神武天皇の頃、荒風彦(あらちひこ)が隠れる八鬼山(やきやま)【1】ここだけは紹介しておきたい!|三重県

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室古神社(むろこ)阿古師神社(あこし)

東海中にある荒美津足国(あらみづたりのくに)からの者たちが潜んでいた

三重県尾鷲市の八鬼山(やきやま)奈良県宇陀市と吉野の境にある高淤加美山(竜門岳)

神武天皇の頃、荒風彦(あらちひこ)が隠れる八鬼山(やきやま)

参拝履歴

訪問日:未定

八鬼山(やきやま)での荒風彦(あらちひこ)の物語

 〔神武天皇一行が二木島湾で遭難した直後の物語になる〕

 『神武太平記』(上巻PP133-136 荒深道斉筆録)からの引用

 次の日、阿蘇威振(あそいぶり)30人計りの御伴と共に大いなる醜男(しこを)を縛めて北の方より帰り来たりて白さく、

 僕先の日の早荒風(はやあらち)のために御船見失せて尋ね求むる内に、僕等が船岩島に突当りて破れ僕等悉く溺れて、水泳ぐ事知らざる山夫のみなれば皆沈み死にてんと思へりしに多くの人に養ひ生かされしが、その養ひ生かせし者は怪しき形したる奇人(くしひと)のみにて、生きたらん上は吾住家に来たれ、物食はせん、と白す故僕等それに伴われて高き山に登る。
 至り見ればその山尾に岩穴あまた掘り作りて住む者なり。怪しと思へども死にたる者を養ひ生かせし上は悪しき人にはあらじと思ひ悟りて、その出し進むる粟飯喰ひて後疲れ出でて皆寝ねりたり。久しくして醒め見れば皆藤縄以て縛められ居たり。僕こは悔しと思ふ間に大いなる怪人出てきたりて曰く、
「吾はこの山の奇夫が長(をさ)荒風彦(あらちひこ)と云う者なり。
 久しくこの山に住みて荒風(あらち)のために難む者の人と宝とを取りて皆吾物とす。後にはこの紀の国を奪ひ遂には天下悉く吾物とせん策を為し至るに今その時来けり。汝先づ吾に従ひて汝が君とせる者の持てる天下治むる瑞宝(みづたから)を奪ふ援けせよ。若し吾事成らば汝を筑紫の鎮の大臣と為さん。」
 と。

 - - - - - - < 省 略 > - - - - - -

 その内の老ひたる女進みて白さく、
「妾は60年余り前年よりこの岩屋に連れ来られし阿野浦(あのづ)の者なり。
 その時はこの族僅かに10ばかりにて岩屋も3つありしのみなりしが、年毎に荒海に流れ来る者を救けて族の内に従えつつ、今はその数500余りとなれり。この度西より珍宝(うづたから)持てる豊幸(とよさち)人来ますが故に之を御饗(みあえ)して、その食物の内に密木の実を煮たる汁を混へ置き、これを食して眠りませる時悉くその宝とその人を奪はん策して、この内のいと大いなる岩屋掃き清め明日之を行はんと為したる間に却って汝命等に殺されたるなれ。
 この少女等はこの岩屋にて生まれたる者もあれども、半は他方より奪ひたるものなり。」
 と申す。
 僕これを聞き大いに驚き直ちにこの由知らせ白さんと思ひしもその坐します所を知らず。故に彼老女に、
「汝その西より来ります豊幸人(とよさちひと)の坐す所を知れりや。」
 と問えば、彼老女答ふるに、
「二刻ばかり南に行けばその坐し所あり。」
 と白すに依りて急ぎ参ゐ来つ。

 と白す。

 大皇子(おおみこ)宣り給はく、
「汝良く行り。これ皆佐士布都神(さじふつのかみ)の援けます事」
 とて天を拝み給ふ。

東海中にある荒美津足国(あらみづたりのくに)の国状と長髄彦の出自

 『神武太平記』(上巻PP136-138 荒深道斉筆録)からの引用

 吾道臣この時威振(いぶり)が縛め持て来し醜彦(しこひこ)の面を見るに皇国人にあらずと思ひ、彼に問ふて、
「汝は初めよりこの皇国人にはあらじ。何国の者なりや。」
 と問へば彼答へて、
「吾は東の外垣(とがき)荒美津足国(あらみづたりのくに)の者なり。」
 と云ふ。
 吾又、
「汝その国を如何にして出でこの国に至るや。」
 と問ふ。
 彼答えて、
「吾その国の大臣(おおおみ)の子なりしが、吾未だ生まれざりし時国乱れて他の大臣(おおおみ)その国を奪ひ、その国主と吾父大臣を殺せり。
 吾その時母の腹の中にありしに母避れて国の西の辺りに隠り居て吾を生む。
 吾幼きより漁人に雑りて成人となりしが、或る時母病にて臥せる時吾に告ぐるに国の大臣の子なりし事を教へて死り去る。吾その時大いに驚き喜びて父の仇を報いんと思ひ、漁人の内より武き賢しき者を選り談らひてその高市奪はんとせしが、幸なくして大負けに負けたり。
 故に再び策りて高市攻めんとするも力及ばずして、その国長の隙出で来るを待ちにし、或時皇国の漁人あまた荒波に誘われ流れ来し者あるを養ひ置きしに、この皇国君大いなる日知君(ひじりのきみ)にて人の窮みを救けます由聞きて大いに喜び、この国に渡りつきて援けを乞はんと思ひ、その漁人に真を明かし水先を乞ひて吾が談ひ置きし武夫(もののふ)20人と共に船出して、10日程西に漕ぎ来れども国影見ず。
 なほ5日程漕ぎし日に早荒風(はやあらち)吹起りて吾等が船悉く散り失せたる間に、吾が乗りし船はなほ5日程海に漂ひあるうち又荒風(あらち)来りて、今は沈み死なん時来りぬと思ひ悟りしに一つの水戸と思しき処に着きたり。
 その海辺には一つの家もなく人もなし。夜明けて良く見れば高き山岬の小狭水戸なり。その山に上がりて国見して後の策せんとて登り見れば、その北の方と南の方に長屋あるを見て、下りて援けを乞はんと思へたれども吾等の装ひ太く異なれば、怪しまれて生命断たんは悪しと思ひ、なほ山尾を行き見るに空岩屋あり。先づ之を住家として木実を取りて食ひつつ、共に生命得し5人と共に在らえたり。
 その時仲秋にて木実多にあれども衣る物なきに苦しみ居たりしが、又荒風(あらち)起りて泣き叫ぶ声聞ゆ。山の下の水戸を長見するに一の大なる船砕けて援けを呼ぶに似たり。5人共下り見るにその船人吾等の怪しき形を見て戦ひの装ひする故に、その由縁(いはれ)語り解かんとするも言霊通はずして矢放ち射る。吾等海に潜り入りてその船底を破りてその人悉く溺れ死なしてその宝を奪ふ。
 年毎にかくして服ふ者は助けて吾族とし、服はぬ者は悉く殺して60年余りを経て今日に至りぬ。
 その他の事は彼老女が語りしに違はじ。」
 吾又曰く、
「汝心を清めて吾大君に仕へんや。」
 と問へば彼白さく、
「吾今年100(ひともも)を余して又他に仕へん心なし。
 これまでに多くの人を殺したる罪穢れあれば頭切り(くびきり)霊(みたま)救ひ給へ。
 然れど一言云ひ仕へん事あり。
 今この国奪はんとする大和の登美彦(とみひこ)は、初め僕と共に荒美津足国(あらみづたりのくに)を出で来し長髄夫(ながすねお)ならん。
 前日(さきのひ)大和より来たりし人を捕らえし時のその語り事にて略(ほぼ)知れり。
 果たして彼なりせば頭(こうべ)の前面に大いなる創(きづ)遺(のこ)り附き居らん、試し見給へ。
 又吾を捕らえし武夫(たけを)をして吾頭(くび)切らせ給へ。」

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