大国主神社(貴志川町)【3】文献に掲載されている由緒書き|和歌山県

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和歌山県紀の川市貴志川町國主1
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

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その他の文献

 紀伊続風土記によれば、大国主命の母・刺国若比売(さすくにわかひめ)が大国主命を八十神命の危難から救うため、木ノ國大屋毘古ノ神のもとへ逃れさせた事を由緒としている。
 この説話は古事記では母の神が大国主命を紀の国の大屋毘古の神のもとに逃がしたとある。
 『神奈備』さんのサイトに一文が紹介してあります。

 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁)

紀伊續風土記 巻之三十五

 那賀郡 貴志荘 國主村から

 ○國主明神社  境内周八町

       天照大神
   祀 神 大國主命   合殿  三 扉 表行三間 裏行二間半
       少彦名命

村中にあり 古事記に大國主ノ神の兄弟八十神ましヽヽしに八十神達大國主ノ命を妬みて殺し奉らんと種々に困めしを其御母神告教給ひていまし此間にいまさは遂に八十神に滅ぼされんとの給ひて 木ノ國大屋毘古ノ神の御所[モト]にいそかしやり給ふとあり 然れは此地は其時大國主ノ神の來り坐しゝ地にて即其に斎き祀れるならむ 本國に大國主ノ神を祀る所の多きも此によれるなるへくして當社其本宮なるへし 昔は六十六箇國より種々の備物を以て當社の祭事に供[ソナ]へしに因りて其國々の國司より備物の料として此地にて方一里の地を神田と定め 定め大贅の料とせり 今土地の字に越中芝尾張田阿波小路土佐畠美濃田因幡なといふ國號を以て田地の字に呼ひ來れるは其遺稱なりといふ 中昔兵亂の時此等の事皆廃絶し後世兵画像文字の災に罹りて神寶舊記古文書の類皆燃亡して神の來由の詳なることは今知りかたし 然れとも大贅の遺風今に残りて荘中歴坐の者私のカを以て其神事を執行ふ 土俗これを大飯といふ

 大飯神事

毎年三月朔日より三日まてを祭目とす 荘中十四箇村の農戸大抵田一町許を作る者の老人等一村に一人つヽ年々三人を此祭の主と定めて前年より一年か間門戸を閉て潔斎をなす 潔斎中耕作をなさす 人に對せす 月代をせす 髭をも剃らす といふ 祭の前五六日の程供物を調進すとて祭の主の家々に五六十人許日々入込て神供を調ふ 其供物は白米十二俵を飯に炊き藪萬の團飯とし串に刺す 其串の敷一萬三千本飯を大桶の上に山の如く積上け眞中に幣を刺し車に載せ薮百人是を引きて神前に備へ又社前の淵にも沈むるなり 是を貴志ノ大飯といふ 其費夥しけれは今は省畧する事ありといへとも猶舊例に従ふといふ古老の傳へに此祭は昔當社前の淵に龍蛇ありて多く人をとり殺しゝかは其蛇を神と祀り年々生贄とて人一人を備へけるを後此大飯に代へて備ふといへり 古傳説なるへし 神代ノ巻八股ノ蛇の故事又今昔物語に飛騨ノ國にて猿を神と祭リて生贄を備へしこと 遠江ノ國櫻池の故事等似たることなり