室古神社(むろこ) | 阿古師神社(あこし) | 八鬼山(やきやま)
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参拝履歴
阿古師神社と室古神社
紀元前663年10月、神武天皇一行は、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)したという。
ここに漂着した3番目の兄・稲氷(いなひ)命を室古神社(むろこ)に祀り、遺骸は見つからなかったが2番目の兄・御毛沼(みけぬ)命を阿古師神社(あこし)に祀った。阿古師神社のある甫母町の盾ヶ崎
「甫母(ほぼ)」とは「含まれる」を意味し、二木島湾の一小海湾をなしていることからその名がついたと伝えられています。また『日本書紀』に記された神武天皇東征軍の荒坂津への上陸伝説や千畳敷で盾ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りしたという伝説が残されています。
盾ヶ崎は、高さ約70メートル・周囲約600メートルの大岸壁で全貌見事な柱状節理の壮観を呈し、平安時代の歌人・増基法師は「神のたたかひたる処」と詠い怒涛衝撃する形成が勇猛なる人の気概を高め、太古神明斗戦の地であることを伝えています。盾ヶ崎へは、荒坂の産土の神を祀る阿古師神社を経由する約2キロメートルの遊歩道と、大きさでは盾ヶ崎を凌ぐ大絶壁「海金剛」など海上からしか見えないダイナミックな景観が楽しめる海上遊覧(予約制)でいくことができます。
ここは、標高264メートルの山頂にあり、明治2年(1869年)まで海防上の重要な番所として使命を果たしてきた「盾ヶ崎戸遠見番所跡」の下方に位置し、東南においては紺碧の熊野灘、西南においては、明媚な二木島湾と朱に染まる夕日を望み、峻険極まるちにあって、旅人の心を癒してくれる情景です。
盾ヶ崎は、高さ約70メートル・周囲約600メートルの大岸壁で全貌見事な柱状節理の壮観を呈し、平安時代の歌人・増基法師は「神のたたかひたる処」と詠い怒涛衝撃する形成が勇猛なる人の気概を高め、太古神明斗戦の地であることを伝えています。盾ヶ崎へは、荒坂の産土の神を祀る阿古師神社を経由する約2キロメートルの遊歩道と、大きさでは盾ヶ崎を凌ぐ大絶壁「海金剛」など海上からしか見えないダイナミックな景観が楽しめる海上遊覧(予約制)でいくことができます。
ここは、標高264メートルの山頂にあり、明治2年(1869年)まで海防上の重要な番所として使命を果たしてきた「盾ヶ崎戸遠見番所跡」の下方に位置し、東南においては紺碧の熊野灘、西南においては、明媚な二木島湾と朱に染まる夕日を望み、峻険極まるちにあって、旅人の心を癒してくれる情景です。
拝殿
ご祭神
御毛沼(みけぬ)命〜『古事記』の表記or
三毛入野(みけいりの)命〜『日本書紀』の表記
本殿
海側からみた鳥居
盾ヶ崎周辺図
盾ヶ崎は熊野市・二木島湾口の熊野灘に突き出しており、高さ80メートル、周囲は550メートルほどの熊野酸性岩(花崗斑岩)の大岸壁がそびえ立ち、無数の岩柱が連なったようにみえる「柱状節理」が見事な眺めを生み出しています。
まるで盾を連ねたような様相の岩塊で、増基法師は熊野紀行文に
「神のたたかひしたる所」とて、楯を突いたるやうな巌どもあり
と、この景色を歌に詠んでいます。
また、ここは神武天皇東征の際の上陸地として知られ、その記述が『日本書紀』の巻第三(神武)にみられます。
英虞(あご)崎の高台には神武天皇上陸之聖跡碑が歴史学者の西田直二郎博士により建てられていましたが、昭和34年の伊勢湾台風の大波で流されてしまい、今はその台座が残るのみとなっています。
先端の英虞(あご)崎には千畳敷と呼ばれる大岩盤が、盾ヶ崎の裏に回ると豪壮雄大な「熊野の海金剛」の景観が訪れる人を魅了します。
また、約2キロにわたる遊歩道の周囲にはヤブツバキ・ホルトノキ・イヌマキ・カゴノキ・バリバリノキ・バクチノキ・スダジイなどの暖地性照葉樹や多彩なシダ植物など、熊のならではの豊かな植物が生い茂っており、私たちの目を楽しませてくれます。
まるで盾を連ねたような様相の岩塊で、増基法師は熊野紀行文に
「神のたたかひしたる所」とて、楯を突いたるやうな巌どもあり
と、この景色を歌に詠んでいます。
また、ここは神武天皇東征の際の上陸地として知られ、その記述が『日本書紀』の巻第三(神武)にみられます。
英虞(あご)崎の高台には神武天皇上陸之聖跡碑が歴史学者の西田直二郎博士により建てられていましたが、昭和34年の伊勢湾台風の大波で流されてしまい、今はその台座が残るのみとなっています。
先端の英虞(あご)崎には千畳敷と呼ばれる大岩盤が、盾ヶ崎の裏に回ると豪壮雄大な「熊野の海金剛」の景観が訪れる人を魅了します。
また、約2キロにわたる遊歩道の周囲にはヤブツバキ・ホルトノキ・イヌマキ・カゴノキ・バリバリノキ・バクチノキ・スダジイなどの暖地性照葉樹や多彩なシダ植物など、熊のならではの豊かな植物が生い茂っており、私たちの目を楽しませてくれます。
二木島湾周辺マップ
二木島峠の西側の峠は逢神坂(おおかみざか)と呼ぶ。熊野の神と伊勢の神が出会う場所という意味だ。
東側の峠を「曽根次郎、太郎坂」と呼ぶ。後者は自領、他領が転化したものとされる。
いずれもこのあたりを境にして西を熊野、東を伊勢とする。
神武天皇一行は、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)したという。
2番目の兄・稲氷(いなひ)命を室古神社(むろこ)に祀り、3番目の兄・御毛沼(みけぬ)命を阿古師神社(あこし) に祀った。-----------------------------
阿古師神社(あこし)に渡る術があるか熊野市観光公社に問い合わせしてみました。
〒519-4392 三重県熊野市井戸町653-12TEL 0597-89-2229
--------- 以下が問い合わせな内容(2008/07/26 (土) 10:48)>∞ ----------
神武天皇の3番目の兄・御毛沼(みけぬ) 命を祀っている、三重県熊野市甫母町の阿古師神社を参拝したいのですが、船で渡るしかないという説明がありました。
実際のところどうなのでしょうか? 船で渡るとしたらどなたにどのようにお願いしたらいいか教えてください。
夏の旅行に向けての下調べのサイトがこちらです。
http://www.tukinohikari.jp/jinja-mie/ku-muroko/index.html
それと、盾ヶ崎にも陸路では入れないということでしょうか?
-----------------∞> 以上が問い合わせな内容 -----------------
↓↓↓ 以下が返信(2008/07/26 (土) 12:35)です。 ↓↓↓
成田さま
お問い合わせありがとうございます。
阿古師神社へ行く方法ですが陸路で行けるようになっております。
電車でしたら二木島駅から歩いて40分程度で、お車でしたら311号線沿いに楯ヶ崎遊歩道入口がありますのでそこまで車で行かれましたら歩いて15分程度で着きます。 楯ヶ崎遊歩道を歩きますと楯ヶ崎が一望できる千畳敷まで行くことができ、そこに行く途中に阿古師神社があります。
しかし、楯ヶ崎の裏側にある海金剛という場所へは陸路ではいけず船でしか見られない景色があるのです。
阿古師神社には陸路でいけますのでどうぞお立ち寄り下さい。
またなにかございましたらお気軽にお問い合わせ下さいませ。
(※)楯ヶ崎観光遊覧をするときはこちらのページがお勧め。
-------------
熊野市観光公社 ※担当者名※
〒519-4324 三重県熊野市井戸町653-12
電話:0597-89-2229 FAX:0597-89-3300
E-MAIL kumanoshi-kankoukousha@sky.plala.or.jp
『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述による神武天皇のご兄弟
『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述による神武天皇のご兄弟
『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P137-29 )二神は | 常に糾(ただ)すの | 二神とは、春日神と子守神のこと |
殿(との)に居て | あまねく治む | 「糾すの殿」とは、京都市左京区賀茂御祖神神社の鎮座地「糾す森」と関連があるか? |
民(たみ)豊(ゆた)か | 折鈴(さくすず)なれば | |
植(う)ゑ継(つ)ぎて | 七鈴(なすず)およべど | |
なお豊か | 四十九(よそこ)の鈴(すず)の | |
九百十一枝(こもそひゑ) | 初穂キアヱの | 2,934,001年、1月3日。 |
初三日(はつみか)に | 天児屋根命(こやね)申(もふ)さく | |
「君は今 | 御祖(みおや)の道に | |
治(をさ)むゆえ | 人草(ひとくさ)の親(おや) | |
天地(あめつち)の | 神(かみ)も降(くだ)れば | |
御親神(みをやかみ) | 世々の御祖(みをや)の | |
嗣子(つぎこ)無し | 十二(そふ)の后(きさき)も | |
如何なるや」 | 時(とき)に天君(あまきみ) | |
「われ思う | 十三鈴(そみすず)老いて | |
種あらじ」 | 子守神(こもり)申さく | |
「世嗣文(よつぎふみ) | あり」とて天の | |
押雲命(おしくも)に | 勅(のり)して世嗣(よつぎ) | |
社(やしろ)なす | 時に押雲命(おしくも) | |
「な当(あ)てなし」 | 天児屋根命(こやね)太占(ふとまに) | |
占(うら)なえば | 「八瀬姫(やせひめ)良けん | 比叡山の西側に高野川が流れ、この流域に「八瀬」という地名があるが「八瀬姫」にちなむものか? |
ヤヒの意(ゐ)は | 中(なか)の屋(や)となる | |
シのハラは | 母と孕(はら)める | |
屋(や)の局(つぼね) | 内女(うちめ)は中(なか)の | |
位(くらい)なり」 | 年(とし)も若葉(わかば)の | |
八瀬姫(やせひめ)お | 十一(そひ)の后(きさき)も | |
みな祝(いは)ふ | 押雲命(おしくも)清め | |
世嗣社(よつぎや)に | 祈(いの)れば印(しるし) | |
孕(はら)み得(ゑ)て | 十五月(そゐつき)に生(う)む | |
五瀬君(いつせきみ) | 八瀬姫(やせひめ)宮(みや)に | |
入(い)るゝ間(ま)に | つい神(かみ)となる | |
御乳(おち)なくて | 触(ふ)れ尋(たづ)ぬれば | 八瀬姫が神上がり、五瀬尊の御乳を捜し求める触れがでていた。 |
これの先(さき) | 鴨建祗命(かもたけづみ)と | |
磯依姫(いそより)と | 十三鈴(そみすず)までも | |
子無(こな)きゆえ | 別雷神(わけつちかみ)に | 別雷神とは瓊々杵尊のこと。 |
祈(いの)る夜(よ)の | 夢(ゆめ)に賜(たま)わる | |
玉(たま)の名(な)も | 玉依姫(たまよりひめ)お | |
生みてにち | 養(ひた)して齢(よはひ) | |
十四鈴(そよすず)に | 両親(たらちね)ともに | |
神(かみ)となる | 河合(かあい)の神(かみ)ぞ | 河合神社 |
玉依姫(たまより)は | 喪祭(もまつ)りなして | |
たヾ一人(ひとり) | 別雷神(わけつちかみ)に | |
また詣(もふ)で | 斎(ゆゝ)捧(さゝ)ぐれば | |
ウツロイが | 疑(うたが)ひ問(と)わく | |
「姫(ひめ)一人(ひとり) | 別雷神に | 「別雷宮(わけつちみや)」で仕えたのだろうか?賀茂別雷神社のことと考えられるが、その創建に関する記述は『秀真伝』には見られない。 |
仕(つか)ふかや」 | 答え「しからず」 | |
また問(と)わく | 「世(よ)にちなむかや」 | |
姫(ひめ)答(こた)え | 「何者(なにもの)なれば | |
落(おと)さんや | われは神(かみ)の子 | |
汝(なんじ)は」と | いえばウツロヰ | |
飛(と)び上(あ)がり | 鳴(な)る神(かみ)してぞ | |
去(さ)りにける | ある日(ひ)また出(い)で | |
禊(みそぎ)なす | 白羽(しらは)の矢(や)来(き)て | |
軒(のき)に刺(さ)す | 主(あるじ)の汚血(おけ)の | |
止(とヾ)まりて | 思(おも)はず男(を)の子(こ) | |
生(う)み育(そだ)つ | 三歳(みつ)なるときに | |
矢(や)お指(さ)して | 父(ちち)というとき | |
矢(や)は上(のぼ)る | 別雷(わけいかつち)の | |
神なりと | 世に鳴り渡る | |
姫(ひめ)御子(みこ)お | 諸神(もろかみ)請(こ)えど | |
諾(うなづ)かず | 高野の森に | 比叡山の西側に高野川が流れる。この高野川の流域に「八瀬」という地名があるが「八瀬姫」にちなむものか? |
隠(かく)れ住(す)む | 別雷神(わけいかつち)の | |
祠(ほこら)なし | 常(つね)に御影(みかげ)お | |
祭(まつ)るなり | 御触れによりて | 八瀬姫が神上がり、五瀬尊の御乳を捜し求める触れがでていた。 |
申(もふ)さくは | 「一枝山(ひゑ)の麓(ふもと)に | |
姫ありて | 乳(ちち)良(よ)きゆえに | |
民(たみ)の子(こ)の | 痩(や)するに乳(ちち)お | |
賜(たま)われば | たちまち肥(こ)ゆる | |
これ昔(むかし) | 神の子なれど | |
隠(かく)れ住(す)む | 森(もり)に五色(ゐいろ)の | |
雲(くも)起(お)こる | 出雲路森(いづこぢもり)と | 賀茂御祖神社境内にある式内出雲井於神社と関係すると思われる。 |
名付(なづ)くなり」 | 諸神(もろかみ)請(こ)えど | |
参(まい)らねば | 「清雄鹿(さおしか)なされ | |
しかるべし」 | 時に岩倉命(いわくら) | |
伺(うかが)いて | 遣(つか)いお遣(や)れど | |
来(きた)らねば | 自(みずか)ら行(ゆ)きて | |
招(まね)けども | 諾(うなづ)かぬ由(よし) | |
返事(かえこと)す | 若山咋命(わかやまくい)が | |
申(もふ)さくは | 「雄鹿人(おしかど)ならで | |
来(こ)ぬゆえは | 別雷神お | |
常(つね)祭(まつ)る | 召(め)せば祭(まつ)りの | |
隠(かく)るゆえなり」 | ||
勅(みことのり) | 山咋命(やまくい)おして | |
召(め)すときに | 母子(ははこ)上(のぼ)れば | |
見給(みたま)ひて | 氏名(うじな)お問(と)えば | |
姫(ひめ)答(こた)え | 「親(をや)の建祗(たけづみ) | |
磯依(いそより)が | 名付(なづ)く玉依(たまより) | |
波提(はで)が孫(まご) | 子(こ)は父(ちち)もなく | |
神(かみ)なりぞ | 父(ちち)が無(な)ければ | |
諱(いみな)せず | 出雲(いずも)の御子(みこ)と | |
人(ひと)が呼(よ)ぶ」 | 言葉(ことば)も精(くわ)し | |
透(す)き通(とほ)る | 玉(たま)の姿(すがた)の | |
輝(かがや)けば | 勅(みことのり)して | |
内局(うちつぼね) | 五瀬尊(ゐつせ)養(ひた)せば | 玉依姫は、八瀬姫の子である五瀬尊を養育された。五瀬尊は長髄彦の矢にあたり神上がられ、竃山神社(かまやま)に祀られている。 |
御子(みこ)の名(な)も | 御毛入(みけいり)御子(みこ)ぞ | 父もなく生まれた玉依姫の子の名を「御毛入(みけいり)」という。神武天皇「大和討ち」の時、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)し、阿古師神社(あこし)に祀られている。 |
生む御子(みこ)は | 稲飯君(いないいきみ)ぞ | 鵜葺草葺不合尊の内局の時に生んだ御子で「稲飯(いないい)」という。神武天皇「大和討ち」の時、熊野と伊勢の境の盾ヶ崎で遭難(難破)し、室古神社(むろこ)に祀られている。 |
御后(みきさき)と | なりて生(う)む御子(みこ) | 鵜葺草葺不合尊の内宮の時に生んだ御子は・・ |
神日本(かんやまと) | 磐余彦(いはわれひこ)の | 「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」という。 |
尊(みこと)なり | 時に天種子命(たねこ) | 天児屋根命の孫 |
武仁尊(たけひと)と | 諱(いみな)鏤(ちりば)め | |
奉(たてまつ)る | 天君(あまきみ)御子(みこ)に | |
勅(みことのり) | 「ツヅ」の御歌(みうた)に | |
これ璽(をしで) | 豊経(とよへ)る幡(はた)の | |
ツヅ根(ね)にぞなせ |
神武天皇の御兄弟が祀られている神社(御陵)
古事記 | 日本書紀 | 祀られている神社(御陵) | |
1 | 五瀬(いつせ) |
彦五瀬 (ひこいつせ) |
●紀元前663年5月8日(?)、五瀬命が崩御した地と伝えられる 男神社(おの) 大阪府泉南市男里3丁目16-1 ●ここから上陸か? 水門吹上神社(みなとふきあげ) 和歌山県和歌山市小野町2-1 ●この地に埋葬する 竃山神社(かまやま) 和歌山県和歌山市和田438 |
3 | 御毛沼(みけぬ) |
三毛入野 (みけいりの) |
阿古師神社(あこし)
三重県熊野市甫母町 紀元前663年10月、三毛入野命の遺骸は見つからなかったが、阿古師神社(あこし)に祀ったとされる。 |
3 | 稲氷(いなひ) | 稲飯(いなひ) |
室古神社(むろこ) 三重県熊野市二木島町 紀元前663年10月、ここに漂着した稲飯命を室古神社(むろこ)に祀ったとされる。 |
4 |
若御毛沼 豊御毛沼 倭伊波礼毗古 (かむやまといわれひこ) |
神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) |
●神武天皇陵〜畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのみささぎ)という 奈良県橿原市 ●生玉神社(生国魂神社) 奈良県橿原市大久保町3-56 紀元前585年(神武76年)3月10日に亡くなり、紀元前584年(綏靖元年)9月12日に祀られる。 |
二木島湾周辺マップ
三重県南部(熊野市から松阪市)の広域地図
和歌山県南部(串本から新宮市)の広域地図
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