〔み手代〕杖立温泉名物の竹の杓子に出口王仁三郎が揮毫【1】ここだけは紹介!

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熊本県阿蘇郡小国町杖立温泉郷( いつもNAVIによる広域地図
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大本教の熊本本苑 | 山鹿市の瑞霊苑(ミロク岩〜不動岩) | 小国の杖立て温泉の白糸の滝にある み手代 歌碑

杖立温泉の「み手代歌碑」とは、杖立温泉名物の竹のしゃもじに歌を書いた

参拝履歴

訪問日:未定

「み手代」とは、杖立温泉名物の竹の杓子(しゃもじ)に歌を書いたもの

■ み手代の意義として【出口王仁三郎の著書より】 大正十五年六月十五日。

 古えは地方によって、その家の主婦でなければ食物を授受するの権利を有しなかった。それゆえ御飯の時の碗に盛る飯なども、必ずその家の主婦がこれを盛るという風習になって居たものである。
 古えの民謡にも
 添うて八年子のある仲だ 嫁に杓子を渡さんせ
 年がよりても耄碌(もうろく)しても 嫁に杓子は渡されぬ
 などとあるのを見ても、一家経済上の権利授受の代表たるべきものは、杓子(しゃもじ)であったことが分明である。
 上の二首の民謡の一は、嫁と姑との中に這入った婿の歎息で、一はあくまでも主婦の権利を持続しようとする姑の主張を謡ったものである。
 しかし嫁を貰うとすぐに杓子(しゃもじ)の権利を嫁に譲る姑も少くはなかったのである。
 この権利を嫁に譲ること、すなわち姑が嫁に世帯をまかせるを杓子(しゃもじ)を渡すと云い、それから以後は、飯を嫁に盛らせるのである。右のごとく昔は杓子(しゃもじ)は生命の源泉たる食物を盛るため、一種の主婦権として貴重視されて居たのである。
 大本において大正十二年以来、御手代(みてしろ)として杓子(しゃもじ)を信仰堅実なる信者に渡すことに神定されたのも未申(ひつじさる)の金神瑞(みづ)の大神が、恰度姑が嫁に権利を譲渡すると同様に、治病一切の神権を譲って下さるという御経綸であって、杓子(しゃもじ)の拝戴者は実に神の殊恩に浴したる人というべきものである。御手代の神力無限なる理由は、実にこの意義から特別の御神護あるものと察することが出来るのである。 また盃や茶碗、拇印なども御手代の一つであって、杓子(しゃもじ)と同様の御神護あるべきものである。このことは大本信徒はすでにすでに実験されて居るはずである。

大本の神器「御手代」、みろく神像と蒙古入と御手代

■大本の神器「御手代」と聖師日和
 大正12(1923)年8月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。
 この時、誕生日の旧7月12日(新の8月23日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子(しゃもじ)の裏に

 この杓子(しゃもじ)我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな王仁

(此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁)

 表に

 天地の身魂を政ふこの杓子心のままに世人救はむ王仁

(万有の身魂をすくう此釈氏心のままに世人す九へよ王仁)

(※)括弧内は、杖立の白糸の滝下に建立された御手代歌碑の歌詞)と揮毫され、◎の拇印を押されて来訪する大本信者に授けられた(歌詞は多少の相違がある)。
 これが大本の神器「御手代」の発祥である。
 小国の信徒は聖師のお土産に竹の杓子三百本を贈った。
 聖師はこの竹の杓子に揮毫され、◎の拇印を押して、大本の熱心な信徒や宣伝使に授与された。
 大正甲子13(1924)年6月21日、蒙古のパインタラの遭難の時に、この御手代が日本人に拾われて、鄭家屯の日本領事館に届け出たために救出された。聖師が地上の神人を救うために授けられた神器御手代は、まず聖師自らを救った。
 聖師が杖立温泉に滞在中に、エスペラント辞典を書きあげられたことも忘れることはできない。
 三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)は歌碑として、歌詞を引きのばして、杖立温泉の聖師が
「神と人のえにしを結ぶ白糸の滝の流れは世を洗ふなり王仁」
 と詠まれた白糸の滝の下に、昭和38(1963)年5月31日に出口直日建之として、同日に直日教主臨席のもとに除幕された。
 降り続いて九州全土の麦を腐らした雨もたちまち晴れあがった。
 台風銀座といわれた九州もこれより、台風は縦走しなくなった。
 実に神徳は無限である。
 聖地においては、聖師が家外に出られると必ず快晴となるので、「聖師日和」と唱えることとなっている。
 「みてしろ歌碑」建碑除幕式には、さしものなが雨も晴れあがった。

■みろく神像と王仁三郎の蒙古入と王仁三郎を救う御手代

 大正12(1923)年9月、聖師様は聖地へ帰着されますと、
「早くみろく神像を家の外に出さなければ活動が出来ない。そして雨ざらしておくように」
 とのお便りがありましたので、当時山鹿町長でありました江藤寛治氏が熱心に村民を説きふせて、家の外に簡単な屋根をするとの条件で決定し、聖師へその由をお伝えしました。
 手紙を受け取った聖師様は、大正13(1924)年2月13日午前3時、綾部から突然入蒙された。
 弥勒神像を出しますのに、裏壁を破って神像に疵が書かないようにと、縄でぐるぐる巻いて外に出しました。
 大正甲子13(1924)年6月21日、パインタラにてガンジがらみにしばりあげられました聖師は、自らが大本の神器として杖立温泉で染筆された御手代が日本領事館の手に入り、奇蹟的に救出された。
 パインタラで逮捕された時に
「大成功だ」
 と叫ばれたように、世界の王仁三郎と仰がれることとなる。
 世界の大池に投じた王仁三郎の一石は大反響を生む。

■王仁は日本人だ。

 王仁がパインタラの獄舎につながれている時に、日本領事館から土屋書記生が、御手代を証拠として、救出に来たおりに、支那官憲は支那人だといって交渉に応じない。
 談判の声が、牢まで聞こえてきたので、王仁は大声で
「王仁は日本人だ」
 と叫んでやった。土屋書記生の耳に入り、
「日本人がいるではないか」
 と、ドカドカと獄舎に入って来て、
「あなたが出口さんですか、もう私が来たから大丈夫です」
 と言って帰って行った。この時ほど日本の国はありがたいと思った事はなかった。
 七月五日に鄭家屯の領事館の獄にうつされて、ホッと安心した。
(鄭家屯領事館領事吉原大蔵、外務書記生土屋波平)
(参照)『霊界物語』「特別篇入蒙記」

 引用先:

http://sekaihinagata.jimdo.com/%E6%96%B0%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%85%89-%E4%BA%88%E8%A8%80%E9%83%A8%E5%88%86/

杖立温泉の始まり 〜 神宮皇后に始まるとされる

 杖立温泉の歴史は1800年の昔にさかのぼります。
 神功皇后が当時の新羅に出兵を行った際のこと、亡くなられた仲哀天皇の御子をみごもっておられた皇后は、戦いが終わり筑前の宗像まで引きあげたところで産気づかれました。
 その時現れた白髪の老人が
「これより東南に川をさかのぼると霊泉がある。これを汲み産湯に用いれば皇子は千歳の寿を保たれるであろう。」
 と告げて消えてしまったそうです。
 そこで付き人は、険しく続く山々越え、この地に達し、中龍頭に似たおおきな岩窟から立ち上る一筋の湯気を見つけました。これを汲み取り、皇后のもとへ持ち帰り、産湯として奉ったのです。こうしてお生まれになったのが後の応神天皇であり、この霊泉こそ杖立温泉だったと伝えられています。
 「杖立」という地名についても、不思議な言い伝えがあります。
 平安時代の初めの頃、旅の途中で訪れた弘法大師空海は、温泉の効能にいたく感銘されたそう。そして持っていた竹の杖を立ててみたところ、節々から枝や葉が生えてきたのが、その名の由来とか。
 また、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、帰る頃には杖を忘れるという、温泉の霊験をたたえた由来もあると言われています。

阿蘇郡小国町の杖立温泉のみ手代歌碑の地図

阿蘇郡小国町の杖立温泉のみ手代歌碑の地図