記録に残しておきたいメモ書き
祭神の豊城入彦命(豊城命)が意味しているものは日高見国なのかもしれない・・
祭神の豊城入彦命はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると・・
『日本書紀』によると、崇神天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた(夢占)。 豊城命は「御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、 活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。 その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された(崇神天皇48年正月戊子(10日)条)。 ○陵墓・霊廟については不明であるが、 群馬県前橋市の総社二子山古墳は、明治3年(1870年)まで、陵墓参考地として墓丁が置かれていたという。また、同市の大室古墳群とする説もある。 茨城県石岡市には同市の丸山古墳がそうであるとの伝承が残っている。 |
上記引用にある豊城入彦命(豊城命)に東国統治を託すという崇神天皇の夢占いの意味合いに
日高見国の役割の一つであった司法・警察権を実行するという意味合いがあった可能性を読み込むことができるのなら、「豊城入彦命(豊城命)」に日高見国を象徴させている可能性も否定し難い。天(火の国)の動きは地(水の国)の動きに顕れ、水の国の荒を治めるのが日高見国の役割の一つだった。
天照神が誕生するとき、豊受大神は奈良県の葛城山の高天原で天照神の誕生を祈られたが、豊受大神より前の時代に「奈良県の葛城山の高天原」と同じような性質の場所が大荒比古神社周辺にもあったのかもしれない。日高見国が失われるとき、大荒比古神社周辺にあった日高見国の機能も失われてしまったのかもしれない。
豊城入彦命(豊城命)に、失われた日高見国の役割を託されていたと解することができるのなら、
その子孫が、かつて日高見国の機能があった大荒比古神社周辺を探し当て、豊城入彦命(豊城命)を祀っていったのかもしれない。豊城入彦命(豊城命)は、「滋賀県高島市マキノ町浦627」の大荒比古神社・鞆結神社(おおあらひこじんじゃ・ともゆいじんじゃ)にも祀られている。
後年、近江源氏佐々木の一族が少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王の四座を合祀しているが「記憶の想起」という観点からみれば、少波神との関連があるのかもしれないが、現地に何らかの伝承があってしかるべきだと思う。
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