令和元(2019)年5月16日-5月20日(木-土)に対馬で御神事をする神社
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令和元年(2019)年5月16日(木)
仁位の和多都美神社
ご祭神
彦火々出見尊豊玉姫命
神社掲載の由緒
【由緒】
当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」 であった。
平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中 に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。
貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙 せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つ に数えられた。
縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々 出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。
ある時、彦火々出見尊は失った釣り 針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。
この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。
また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。
このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩 主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。
現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。
当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」 であった。
平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中 に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。
貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙 せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つ に数えられた。
縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々 出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。
ある時、彦火々出見尊は失った釣り 針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。
この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。
また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。
このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩 主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。
現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。
『秀真伝(ほつまつたゑ)』にみる豊玉姫尊の系図
海神である豊玉彦尊というのは、『秀真伝(ほつまつたゑ)』の波提祇(はでつみ)命だろうか?
濱殿神社が、豊玉彦尊の御陵に当たっている。
濱殿神社が、豊玉彦尊の御陵に当たっている。
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弥勒堂 - 廃絶
弥勒堂 - 廃絶。神宮寺であったと思われる。
【地図】仁位の和多都美神社
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