対馬の豆酘浅藻の卒土(そと)の山/龍良(たつら)山【1】ここだけは紹介しておきたい!|長崎県

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対馬市厳原町豆酘浅藻( 『いつもNAVI』のロゴ
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 参拝に向けての準備

豆酘の赤米(あかこめ)豆酘の多久頭魂神社亀卜の雷神社
天道法師の母の墓所が龍良山北面の山中の裏八丁郭浅藻からみる龍良山(たつらさん)天道法師の表八丁郭

神様の土地とされ、人が住まなかった卒土(そと)/浅藻(あざも)

参拝履歴

訪問日:2019年(令和元年)5月20日

対馬の豆酘浅藻の卒土(そと)の山/龍良(たつら)山

あいう

あいう

あいう

神の土地とされた豆酘の浅藻、人が住んではいけない処だった

 豆酘の人たちに、浅藻は「神の土地」と認識されていて、卒土(そと)の浜と呼ばれていた。
 卒土(そと)の浜からキレイに見える龍良山(たつたさん)は、卒土(そと)の山と呼ばれていた。
 卒土(そと)の地というのは、魂魄(こんぱく)の領域だと考えられていたのだ。
 明治28年(1895年)、山口県大島郡から、梶田富五郎という人が、豆酘の人に無断で入植したのが、人が住み始めた端緒だという。
 豆酘の人たちは
「浅藻は神の土地なので、売ることはできない」
 と主張し、現在でも、浅藻の土地は、豆酘の借地になっている。
 借地の住所地は「豆酘浅藻10番地」になっている。
 明治28年(1895年)という年の、4月に日清講和条約が調印されている。
 日清戦争とは、1894年7月25日から1895年4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。

(※) 令和元年5月16-19日の聞き取り。

谷川健一編『日本の神々1九州』(白水社)PP52-53

 豆酘の枝里浅藻の地は、かつては無人の境で卒土と称した。前に引いた天道縁起に、「卒土山のおとろし所」とされた聖地は、この浅藻の奥の龍良山(天道山)中腹の森である。
 千古の原生林に囲われたこの秘境は、真昼でも怖気を感じるほどもの寂しい。そこにピラミッド状に石を積み、緑苔を生やした檀(搭)があり、俗に「八丁郭」と称して天道法師の墓というのは、おそらく「タッチョウ(塔頂)」の意と解される。頭頂とは仏教でいう聖者の墓所であるから、天道法師の墓とするのにふさわしい。
 しかし、この信仰が仏教と習合する以前の、古神道の原型を考えるとき、卒土という名称が千古の響きを伝えてくれる。
 それは三世紀ころの『魏志』東夷伝の韓の条に、
 鬼神を信ず。国邑に各一人を立て天神を主祭し、之を天君と名づく。又諸国各別邑有り、之を名付けて蘇塗(そと)と為す。大木を立て、鈴鼓を懸け、鬼神に事(つか)う。諸亡逃れて其中に至れば、皆之を還さず。
 とあることから、
(1)韓伝の蘇塗(そと)と豆酘の卒土(そと)が同音であること
(2)卒土(そと)が豆酘の別邑であること
(3)この聖地に逃亡したものは追捕されないこと
 ・・・韓伝の蘇塗(そと)と豆酘の卒土(そと)には類似性がある。

 そこで、卒土山の「おとろし」所とは、本来鬼神を祀ったところと考えられる。

 鬼とは『説文』に「鬼。人の帰する所を鬼と為す」とある。
 また『正字通』には「鬼。人の死して、魂魄を鬼と為す」とある。

 鬼とは、本来死者の霊魂である魂魄の「魄」であった。

 鬼神とは王者の祖霊を意味したもので、周の武王は鬼神に能く事(つか)えたというが、邪馬台国の女王卑弥呼も能く鬼道に事(つか)えたことが知られている。
 そこからして、豆酘に居住した対馬の古族が、邑の境内に天神(あまのかみ)を祀り、境外(卒土)に鬼神を祀った状況が追跡できる。
(※)後世、鬼が妖怪に堕ちたとき、「鬼は外」と呪言を唱え、追放されたのも、何か因縁を感じさせる。

 豆酘の葬送習俗。

 豆酘の葬送習俗として、葬礼より七日目の朝、外見(卒土見)と称する儀式があった。すなわち、卒土の浜が見える峠まで行って、
「ソト見にきました」
 と唱え、後ろ向きに路傍の木の枝などを投げて帰ったという。
 このことは、神話のイザナギ命が、黄泉国に亡妻イザナミ命を見に行って、鬼に追われて逃げ帰った状況を想起させるものがある。

【地図】豆酘の浅藻

【地図】豆酘の多久頭魂神社

【地図】豆酘の多久頭魂神社

【対馬全図】