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本殿
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京都の野々宮神社はかつての伊勢の斎宮、斎王のための社・・
『八上神秘の白兎と天照大神伝承―もう一つの因幡の白兎神話』(大江幸久著、星雲社刊)P21 より引用
京都の野々宮神社はかつての伊勢の斎宮(さいぐう)、斎王(さいおう)のための社であり、地方にあまり勧請される性格の社ではありません。『船岡町誌』によれば、この地が亀卜によって大嘗祭の「主貴田(すきでん)」として選ばれたからこの社が建てられたそうです。
後醍醐天皇の内親王との関連もあったのではないでしょうか。旧、郡家町(こおげまち)「西御門(にしみかど)」は後醍醐天皇が行宮されたことから、天皇によって名づけられた地名です。西御門とこの社のある上野とは目と鼻の先なのです。
郡家殿の和多理(わたり)神社も、後醍醐天皇行宮の地です。八上の地は天皇家にとって、歴史的に古いつながりがあるように思えます。
郡家殿の和多理(わたり)神社についての引用
八上の日理郷は土師郷の東側のあります。これをワタリと読むそうです。
昭和52年4月の郡家町広報には北川時冶氏の「我が町の文化財」と題して大御門の殿にある和多理神社について記されています。
そこには、日理は本来、「ひつち」で、大御門に日理(ひつち)という丘があるそうです。
神社名の和多理は当て字であって、この辺り一帯を日理(ひつち)の郷と呼んでいたそうです。
式内社である和多理神社は、後醍醐天皇の行宮の地ともなったところですが、元は和多理山=猫山の山頂に祀られていたのを里に移し祀ったものです。
この神が、隠岐に配流されていた後醍醐天皇に託宣をおろされて、後醍醐天皇は隠岐より脱出され、名和長年に導かれて船上山へしばらく逗留され、一行は京へ向かう途中で託宣を下された和多理神社のある八上に行宮されました。
現在の祭神は、神功皇后が福岡の大渡島より遷し祀ったとされる猿田彦命となっていますが、もともとは別の神が祀られていた可能性が高そうです。
本殿には後醍醐天皇御親筆の諾册(ナザナギノミコト・イザナミノミコト)両神の御札が保管されています。
『八上神秘の白兎と天照大神伝承―もう一つの因幡の白兎神話』(大江幸久著、星雲社刊)P157 より引用
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