瑞霊苑とは、不動岩に真向かいに建つ弥勒神像【1】ここだけは紹介しておきたい!

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熊本県山鹿市蒲生( いつもNAVIによる広域地図
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大本教の熊本本苑 | 山鹿市の瑞霊苑(ミロク岩〜不動岩) | 小国の杖立て温泉の白糸の滝にある み手代 歌碑

瑞霊苑とは、不動岩に真向かいに建つ弥勒神像

参拝履歴

訪問日:未定

瑞霊苑とは、不動岩に真向かいに建てられている弥勒神像

準備中

瑞霊苑の「弥勒最勝妙如来」(弥勒神像)

■みろく最勝妙如来
 大正12(1923)年8月、杖立温泉湯治をおえて、大正12(1923)年9月2日関東大震災の翌朝、聖師様は熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現在は山鹿市)の不動岩へ登山されることとなりました。
 まず、その下の小さな家に小憩されました。
「聖師様、小さい家で申し訳ございません」
 と信者が申し上げますと、
「王仁はこんな家が大好きじゃ」
 と言われ、その家の中に祭ってありました観音様を見て
「王仁がいつも観音様を書く時に見えていた観音様はこれだ」
 と喜んでふれられますと、前後に一尺も石像が動き出しまして、しばらくたってようやく止りますと坐って
「王仁が触ったら喜んで動かれるので、倒れてはいかぬとつかむとますます動かれるので持っていた」
 と申されました。その瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。
「これは観音様じやない。弥勒最勝妙如来(弥勒神像)」
 と示されました。ならんで写真を撮影されますと、聖師様と全くの等身大でした。
( 聖師様は大正十四年六月三十日に弥勒神像のあたり一帯を瑞霊苑と命名されました。聖師様がこの地に参拝されますと、きまってどこかで天災地変があります。関東大震災号外はここで受け取られました。
 昭和九年九月二十一日参拝されましたときは室戸台風(死者・行方不明三千三十六人)による大阪の風水害のおりで、九州別院から代理を派遣された時でありました)
 (尾形太郎作氏、桧浦教友氏拝聴)(参照)『霊界物語』第三十三巻校定版口絵写真

 引用先:

http://sekaihinagata.jimdo.com/%E6%96%B0%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%85%89-%E4%BA%88%E8%A8%80%E9%83%A8%E5%88%86/

王仁三郎が入蒙する前に弥勒神像を外に出す

■大本の神器「御手代」と聖師日和
 大正12(1923)年8月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。
 この時、誕生日の旧7月12日(新の8月23日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子の裏に

 この杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな王仁

(此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁)

 表に

 天地の身魂を政ふこの杓子心のままに世人救はむ王仁

(万有の身魂をすくう此釈氏心のままに世人す九へよ王仁)

(※)括弧内は、杖立の白糸の滝下に建立された御手代歌碑の歌詞)と揮毫され、◎の拇印を押されて来訪する大本信者に授けられた(歌詞は多少の相違がある)。
 これが大本の神器「御手代」の発祥である。
 小国の信徒は聖師のお土産に竹の杓子三百本を贈った。
 聖師はこの竹の杓子に揮毫され、◎の拇印を押して、大本の熱心な信徒や宣伝使に授与された。
 大正甲子13(1924)年6月21日、蒙古のパインタラの遭難の時に、この御手代が日本人に拾われて、鄭家屯の日本領事館に届け出たために救出された。聖師が地上の神人を救うために授けられた神器御手代は、まず聖師自らを救った。
 聖師が杖立温泉に滞在中に、エスペラント辞典を書きあげられたことも忘れることはできない。
 三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)は歌碑として、歌詞を引きのばして、杖立温泉の聖師が
「神と人のえにしを結ぶ白糸の滝の流れは世を洗ふなり王仁」
 と詠まれた白糸の滝の下に、昭和38(1963)年5月31日に出口直日建之として、同日に直日教主臨席のもとに除幕された。
 降り続いて九州全土の麦を腐らした雨もたちまち晴れあがった。
 台風銀座といわれた九州もこれより、台風は縦走しなくなった。
 実に神徳は無限である。
 聖地においては、聖師が家外に出られると必ず快晴となるので、「聖師日和」と唱えることとなっている。
 「みてしろ歌碑」建碑除幕式には、さしものなが雨も晴れあがった。

■みろく神像と王仁三郎の蒙古入と王仁三郎を救う御手代

 大正12(1923)年9月、聖師様は聖地へ帰着されますと、
「早くみろく神像を家の外に出さなければ活動が出来ない。そして雨ざらしておくように」
 とのお便りがありましたので、当時山鹿町長でありました江藤寛治氏が熱心に村民を説きふせて、家の外に簡単な屋根をするとの条件で決定し、聖師へその由をお伝えしました。
 手紙を受け取った聖師様は、大正13(1924)年2月13日午前3時、綾部から突然入蒙された。
 弥勒神像を出しますのに、裏壁を破って神像に疵が書かないようにと、縄でぐるぐる巻いて外に出しました。
 大正甲子13(1924)年6月21日、パインタラにてガンジがらみにしばりあげられました聖師は、自らが大本の神器として杖立温泉で染筆された御手代が日本領事館の手に入り、奇蹟的に救出された。
 パインタラで逮捕された時に
「大成功だ」
 と叫ばれたように、世界の王仁三郎と仰がれることとなる。
 世界の大池に投じた王仁三郎の一石は大反響を生む。

■王仁は日本人だ。

 王仁がパインタラの獄舎につながれている時に、日本領事館から土屋書記生が、御手代を証拠として、救出に来たおりに、支那官憲は支那人だといって交渉に応じない。
 談判の声が、牢まで聞こえてきたので、王仁は大声で
「王仁は日本人だ」
 と叫んでやった。土屋書記生の耳に入り、
「日本人がいるではないか」
 と、ドカドカと獄舎に入って来て、
「あなたが出口さんですか、もう私が来たから大丈夫です」
 と言って帰って行った。この時ほど日本の国はありがたいと思った事はなかった。
 七月五日に鄭家屯の領事館の獄にうつされて、ホッと安心した。
(鄭家屯領事館領事吉原大蔵、外務書記生土屋波平)
(参照)『霊界物語』「特別篇入蒙記」

 引用先:

http://sekaihinagata.jimdo.com/%E6%96%B0%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%85%89-%E4%BA%88%E8%A8%80%E9%83%A8%E5%88%86/

パインタラの遭難後、弥勒神像のある一帯を瑞霊苑と命名

 大正14(1925)年6月30日に、聖師は熊本県鹿本郡三玉村蒲生にある聖師と等身大の弥勒神像の奉斎された聖域を瑞霊苑と命名された。
 沓島、冠島、神島と同様に祠官を置き、尾形太郎作氏を祠官に任命された。
「神像は『霊界物語』第二巻に示された美山彦命の造りし神岩(土地で不動岩という)に向かいあうように鎮祭せよ」
 と、聖師の示されたままに、大正甲子13(1924)年3月3日に鎮祭された。
(参照)
 瑞霊苑碑建立出口直日大本三代教主の揮毫の「瑞霊苑」の文字を、熊本県菊鹿町より出た十個の岩石の中の巨石に刻み、弥勒神像の北側に、みろく岩(不動岩)に向けて、青年時代の夢のままに建立させて頂く。
 昭和45年10月25日、弥勒神像の47周年の大祭に引きつづき、瑞霊苑碑の除幕式が直日教主によって行われた。山鹿市長古閑一夫氏を始め、九州地方の大本信者が参集して盛大に執行された。直日教主によって木花桜が植樹された。碑のまわりには、天恩郷の植物園から七草が移し植えられた。
(ちなみに、昭和29年4月1日に土地の名称は、合併によって山鹿市大字蒲生に改称された)

 引用先:

http://sekaihinagata.jimdo.com/%E6%96%B0%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%85%89-%E4%BA%88%E8%A8%80%E9%83%A8%E5%88%86/

不動岩 〜 『霊界物語』「第三章 美山彦命の出現 〔五三〕」 

 ここに天使・大八洲彦命、真澄姫のもつとも信じ頼せる神人に、美山彦命という智勇兼備の神将があつた。この神人は常に帷幄に参じて、すべての画策を大八洲彦命にすすめてゐた。竜宮城の神司は、大八洲彦命の参謀にして、かつ信じ任ある美山彦命のあることは仄に聞きいてゐたが、その風貌に接した神司は一柱もなかつた。しかしいつとはなしに美山彦命の智勇兼備の声望は、大八洲彦命の驍名とともに広ひろく世界に喧伝されてゐた。
 奸悪なる棒振彦はその消息を知つて、ここに美山彦命と名を偽り、また木常姫の再来なる高虎姫は美山彦命の妻神・国照姫と偽り名乗つた。しかるに真正の美山彦命は、大八洲彦命、真澄姫の内命によりロツキー山に立てこもり、魔軍の内情を偵察してゐた。このとき、美山彦命の使ひとして、岡野姫は天の鳥船に乗りて竜宮城にきたり、
ロツキー山は棒振彦、高虎姫の魔軍のために八方より包囲せられ、美山彦命は危機一髪のあひだに立てり、一時もはやく真澄姫は援軍を率ゐて来りたまへ』
 と密告した。真澄姫は大いに訝り、
『われはかよわき女なり、しかるに大八洲彦命を差し措き、われに救援のため出陣を乞ひきたるとは、実にその意をえず』
 として直ちにこの由を稚桜姫命に奏上したまうた。この美山彦命は全の偽名であつて、実際は棒振彦の計略であつた。
 稚桜姫命は、この密書を怪み、大八洲彦命に報告された。大八洲彦命は直ちに敵の奸策なることを看破された。このゆゑは、真の美山彦命は神示によつて、東方に位する安泰山に第二の陣営をつくり、既に出陣してをつたからである。そして後には岩をもつてわが姿をつくり、また諸々の従臣の形をも岩にて作り、これをロツキー山の城塞に立ておいたのである。
 一方、ロツキー山に駐屯せる美山彦命の危急は迫りと伝へ聞きたる神司は、とるもの取りあへず、ロツキー山さしてめいめい神軍を引率し救援にむかうた。そのとき棒振彦、高虎姫は、山腹に待ち伏せ、みづから美山彦命、国照姫と称し、あまたの正しき神司を誑ぶらかしてわが勢力を集めむとした。味方の神将香川彦、広足彦、滝彦、豊彦、神山彦はそれを真の美山彦命と信じ、率先して棒振彦の魔軍に加つた。美山彦(棒振彦の偽名)は諸神司に向つて、
『竜宮城はすでに棒振彦、高虎姫の手に陥いれり。これより進すすんで竜宮城を回復し、稚桜姫命以下の諸神司を救ひ奉らむ』
 と、いかにも言葉たくみに諸神司を詐り、反対にふたたび竜宮城に迫むとした。
 この時、大八洲彦命は安泰山の美山彦命とともにロツキー山の麓に現れ、
『真の美山彦命はここにあり』
 と大音声に呼ばはりたまえば、棒振彦、高虎姫は謀計の破れたるに驚き、散乱せむとする魔軍をかきあつめ、西方の海に向つて姿を隠した。かくして悪神の計画は見事失敗に帰した。
 一旦棒振彦を真の美山彦命と信じて参加した諸神将は、ここに全夢のさめたるごとく、大八洲彦命にその不覚不識を謝し、美山彦命にしたがひて安泰山に出軍した。このとき早くも、ロツキー山は棒振彦の占領するところとなつてゐた。しかるに美山彦命以下の石像より常に火を発つして、棒振彦の魔軍を滅茶々々になやませしかば、棒振彦はつひにロツキー山を捨すてて、鬼城山の高虎姫の陣営に退却するの止やむをえざるに立ちいたつた。

  こがらしや 犬のほえつく 壁の蓑

(大正一〇・一〇・二七 旧九・二七 桜井重雄録)

山鹿市の瑞霊苑の地図

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