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マピオン地図
三重県志摩市磯部町上之郷( マピオンによる広域地図
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伊雑宮の拝殿

花窟神社(花の窟〜はなのいわや)

ご祭神

天照大神

伊雑宮の本殿

伊雑宮の本殿

駐車場から伊雑宮へ

駐車場から伊雑宮へ

伊勢神宮の御神田は伊雑宮にある

伊勢神宮の御神田は伊雑宮にある

伊勢神宮の御神田は伊雑宮にある

伊勢神宮の御神田は伊雑宮にある

【地図】伊雑宮

紀元前1,710,404年に豊受大神の崩御、伊雑宮への遷宮、五男三女

 天照神が生まれてから8万年経った。

 豊受大神が神上がられる時の物語である。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の六「日の神十二后の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P352-356 )
  八万年(やよろとし)経て 天照神の代になって8万年経って
二十二鈴 五百五(ゐもゐ)枝(ゑ)初穂(はつ)に 大濡煮尊の御世より129万301年。
紀元前1,710,404年。
宮津より 早雉子(はやきじ)飛べ 急な使者のこと。
天日神(あまひかみ) 急ぎ真名井(まなゐ)に 真名井とは、宮津の宮の地をさす。
行幸(みゆき)なる 時に玉杵尊(たまきね) 玉杵尊(たまきね)とは、豊受大神の別称。
相語り 「昔(むかし)道奥(みちのく) 日高見のヤマテ宮
尽(つ)くさねば ここに待つ」とて  
授(さず)けまし 「諸神(もろかん)たちも  
しかと聞け 君(きみ)は幾世(いくよ)の  
御親(みをや)なり これ国常立尊(とこたち)の  
勅(ことのり)」と 洞(ほら)お閉(とざ)して  
隠(かく)れます その上(うゑ)に建つ  
朝日宮(あさひみや) 君(きみ)懇(ねんご)ろに 京都府大江町に豊受大神社(元伊勢外宮)があり、祭神は豊受姫神である。さらに皇大神社(元伊勢内宮)もあり天照皇大神を祀る。この両社が本書の伝承と関係するか。
祭(まつ)りして のち帰(かえ)まさん 原見山の安国の宮にお帰りになろうとするとき
御輦(みてぐるま) 留(とど)むる民お 民が御輦を引き止めるので
憐れみて 親(みづか)ら政(まつり) 9年間宮津の宮に留まった。
聞こし召す 趣(おもむ)き告げる  
雉子(きぎす)にて 向津姫(むかつひめ)より  
勅(ことのり)し 日高見(たかみ)に祭る  
豊受神(とよけがみ) 持子(もちこ)の典侍(すけ)と  
早子(はやこ)内侍(うち) 味子姫(あじこ)と三人(みたり) 持子、早子、味子の3名が朝日の宮で豊受神の御魂をお祭りする。
早(はや)行(ゆ)きて 真名井(まなゐ)の原(はら)の  
宮仕(みやづか)ゑ 勅(ことのり)あれば その後、3名は宮津の宮にいる天照神に仕える
門出(かどで)して 宮津の宮に  
あるときに 君(きみ)の御狩(みかり)に  
千足国(ちたるくに) 道(みち)お定(さだ)めて 鳥取県の霊石山に天照大神降臨伝承がある。同じく、島根県の隠岐の島にも天照大神降臨伝承がある。 この2つの伝承は、この時のものか?
治(をさ)むのち 八十杵尊(やそきね)の弟(おと) 豊受大神の5人の子、八十杵尊・伊邪那美尊・神狭日命兵主命・稜威雄走命。
神狭日命(かんさひ)お 益人(ますひと)となし  
また弟子(おとご) 兵主命(つわものぬし) 下の弟の兵主命
胡久美(こくみ)添(そ)え 局(つぼね)留(とど)めて 「千足国 益人胡久美 怠れば」〔6-5〕とあるように胡久美が政務を怠ったので、益人の官職から「添え」に格下げされた。
局とは、持子・早子・味子の3名。
帰(かえ)らんと 去年(こぞ)より仕(つか)ふ  
素戔嗚尊(そさのを)と 天道根命(あまのみちね)と 天道根命は神武天皇の「大和討ち」の時も登場するが、同じ人物か?
門出(かどで)なす ネナト三月 大濡煮尊の御世より1,290,310年の3月陰暦の15日。
紀元前1,710,395年
望(もち)よりぞ 四月の望(もち)に 3月15日に発ち、4月15日に着いた。
帰(かえ)ります 日速彦命(ひのはやひこ) 「ひさひこ」「ヒワヒコ」ともいう。武甕槌命(たけみかづちのみこと)のこと。
勅(みことのり) 「汝(なんじ)国絵(くにゑ)お  
写(うつ)すべし」 弥真瓊(やまと)巡(めぐ)りて  
みな描(ゑが)く 君(きみ)は都(みやこ)お  
遷(うつ)さんと 思金命(おもいかね)して  
造(つく)らしむ 成りて伊雑(いさわ)に 磯部町に伊雑宮がある。
宮(みや)遷(うつ)し ここに居(い)ませば  
向津姫(むかつひめ) 藤岡(ふじおか)穴山(あな) 外宮域内の多賀宮に御井があり、下御井神社と称している。これとは別に上御井神社、別名「忍穂井」が外宮敷地内の藤岡山に麓にある。
忍穂井(おしほゐ)に 産屋(うぶや)の耳(みみ)に  
生(あ)れませる 忍穂耳(おしほみ)の御子(みこ)  
忍仁尊(おしひと)と 諱(いみな)お触(ふ)れて  
神(かみ)在(あ)りの 餅(もち)飲(ゐ)賜(たま)えば  
民(たみ)歌ふ 先に持子が  
生む御子(みこ)は 穂日尊(ほひのみこと)の 持子の子:穂日尊(諱は、棚仁-たなひと)
棚仁(たなひと)ぞ 早子が三つ子  
一(ひ)は竹子(たけこ) 沖津島姫(おきつしまひめ)  
二(ふ)は湍子(たきこ) 江之島姫(えつのしまひめ)  
三(み)は田奈子(たなこ) 市杵島姫(いちきしまひめ)  
しかるのち 秋子姫(あきこ)が生める 金析命の娘、速開津姫・秋子が生む子
直杵(ただきね)は 天津彦根尊(あまつひこね)ぞ 天津彦根尊、諱は直杵。
しかるのち 道子姫(みちこ)が生める 八十杵尊の娘、大宮姫・道子が生む子
原杵(はらきね)は 生津彦根尊(いきつひこね)ぞ 生津彦根尊、諱は原杵。
豊姫(とよひめ)は 北(ね)の内侍(うちめ)にて 宗像命の娘、豊姫・紋子が生む子
額直(ぬかただ)の 熊野楠日尊(くまのくすび)ぞ 熊野楠日尊、諱は額直(ぬかただ)。
御子(みこ)すべて 五男(ゐをと)三女(みめ)  

天照神の岩戸隠れと素戔嗚の追放〜白人・胡久美の悪行を利用する持子と早子

 伊雑宮に遷座してから11万年経った紀元前1,600,704年、  白人・胡久美の悪行を利用して、天照神を亡き者にしようと企む持子と早子。
 その結果、素戔嗚命が乱行におよび、天照神の岩戸隠れとなり、その責任をとって素戔嗚命の追放となる。
白人・胡久美
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の七「遺し文祥禍を立つの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P369-380 )
諸神(もろかみ)の 祥禍(さが)お立つとき 「サ」は「清」、「ガ」は「陰」「闇」「夜」などの義。
ここでは物事の善悪にともなう法を立てること。
細矛国(さほこ)より 兵主命(つわものぬし)が 豊受大神の5人の子、八十杵尊・伊邪那美尊・神狭日命・兵主命・稜威雄走命。
香久宮(かぐみや)に 雉子(きぎす)飛(と)ばさせて  
「益人(ますひと)が 民(たみ)のサシミ女 伊邪那岐尊の弟で根の国(北陸)の益人の椋杵命(くらきねのみこと)のこと。
サシミ女とは、地の側に隠れた高龗神(たかおかみのかみ)の別名であると、平成21年8月8-11日の旅行で気づいた。仮面だから大日如来と現れるか?
妻(つま)となす 椋子姫(くらこひめ)生(う)めば  
慈(いつく)しみ 兄(あに)の胡久美(こくみ)お  
子(こ)のごとく 細矛千足国(さほこちたる)の  
益人(ますひと)や 今は添(そ)えなり 豊受大神が神上がられた紀元前1,710,404年から9年間、天照神が宮津の宮に留まったとき、千足国(山陰)の益人に八十杵尊の弟である神狭日命(かんさひのみこと)を益人に任命し、下の弟の兵主命と胡久美を補佐役に任じられている。
椋杵命(くらきね)が 罷(まか)れるときに  
白人(しらひと)お 根国(ね)の益人(ますひと)に 椋杵命が亡くなられてからサシミ女の推挙によって白人が根国(北陸)の益人になった。
椋子姫(くらこひめ) 身(み)お立山(たてやま)に 「身」とは椋杵命の御尊骸のこと。
納(おさ)むのち 母子(ははこ)を捨(す)てて 紀元前1,600,704年
大濡煮尊の御世から144万1年〔8-2〕
24本目の鈴木が折鈴となり、25本目の鈴木に植え替えた節目の年に 白人が妻の椋子姫と母のサシミ女を捨てて、宮津の胡久美の元に送った。
津に送る 胡久美(こくみ)母子(ははこ)お 「津」とは、京都府の宮津か?
「サシミ女」の推挙によって根国の益人になった白人は、母の「サシミ女」と子の「椋子姫」を津に送り返してきた。その母と子を胡久美が犯した。
犯(おか)す罪(つみ) 神狭日命(かんさひ)これお 豊受大神の5人の子、八十杵尊・伊邪那美尊・神狭日命兵主命・稜威雄走命。
糾(ただ)さねば 臣(とみ)これお請(こ)ふ 臣(とみ)とは兵主命のこと。
御機(みはた)より 清雄鹿(さおしか)に召(め)す 御機とは万機、すなわち政事(まつりごと)における中枢。伊雑宮をさすか日高見の高天原をさすか判断しがたいが勅使が派遣された。
神狭日命(かんさひ)と 胡久美(こくみ)母子(ははこ)と  
高天原(たかま)にて 金析命(かなさき)問(と)わく 日高見の高天原で、胡久美が妹である「サシミ女」と子の椋子姫を犯した件について質問した
胡久美(こくみ)いふ 「サシ女(め)は真(まこと)  
わが妻(つま)よ 君(きみ)去(さ)りますの  
璽(おして)あり」 また問(と)ふ「汝(なんじ)  
何人(なにびと)ぞ」 「民(たみ)」といふにぞ  
雄叫(おたけ)びて 「獣(けもの)に劣(おと)る  
罪人(つみびと)ぞ サシ女(め)捧(ささ)ぐる  
縁(ゆかり)にて 益人(ますひと)となる 細矛千足の国の益人となることが出来た。
御恵(みめぐ)みの 君(きみ)なり母(はは)よ 恩恵を受けた椋杵命とサシミ女は、胡久美の君であり母(実の妹でも)であるぞ。
祥禍(さが)見れば 君(きみ)を忘(わす)るる 椋杵命に対する恩を忘れたこと
百暗(ももくら)と 母も二十暗(ふそくら) 「母も」とは、妹のサシミ女の「母」としての恩を忘れた罪
犯(おか)するも 璽(おして)の恥(はぢ)も 母を犯す罪と離縁状偽造の罪
百(もも)と百(もも) 姫(ひめ)蔑(ないがしろ) 椋子姫を犯し蔑(さげす)んだ罪
五十暗(ゐそくら)と すべて三百七十暗(みもなそ)  
天(あま)巡(めぐ)り 三百六十度(みもむそたび)お  
瓊矛法(とほこのり) 処(ところ)お去(さ)ると 九十度以上であれば処払い
流浪(さすら)ふと 交(まじ)はり去(さ)ると 百八十度以上であれば、流浪(さすら)。二百七十度以上であれば交わりを去る。
命(いのち)去(さ)る 四つ割(わ)り過(す)ぎて 三百六十度を越せば死刑とする。
綻(ほころ)び」と 獄舎(つつが)に入(い)れて  
根の国の 白人(しらひと)お召(め)す  
高天原(たかま)にて 金析命(かなさき)問(と)わく  
母(はは)お捨(す)て 妻(つま)去(さ)る如何(いかん)」  
答えいふ 「己(おのれ)は去(さ)らず  
母(はは)よりぞ 家(ゐゑ)捨(す)て出(い)づる  
姫(ひめ)もまま」 またもとお問(と)ふ  
答(こた)えいふ 「代々(よよ)の臣(とみ)ゆえ 白人は代々椋杵命に仕えていた臣である。
子(こ)となせり 母(はは)は民(たみ)の女(め) 白人が椋杵命の養子になった。
進(すす)めてぞ 君(きみ)の妻(つま)なり そして、民のサシミ女をお后にお進めした。
御恵(をんめぐ)み 何(なに)忘(わす)れん」と  
ゐゝ流(なが)す 神皇産霊尊(かんみむすび)の  
叱(しか)りてぞ 「汝(なんじ)飾(かざ)りて  
惑(まど)わすや われよく知(し)れり  
友(とも)お超(こ)ゑ 力(ちから)お貸(か)して 知人であるサシミ女がそれ以上に白人に力を貸してくれ、椋杵命にとりなして、根の国の益人に白人を推挙してくれた。
母(はは)が挙げ 政(まつり)授(さづ)けて その上、養子としてサシミ女の子の椋子姫と結ばせた。
子となすお 母(はは)に慕(した)えば 白人は、恩人サシミ女に横恋慕し、
姫(ひめ)が倦(う)む 隠(かく)さんために 椋子姫が嫌がればそれを隠すために宮津に流した。
流(なが)しやり 民(たみ)の目(め)奪(うば)ひ 民(たみ)の目を盗み糧(かて)を掠(かす)め取っていた。
チカラ掠(か)す 恵(めぐ)み忘(わす)るる 「チカラ」とは「稲」のこと。
二百暗(ふももくら) 去(さ)るも百暗(ももくら) 君と母の恵みを忘れた罪二百暗、母と子を捨てた罪百暗
踏(ふ)むが五十暗(ゐそ) 握(つか)むの六十暗(むそ)で サシミ女に横恋慕し君の恩を踏みつた罪五十暗、民の糧を横領した罪六十暗。
四百十暗(よもそくら) これ逃(のが)るるや」  
答(こた)えねば 獄舎(つつが)に入れて  
大御神(ををんかみ) 諸(もろ)と議(はか)りて  
「八十杵尊(やそきね)お 根国(ね)の国神(くにかみ)と  
伊弉諾尊(いざなぎ)の 産屋(うぶや)に伯父(をぢ)と 「産屋に」とは、それぞれが伊弉諾尊・伊弉冉尊と同じ母から生まれているということ
伯母(おば)なれば 政(まつり)絶(た)ゑず」と  
勅(みことのり) 以ちて民(たみ)治(た)す  
伯父(おじ)と伯母(おば) 白山神ぞ(しらやまかみ)ぞ 石川県鶴来町に白山比盗_社がある。
伊弉諾尊(いざなぎ)は 祭(まつ)れど弟(おと)の 伊弉諾尊の御魂は祭ったが、事件の原因を作った椋杵命の御魂を祭らなかった。
椋杵命(くらきね)は 祭(まつ)らず持子(もち)が 北の局の典侍である持子は内つ宮に昇格した瀬織津姫を妬み憎むあまり、内つ宮を亡きものにせんと虎視眈々と隙を伺っていた。そこで邪心に満ちた白人と胡久美を配下に置こうと考えた。
椋子姫(くらひめ)お 神狭日命の子の 白人に嫁いだことのある椋子姫を神狭日命の子である天押日命に嫁がせ、天押日命を持子の兄として立て、父・神狭日命の政治を嗣(つ)がせ細矛千足の国の益人にしたのです。
天押日命(あめおしひ) 娶(めあわ)せ典侍(すけ)が  
兄(あに)となし 父(ちち)益人の  
政(まつり)嗣(つ)ぐ 白人(しらひと)胡久美(こくみ)  
この祝(いわ)ひ 半(なか)ば祥(さ)お得(ゑ)て 神狭日命の子の天押日命の婚礼の祝いの恩赦により、胡久美と白人の罪が半減。
流浪(さすら)ひの 簸川(ひかわ)にやるお 流浪(さすら)の罪に減じられた胡久美と白人は斐伊川を流浪した。
益人(ますひと)の わが臣(とみ)となす 細矛千足国の益人であった神狭日命の子の天押日命が新しい益人になっている。持子が宮中に対する敵意を晴らす謀計の一環として、天押日命をしてこの両名を臣として召抱えさせた。
素戔嗚尊(そさのを)は これ整(ととの)ひて 素戔嗚尊は、天押日命が父・神狭日命の益人の職責を嗣(つ)いだときの行政を整えた。
真名井(まなゐ)なる 神(かみ)に詣(まふ)でる 朝日宮の豊受神に詣でるということ
その中に 手弱女(たおやめ)あれば  
これお問(と)ふ マカたち答(こた)ふ 「マカ」とは早吸姫の侍従のことか?
赤土命(あかつち)が 早吸姫(はやすふひめ)と  
聞(き)こし召(め)し 雉子(きじ)お飛(と)ばせて  
父(ちち)に請(こ)ふ 赤土宮(あかつちみや)  
嫁(とつ)がんと いえど宮(みや)なく  
大内宮(ををうち)の 折々(おりおり)宿(やど)る 伊雑の宮の東殿。持子早子の北の局にお泊りになった。
北(ね)の局(つぼね) 姉妹(ゑと)休めとて 持子と早子の姉妹に天照神から休みをとれ、との勅があった。
大内宮(ををうち)の 豊姫(とよひめ)召(め)せば 宗像命の子・豊姫が西殿の御下から北の内侍に昇格。 そして、熊野楠日尊(直額)を生む。
北(ね)の局(つぼね) 下(さが)り嘆(なげ)けば  
素戔嗚尊(そさのを)が 堪(た)ゑかねてぞ  
剣(つるぎ)持(も)ち 行(ゆ)くお早子(はやこ)が  
押(お)し止(とど)め 「功(いさおし)ならば  
天(あめ)が下(した)」 花子姫(はなこ)来たれば その場面に花子姫がやってきた。
花子姫は「稚桜姫」ともいう。
穂(ほ)お隠(かく)す 見ぬ顔(かほ)すれど  
内宮(うち)に告(つ)げ ある日(ひ)高天原(たかま)の  
行幸(みゆき)あと 持子早子お  
内宮(うち)に召(め)す 日(ひ)に向津姫(むかつひめ)  
曰(のたま)ふは 「汝(なんじ)ら姉妹(ゑと)が  
御笥飯(みけひ)得(え)て 筑紫にやれば  
噤(つぐ)み居(お)れ 棚杵尊(たなきね)は取る  
男(を)は父に 女(め)は母に付く  
三姫子(みひめこ)も ともに降りて  
養(ひた)しませ 必ず待てよ  
時あり」と 宜(む)べ懇(ねんご)ろに  
悟(さと)されて 筑紫(つくし)赤土命(あかつち)  
これお受(う)け 宇佐(うさ)の宮居(みやゐ)お  
改(あらた)めて 持子早子は  
新局(あらつぼね) 置(お)けば怒(いか)りて  
養(ひた)しせず 内宮(うち)に告(つ)ぐれば  
豊姫(とよひめ)に 養(ひた)しまつらし 新たに北の局に入った宗像命の子・豊姫が三姫を預かることになった。
こういうわけで宗像大社が三姫を祭神とすることになったのだろうか?
荒浪(さすら)なす 二荒浪姫(ふたさすらひめ)  
憤(いきどほ)り 簸川(ひかは)に怒(いか)り  
成(な)る大蛇(おろち) 世に蟠(わだかま)り  
胡久美らも 仕(つか)えて血脈(しむ)お  
奪(うば)ひ食(は)む 素戔嗚尊(そさのを)仕業(しわざ)  
味気(あぢき)なく 苗代(なしろ)重播(しきまき) 神田に種を幾度も播く
黒駒放(あおはな)ち 稔(みの)らず御稲(みぞ)の  
新嘗(にいなめ)の 神御衣(かんみは)織(お)れば  
殿(との)汚(けが)す これ糾(ただ)されて 天照神がこれを糾した。
素戔嗚尊(そさのを)が 一人(ひとり)被(かふ)むる 素戔嗚尊は一人で罪を被ることになった。
斎衣殿(ゐんはとの) 閉(とづ)れば怒(いか)る 花子姫が斎衣殿の閉じたので素戔嗚命が怒った。
斑駒(ぶちこま)お 甍(いらか)穿(うが)ちて 屋根の背に穴を開けて斑駒を投げ入れた。
投げ入るる 花子姫(はなこ)驚き  
梭(ひ)に破(やぶ)れ 神去りますお それに驚いた花子姫は、そのはずみで機の道具の梭(ひ)に自らを刺してお亡くなりになった。
泣く声に 君(きみ)怒(いか)りまし 花子姫の死を悲しむ泣き声を聞き、天照神はお怒りになった。
素戔嗚尊(そさのを)に 「汝(なんじ)汚(きたな)く  
国(くに)望(のぞ)む」 道(みち)なす歌(うた)に  
天(あめ)が下(した) 和(やわ)して巡(めぐ)る  
日月(ひつき)こそ 晴(は)れて明(あか)るき  
民(たみ)の両親(たら)なり    
素戔嗚尊(そさのを)は 岩(いわ)お蹴散らし  
なお怒(いか)る 君(きみ)恐(おそ)れ増(ま)し  
岩室(いわむろ)に 入(い)りて閉(と)ざせば 天照神の岩戸隠れといわれる場面。
伊雑宮の北にある天の岩戸神社にお隠れになられたのだろうか?
天(あめ)が下(した) 昼夜(かが)も紋(あや)無(な)し  
野洲川(やすかは)の 暗(やみ)に驚(おどろ)く  
思兼命(おもいかね) 手火松(たびまつ)に馳(は)せ  
子(こ)に問(と)いて 「高天原(たかま)に議(はか)り 手力雄命
祈(いの)らんや」 兵主命(つはものぬし)が  
「真栄木(まさかき)の 上枝(かんゑ)は瓊玉(にたま)  
中(なか)つ枝(ゑ)に 真悉(まふつ)の鏡(かがみ)  
下和幣(しもにぎて) 懸(か)け祈(ゐの)らん」  
鈿女(うずめ)らに 日陰蔓(ひかげ)お襷(たすき) 日陰蔓(ひかげかずら)は、シダ類ヒカゲノカズラ科の常緑多年草。
茅巻矛(ちまきほこ) 朮(おけら)お庭火(にはび) 茅巻矛(ちまきほこ)は、柄に茅萱を巻いた矛。
朮(おけら)は、生薬の一つ。白朮(はくじゅう)と蒼朮(そうじゅう)がある。漢方や信仰に無関心な人も、大晦日に京都祇園の八坂神社で行われる白朮詣(おけらまいり)のことは知っているのではないだろうか。白朮祭ともいい、白朮と柳に点じた種子火を大篝に移し、この朮火(おけらび)を吉兆縄に受け、消さないように回しながら家まで持って帰る初詣の姿は、毎年のようにテレビで放映される。
笹湯花(ささゆはな) 神座(かんくら)の殿(との) 笹湯花(ささゆはな)とは、巫女が神懸りをする前に行う湯立て。笹の葉を熱湯に浸して自分の体に振りかけ、手にもって祈ることをいう。
神座(かんくら)とは、神が降臨する座のことであろう。
神(かん)かがり 深(ふか)く議(はか)りて  
思兼命(おもいかね) 常世(とこよ)の踊(おどり)  
永幸(ながさき)や 俳優(わざおぎ)歌(うた)ふ 岩戸開きの中心舞台は京都府大江町にある天の岩戸神社だろうか?
光の直進という観点から考えて、お隠れになられた伊雑宮の北にある天の岩戸神社が中心舞台とは考えにくい気がする。
香久(かぐ)の木(き) 枯(か)れても匂(にほ)ゆ 「香久の木」とは橘(たちばな)のことで、天照神の坐す伊雑宮の南殿の橘をたとえたもの。すなわち、国常立尊の常世の道に基づいた政事を象徴的に表している。
しほれても良(よ)や あが妻(つま)  
あわ あが妻(つま)あわや しほ  
れても良(よ)や あが妻(つま) あわ  
諸神(もろかみ)は 岩戸(いはと)の前(まえ)に  
光門鶏(かしまとり) これぞ常世(とこよ)の 「カシマ鳥」とは、朝の光すなわち暁を告げる門にいる鶏の儀と考えられる。
永幸(ながさき)や 君(きみ)笑(ゑ)み細(ほそ)く  
窺(うか)がえば 岩戸(いわと)お殴(なぐ)る  
手力雄(たぢからを) 御手(みて)取り出(い)だし  
奉(たてまつ)る 兵主命(つはものぬし)が  
注連縄(しめなわ)に 「な帰(かえ)りましぞ」  
しかるのち 高天原(たかま)に議(はか)り  
素戔嗚尊(そさのを)の 咎(とが)は千暗(ちくら)の  
三段枯れ 髪(かみ)抜(ぬ)き一つ  
爪(つめ)も抜き まだ届(とど)かねば  
殺(ころ)すとき 向津姫(むかつひめ)より  
清雄鹿(さをしか)に 「大食物(うけもの)祈(いの)り 〔5-5〕に記されるごとく伊弉冉尊の死により大食御魂が分かれ生じた。ここの場合、これらの御魂を勧請し集合させて蘇生させたということであろう。
花子姫は「稚桜姫」ともいう。
蘇(よみが)えす 花子姫(はなこ)の四百祥(よもさ)  
償(つぐの)ゑば 祥禍(さが)お明(あ)かせよ  
素戔嗚尊(そさのを)が 仕業(しわざ)は血脈(しむ)の  
虫(むし)なれど 祥禍(さが)除(の)く獄舎(つつが)  
なからんやわや」    
勅(ことのり)お 諸(もろ)が議(はか)りて  
天(あめ)もとる 重(おも)きも血脈(しむ)の  
半(なか)ば減(へ)り 交(まじ)わり去(さ)ると  
菅笠(すがさ)青(あを) 八重(やゑ)這(は)ゐ求(もと)む  
下民(したたみ)の 流浪(さすら)やらひき  
大御神(ををんかみ) 知(し)ろし召(め)されれば  
天照らす 人(ひと)の面(おもて)も  
楽(たの)しむに 道清気(みちすけ)の歌 天照神が岩室より出て、天の道にさわやかな息吹が戻ったことを表す語。「清気」は「透け」にも通じるか?
天晴(あは)れ あな面白(おもしろ)  
あな楽(たの)し あなさやけ  
おけ さやけおけ  
あわれ 面白(おもしろ)  
さやけおけ あな楽(たの)し  
相(あひ)ともに 手お打ち延べて  
歌ひ舞ふ ちわやふるとぞ  
楽しめば これ神座(かんくら)に  
天照(あまて)らす 大御神(ををんかみ)なり  

 流浪(さすら)の身となった素戔嗚尊は、野洲川宮にいる姉の和歌姫の元を訪問。
 天之誓約といわれる場面につながる。

紀元前80,705年に伊雑宮から宇治精奇城(伊勢神宮)へ遷座、天照神の神上がり

 紀元前80,705年に伊雑宮にいて十二后が神上がられたので、内宮の瀬織津姫神と共に、宇治精奇城(伊勢神宮)に遷座。
 2万年経って鈴木が自生したのをみて天照神は天意を悟った。

 天照神が神上がられる時の物語である。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八「君臣遺し宣の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P172-199 )
  二十一(ふそひ)の鈴(すず)の 紀元前1,794,705年
120万6000千年。
百枝(ももゑ)のち 五代(ゐよ)玉杵尊(たまきね)の 豊受の神
伊佐子姫(いさこひめ) 七代(ななよ)の神の 伊邪那美命の父は豊受の神
高仁尊(たかひと)と 高日(たかひ)の西南(つさ)の 伊邪那岐命。高日は日高見の国。
筑波山(つくばやま) 伊佐川(いさかわ)離(はな)る 筑波山は日高見の西南に位置している
宮に居て 諾(うなづ)き編(あ)みて 婚礼の儀を行い拝礼を重ねて
木実(きみ)合(あ)ひて 名も伊邪那岐尊(いさなき) 木は男神、実は女神を意味する。
伊邪那美尊(いざなみ)の 天二神(あめふたかみ)の  
御子(みこ)無きお 故(かれ)玉杵尊(たまきね)の  
葛城(かつらぎ)の 山に祈れば 豊受神の葛城山の祈祷に関する記述はとても多い。〔4-15〕〔14-16〕〔16-21〕〔28-3・4〕。
 葛城の一言主神についての記述は〔9-12〕〔10-19〕。
 神代豊受大神日高見国の近き所に、「イトリ山」というのがあって、世嗣の御子をお祈り有りしや、遥かに遠ければ、今に残りその跡もありや覚束なし。
 大和国葛城山の麓の野夫の物語には、葛城山東面山間半腹の辺り、世俗に祈取(いのとり)山と名付くという。
 (上巻P309より)
天御祖神(あめみをや) 日(ひ)の輪(わ)の御魂(みたま)  
分(わ)け降(くだ)し 天照神(あまてるかみ)お  
生(う)み賜(たま)ふ 時(とき)二十一(ふそい)鈴(すず)  
百二十五枝(ももふそゐゑ) 三十一穂(みそひ)キシヱの 大濡煮尊の御世より120万7,531年
紀元前1,793,174年
初日の出 若日(わかひ)とともに  
生(あ)れませば 諱(いみな)若仁尊(わかひと) 元伊勢の天之岩戸神社に産盥(うぶだらい)が残されていることから推定して、天照神が誕生した場所は、元伊勢内宮の皇大神社がある場所かもしれない。
あるいは、産湯に使われる水が天之岩戸神社の産盥(うぶだらい)から酒折神社に運ばれたのだろうか?
産宮(うぶみや)は 原見(はらみ)酒折宮(さかおり) 今でいう「宮参り」を酒折神社でなされ、そして酒折神社で即位されたのだろう。
後に瓊々杵尊が朝間宮に造り替えている。
 ---<中略>----  ---<中略>----  
  時(とき)に伊雑宮(いさわ)の  
天(あま)つ神(かみ) 十二(そふ)の后(きさき)も  
神(かみ)となる 瀬織津姫(せおりつひめ)と  
大御神(ををんかみ) 宮(みや)遷(うつ)さんと  
御裳裾川(みもかわ)に 天(あ)上(のぼ)る道(ち)得(ゑ)て  
精奇城(さこくしろ) 宇治(うぢ)の宮居(みやゐ)に 伊勢神宮の創建記録。〔36-16〕参照。
紀元前80,705年
大濡煮尊の御代から2,920,000年に伊勢神宮(伊勢宇治宮)に遷座。
二万穂(ふよほ)経(へ)て 時(とき)に五十鈴(ゐそすず) 紀元前60,704年
大濡煮尊の御代から2,940,001年
宮(みや)に生(は)ゑ つらつら思(おぼ)す 鈴木(すずき)が自生する。
『植(う)えずして 生(は)ゑるも天(てん)よ  
わが命(いのち) 天(あめ)が知(し)らす』と  
八百神(やもかみ)お 召(め)して『われ世(よ)お  
辞(いな)まん』と 猿田彦命(さるた)に穴(あな)お  
掘(ほ)らしむる 『真名井(まなゐ)に契(ちぎ)る 紀元前60,704年
大濡煮尊の御代から2,940,001年
猿田彦命にお隠れの穴を掘らせた。
朝日宮(あさひみや) 同(おな)じ所(ところ)』と  
曰(のたま)えば 諸(もろ)驚きて  
留(とど)むれば 『いやとよわれは  
民(たみ)のため 苦(にが)きお食(は)みて ハラミ三草のこと。
百七十三万(もなそみよ) 二千五百年(ふちゐもとし)お  
永らえて 天(あめ)の楽(たの)しみ 天界高天原の精奇城宮で至楽の暮らしを送ること。
覚(おぼ)ゆれば 世(よ)に遺(のこ)す歌(うた)  
常(つね)に聞く 清雄鹿(さおしか)八咫(やた) 清雄鹿とは「トホカミヱヒタメ八神」のこと。八天神を移し作られた冠を「さおしか八咫冠」という。
わが冠(かんむり) 衣臣(はとみ)裳民(もたみ)に  
緒(を)お届け 天地(あわ)お束(つか)ねて  
日嗣(ひつき)なす 裳裾(もすそ)をくめと  
君民(きみたみ)の 教(おし)ゑ遺(のこ)して  
天(あ)に還(かえ)る とてな痛(いた)めそ  
わが御魂(みたま) 人(ひと)は天(あ)の裳(も)の  
上にある われは冠(かんむり)  
人草(ひとくさ)は 耳(みみ)近(ちか)き緒(お)ぞ  
胸(むね)清(きよ)く 身は垢(あか)つけど  
指神(さし)が見て 天(あめ)に告(つ)ぐれば  
清雄鹿(さおしか)の 八(や)つの聞(き)こえに  
現(あら)はれて 祈(いの)れもがも』と  
御裳裾(みもすそ)の 民(たみ)お撫(な)でつつ  
『清雄鹿(さをしか)の 清(きよ)きに神(かみ)は  
あり』と答(こた)えき    
 返(かえ)し 祝詞歌(のとうた)  
人(ひと)常(つね)に 神(かみ)に向(むか)はば  
世(よ)の身々(みみ)の 垢(あか)は天元(あもと)の  
清雄鹿(さおしか)に 清(きよ)め給(たま)ひて  
精奇城(さこくし)の 恩頼(ふゆ)の鏡(かがみ)に  
入(い)ると思(おも)ゑば    
また猿田彦(さるた) 『昔(むかし)授(さづ)くる  
逆矛柱(さかほこぎ) 美しき鈴 天逆矛柱のこと
地活(わいき)き太刀(たち) カカンノンデン 「カカン」とは篝火(かがりび)
「ノン」とは祝詞(のりと)
「テン」とは手振り(てぶり)
の訛音とする説を松本善之助氏は述べている。 〔序-註58 上巻P181〕〔14-2〕も参照。
時(とき)待(ま)ちて 道(みち)顕(あら)はせよ』  
また后(きさき) 『広田宮(ひろた)に行(ゆ)きて  
和歌姫(わかひめ)と ともにヰ心(ごころ)  
守(まも)るべし われは豊受神(とよけ)と  
ヲセお守(まも)る 伊勢(ゐせ)の道なり』  
また天児屋根(こやね) 『汝(なんじ)良(よ)く知(し)る  
竹子姫(たけこ)が子(こ) 奇彦(くしひこ)生(う)まれ  
直(す)ぐなれば 授(さづ)く御矛(みほこ)に  
鑑(かんが)みて 三諸山(みもろ)に入りて 竹子姫の子・奇彦は授けた逆矛を持って三諸山(三輪山)に窟に入り、時を待っている。
時(とき)待つも 道(みち)衰(おとろ)はば  
また出(い)でて 興(おこ)さんためや それも天の道が衰えるようなときは、また生まれ変わって道を復興させるためである。
汝(なんじ)また 鏡(かがみ)の臣(とみ)は  
軽(かろ)からず 神(かみ)お都(みやこ)に  
留(とど)むべし われも守(まも)らん  
これなり』と 御世(みよ)の御衣箱(みはばこ) 御在世朝政の御装束一箱
御璽(みをしで)と 『汝(なんじ)春日(かすが)よ  
遺(のこ)し物(もの) 多賀宮(たが)に持ち行(ゆ)き
捧(ささげ)げよ』と 親(みづか)らこれお  
授(さづ)けます 春日(かすが)は君(きみ)に  
奉(たてまつ)る 神の璽(をして)と 鵜葺草葺不合尊へ奉った。
清雄鹿(さおしか)の 冠(かんむり)と衣裳(はも)は  
菊散錦(ここちり)ぞ 行幸(みゆき)の神輿(みこし)  
真名井(まなゐ)にて 天照神(あまてるかみ)は 紀元前60,674年
大濡煮尊の御代から2,940,031年
猿田彦命に穴を掘らせてから30年後に元伊勢内宮で神上がり。
内(うち)つ宮(みや) 豊受(とよけ)は外宮(とみや)  
故(かれ)春日神(かすが) 送りてのちは  
勤(つと)め降(お)り 三笠社(みかさやしろ)の  
魂(たま)返(かえ)し 国(くに)治(をさ)まれば  
枯(か)れも無し 政(まつり)の紋(あや)お  
三(み)つ染(そ)めて 一つ持ち行(ゆ)きて  
日読みなす 天二枝命(ふたゑ)に授(さづ)け  
御裳裾(みもすそ)の 精奇城(さこくしろ)宇治(うぢ) 精奇城宇治を改めて、天照神の「内つ宮」と称する。
改(あらた)めて 天照神(あまてるかみ)の  
内(うち)つ宮(みや) 八百(やも)仕(つが)ふ神  
侍(はんべ)りて 胙(ひもろぎ)捧(ささ)げ  
天(あ)に応(こた)ふ 伊勢(ゐせ)の道(みち)受(う)く  
神臣(かんとみ)の 仕(つか)ふ神(かみ)らが  
侍(はべ)るゆえ 内侍所(うちはべどころ)  
春日神(かすが) 太祝詞(ふとのりと)事(こと)お 内侍所に天児屋根命が仕え、太祝詞を掌る。
掌(つかさど)るかな    
六万年 経(へ)て去年(こぞ)尽(つ)きる 紀元前705年
大濡煮尊の御代から3,000,000年
鈴木の折鈴。
折鈴(さくすず)ぞ