふ)さく | |
「君は今 | 御祖(みおや)の道に | |
治(をさ)むゆえ | 人草(ひとくさ)の親(おや) | |
天地(あめつち)の | 神(かみ)も降(くだ)れば | |
御親神(みをやかみ) | 世々の御祖(みをや)の | |
嗣子(つぎこ)無し | 十二(そふ)の后(きさき)も | |
如何なるや」 | 時(とき)に天君(あまきみ) | |
「われ思う | 十三鈴(そみすず)老いて | |
種あらじ」 | 子守神(こもり)申さく | |
「世嗣文(よつぎふみ) | あり」とて天の | |
押雲命(おしくも)に | 勅(のり)して世嗣(よつぎ) | |
社(やしろ)なす | 時に押雲命(おしくも) | |
「な当(あ)てなし」 | 天児屋根命(こやね)太占(ふとまに) | |
占(うら)なえば | 「八瀬姫(やせひめ)良けん | 比叡山の西側に高野川が流れ、この流域に「八瀬」という地名があるが「八瀬姫」にちなむものか? |
ヤヒの意(ゐ)は | 中(なか)の屋(や)となる | |
シのハラは | 母と孕(はら)める | |
屋(や)の局(つぼね) | 内女(うちめ)は中(なか)の | |
位(くらい)なり」 | 年(とし)も若葉(わかば)の | |
八瀬姫(やせひめ)お | 十一(そひ)の后(きさき)も | |
みな祝(いは)ふ | 押雲命(おしくも)清め | |
世嗣社(よつぎや)に | 祈(いの)れば印(しるし) | |
孕(はら)み得(ゑ)て | 十五月(そゐつき)に生(う)む | |
五瀬君(いつせきみ) | 八瀬姫(やせひめ)宮(みや)に | |
入(い)るゝ間(ま)に | つい神(かみ)となる | |
御乳(おち)なくて | 触(ふ)れ尋(たづ)ぬれば | 八瀬姫が神上がり、五瀬尊の御乳を捜し求める触れがでていた。 |
これの先(さき) | 鴨建祗命(かもたけづみ)と | |
磯依姫(いそより)と | 十三鈴(そみすず)までも | |
子無(こな)きゆえ | 別雷神(わけつちかみ)に | 別雷神とは瓊々杵尊のこと。 |
祈(いの)る夜(よ)の | 夢(ゆめ)に賜(たま)わる | |
玉(たま)の名(な)も | 玉依姫(たまよりひめ)お | |
生みてにち | 養(ひた)して齢(よはひ) | |
十四鈴(そよすず)に | 両親(たらちね)ともに | |
神(かみ)となる | 河合(かあい)の神(かみ)ぞ | 河合神社 |
玉依姫(たまより)は | 喪祭(もまつ)りなして | |
たヾ一人(ひとり) | 別雷神(わけつちかみ)に | |
また詣(もふ)で | 斎(ゆゝ)捧(さゝ)ぐれば | |
ウツロイが | 疑(うたが)ひ問(と)わく | |
「姫(ひめ)一人(ひとり) | 別雷神に | 「別雷宮(わけつちみや)」で仕えたのだろうか?賀茂別雷神社のことと考えられるが、その創建に関する記述は『秀真伝』には見られない。 |
仕(つか)ふかや」 | 答え「しからず」 | |
また問(と)わく | 「世(よ)にちなむかや」 | |
姫(ひめ)答(こた)え | 「何者(なにもの)なれば | |
落(おと)さんや | われは神(かみ)の子 | |
汝(なんじ)は」と | いえばウツロヰ | |
飛(と)び上(あ)がり | 鳴(な)る神(かみ)してぞ | |
去(さ)りにける | ある日(ひ)また出(い)で | |
禊(みそぎ)なす | 白羽(しらは)の矢(や)来(き)て | |
軒(のき)に刺(さ)す | 主(あるじ)の汚血(おけ)の | |
止(とヾ)まりて | 思(おも)はず男(を)の子(こ) | |
生(う)み育(そだ)つ | 三歳(みつ)なるときに | |
矢(や)お指(さ)して | 父(ちち)というとき | |
矢(や)は上(のぼ)る | 別雷(わけいかつち)の | |
神なりと | 世に鳴り渡る | |
姫(ひめ)御子(みこ)お | 諸神(もろかみ)請(こ)えど | |
諾(うなづ)かず | 高野の森に | 比叡山の西側に高野川が流れる。この高野川の流域に「八瀬」という地名があるが「八瀬姫」にちなむものか? |
隠(かく)れ住(す)む | 別雷神(わけいかつち)の | |
祠(ほこら)なし | 常(つね)に御影(みかげ)お | |
祭(まつ)るなり | 御触れによりて | 八瀬姫が神上がり、五瀬尊の御乳を捜し求める触れがでていた。 |
申(もふ)さくは | 「一枝山(ひゑ)の麓(ふもと)に | |
姫ありて | 乳(ちち)良(よ)きゆえに | |
民(たみ)の子(こ)の | 痩(や)するに乳(ちち)お | |
賜(たま)われば | たちまち肥(こ)ゆる | |
これ昔(むかし) | 神の子なれど | |
隠(かく)れ住(す)む | 森(もり)に五色(ゐいろ)の | |
雲(くも)起(お)こる | 出雲路森(いづこぢもり)と | 賀茂御祖神社境内にある式内出雲井於神社と関係すると思われる。 |
名付(なづ)くなり」 | 諸神(もろかみ)請(こ)えど | |
参(まい)らねば | 「清雄鹿(さおしか)なされ | |
しかるべし」 | 時に岩倉命(いわくら) | |
伺(うかが)いて | 遣(つか)いお遣(や)れど | |
来(きた)らねば | 自(みずか)ら行(ゆ)きて | |
招(まね)けども | 諾(うなづ)かぬ由(よし) | |
返事(かえこと)す | 若山咋命(わかやまくい)が | |
申(もふ)さくは | 「雄鹿人(おしかど)ならで | |
来(こ)ぬゆえは | 別雷神お | |
常(つね)祭(まつ)る | 召(め)せば祭(まつ)りの | |
隠(かく)るゆえなり」 | ||
勅(みことのり) | 山咋命(やまくい)おして | |
召(め)すときに | 母子(ははこ)上(のぼ)れば | |
見給(みたま)ひて | 氏名(うじな)お問(と)えば | |
姫(ひめ)答(こた)え | 「親(をや)の建祗(たけづみ) | |
磯依(いそより)が | 名付(なづ)く玉依(たまより) | |
波提(はで)が孫(まご) | 子(こ)は父(ちち)もなく | |
神(かみ)なりぞ | 父(ちち)が無(な)ければ | |
諱(いみな)せず | 出雲(いずも)の御子(みこ)と | |
人(ひと)が呼(よ)ぶ」 | 言葉(ことば)も精(くわ)し | |
透(す)き通(とほ)る | 玉(たま)の姿(すがた)の | |
輝(かがや)けば | 勅(みことのり)して | |
内局(うちつぼね) | 五瀬尊(ゐつせ)養(ひた)せば | 玉依姫は、八瀬姫の子である五瀬尊を養育された。五瀬尊は長髄彦の矢にあたり神上がられ、竃山神社(かまやま)に祀られている。 |
御子(みこ)の名(な)も | 御毛入(みけいり)御子(みこ)ぞ | 父もなく生まれた玉依姫の子の名を「御毛入(みけいり)」という。神武天皇「大和討ち」の時、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)し、阿古師神社(あこし)に祀られている。 |
生む御子(みこ)は | 稲飯君(いないいきみ)ぞ | 鵜葺草葺不合尊の内局の時に生んだ御子で「稲飯(いないい)」という。神武天皇「大和討ち」の時、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)し、室古神社(むろこ)に祀られている。 |
御后(みきさき)と | なりて生(う)む御子(みこ) | 鵜葺草葺不合尊の内宮の時に生んだ御子は・・ |
神日本(かんやまと) | 磐余彦(いはわれひこ)の | 「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」という。 |
尊(みこと)なり | 時に天種子命(たねこ) | 天児屋根命の孫 |
武仁尊(たけひと)と | 諱(いみな)鏤(ちりば)め | |
奉(たてまつ)る | 天君(あまきみ)御子(みこ)に | |
勅(みことのり) | 「ツヅ」の御歌(みうた)に | |
これ璽(をしで) | 豊経(とよへ)る幡(はた)の | |
ツヅ根(ね)にぞなせ |
神武天皇の兄弟が祀られている神社(御陵)
古事記 | 日本書紀 | 祀られている神社(御陵) | |
1 | 五瀬(いつせ) |
彦五瀬 (ひこいつせ) |
●五瀬命が崩御した地と伝えられる 男神社(おの) 大阪府泉南市男里3丁目16-1 ●ここから上陸か? 水門吹上神社(みなとふきあげ) 和歌山県和歌山市小野町2-1 ●この地に埋葬する 竃山神社(かまやま) 和歌山県和歌山市和田438 |
2 | 稲氷(いなひ) | 稲飯(いなひ) |
室古神社(むろこ) 三重県熊野市二木島町 |
3 | 御毛沼(みけぬ) |
三毛入野 (みけいりの) |
阿古師神社(あこし)
三重県熊野市甫母町 |
4 |
若御毛沼 豊御毛沼 倭伊波礼毗古 (かむやまといわれひこ) |
神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) |
神武天皇陵〜畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのみささぎ)という 奈良県橿原市 |
水門吹上神社周辺地図
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