豆酘の雷(いかつち)神社【1】トップページ|長崎県対馬

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長崎県対馬市厳原町豆酘西井坂2852(詳細地図はこちら
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 令和元(2019)年5月16日-5月20日(木-土)に対馬で御神事をする神社

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参拝記録

 令和元年(2019)年5月16日(木)

豆酘の雷(いかつち)神社

豆酘の雷(いかつち)神社

 亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。
 対馬豆酘の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、「亀卜伝義抄」を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年(としごいの)祭(まつり)に奉仕している。
 対馬の卜(うら)部(べ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが、亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。
 そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため国から選択された。

豆酘の雷(いかつち)神社

豆酘の雷(いかつち)神社

ご祭神

雷大臣。
別名中臣(なかとみの) 烏賊津(いかつ)使主(のおみ)。
中臣 烏賊津(なかとみ の いかつ)は『日本書紀』等に伝わる古代日本の豪族。
中臣鎌足など中臣氏の祖先と言われています。
 『古事記』に記載はない。

祭神の雷(いかつち)大臣(おおおみ)命(のみこと)

 中臣烏賊津使主(なかとみの いかつ のおみ)
 意美佐夜麻命の子。
 天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。
 神功皇后の審神者。中臣氏の祖。
 仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は
(1)烏賊津使主、
(2)大三輪大友主君、
(3)物部膽咋連、
(4)大伴武以連
 の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。
 烏賊津使主は、後に皇后の勅を受けて百済に使いし、百済の女を娶り一男を生んだ。
 允恭天皇の時、烏賊津使主は天皇の命令を受けて衣通姫を迎える使者になり、 熱心に頼んで姫を天皇の后とするのに成功した。
 神功皇后新羅を征した時、軍に従ひ勲功ありて、 凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。

対馬の亀卜

 亀卜とは、亀の甲羅を焼いて物事の吉凶やその年の吉凶などを占うことを言います。
 私たちが日常使う漢字は、古代中国の黄河文明に生れた甲骨文字がその源流と言われますが、この甲骨文字も本来は卜占に使った鹿の肩甲骨などの獣骨や亀甲を火にくべて、生じたひび割れで物事の吉凶を占ったところから考え出されたものだとされます。対馬に伝わる亀卜は、遠くこの中国の卜占に起源を持つものだと考えられます。
 対馬では、縄文時代の遺跡である志多留貝塚からこの亀の甲が出土しています。
 対馬には、このような亀卜を行なう家は代々その秘伝が伝えられてきており、現在わかっているのは、上県郡の方から、
(1)寺山家(佐護)、
(2)長岡家(仁位)、
(3)橘家(阿連)、
(4)岩佐家(豆酘)
 ・・・の4家にのぼります。
 これらの家々には、占いの方法が書かれた記録が今も残されています。
 なかでも岩佐家は、その子孫である当代が、年頭に氏子を集めて、亀卜の神事を行なっています。

【地図】豆酘の雷(いかつち)神社

【地図】豆酘の多久頭魂神社

【地図】豆酘の多久頭魂神社

【対馬全図】