契約箱(アーク)はどこにある?【1】ここだけは紹介しておきたい!|兵庫県

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日本に運ばれてきたといわれる契約箱(アーク)はどこにある?・・

 日本に運ばれてきたといわれる契約箱(アーク)はどこにある?

淡路島の元井戸神業白山義高が発掘したイスラエル遺跡魚谷佳代氏が開いた紫苑山(千ヶ峰トライアングルの中心)
古茂江の小磯にあるイスラエル遺跡の地図

これは私の推論なのでファンタジーとしてお読みください

 これは私の推論なのでファンタジーとしてお読みください。
 こういう推論って本当に面白いですね。

 しかし、65年前に古代ユダヤ遺跡として実際に発掘調査されたことは事実です。

 単純な事実から始めてみて、次に、こういう話は本当にファンタジーなのか?、あるいは、どの程度まで現実性があるのか、と考えたほうが実りが多い。

 2017年3月10日に記述、成田亨。

契約箱(アーク)はどこにある?

 私がモーゼの妻・ツイポラに誘われて、能登半島を訪ねたのは1996年9月19日(木)のことでした。
 竹内文献が伝えるようにモーゼは能登半島に渡ってきていて、800歳になったころ、イタリアに渡り、イタリアを建国されたらしい。
 もし、巷で言われるように、契約箱が日本に渡ってきていたとすると、モーゼのいる場所に置かれるはずなので、神様に
「契約箱(アーク)は能登半島にあるのですか?」
 と質問したことがあります。
 その時の神様の返答は
「契約箱(アーク)はない」
 というものでした。
 それ以降、契約箱(アーク)の所在の追及はしないでいたのですが、今回2017年5月14日の式典と祭典の準備を進めているうちに、ヒョンなことから、
「契約箱(アーク)って燃やされているので、それで無いんだ」
 ということが判ってしまいました。

 2017年1月4日夜、魚谷佳代さんと話していて、こんな会話になりました。

「徳島の人たちは契約箱(アーク)は剣山にあるっていうんだけど、そう思えないところがあるのよね」
「淡路島と京都の籠神社の関わりの深さから言うと、契約箱(アーク)があるのは籠神社じゃないかしら、となんとなく思うのよね」
 私は
「神様に契約箱(アーク)はない、って聞いているよ」
 と伝え、私と魚谷さんで意見交換していたわけです。
 その1月4日の夜、どうしても気になって、『かごめかごめ』の唄をヘブライ語で読み解くとどうなるのか、とチャレンジしてみたわけです。
 すると、その結果、
 契約箱(アーク)は燃やされており、その燃やされた跡は、水が引けるような状態にして放置された状態になっている、と読めるわけです。
 この状態は、まさに菰江のユダヤ遺跡の状況にピッタシ当てはまっている!
 契約箱(アーク)が燃やされて無くなっているので、モニュメントとして御神輿が作られ、同時に『かごめかごめ』の唄が神様から子供の口を借りて降ろされた。
 『かごめかごめ』の唄は、空海の作品ではなくて、神様が子供の口を借りて降ろされた御神意を込めた歌だった、と分ってきたわけです。
 淡路島の地元の方々に、
「『かごめかごめ』の唄の発祥は、淡路島の洲本であり、一之宮の伊弉諾神宮だよ」
「神輿の発祥は、淡路島だということになりそうだよ」
 とも伝えています。

 契約箱(アーク)の中にあったモーゼの十戒石は神隠し状態。

なぜ契約箱が日本に運び込まれなければならなかったか?

 紀元前717年に御神木中の御神木が枯れます。
「スズキ(鈴木)」というのは、寿命が6万年の御神木中の御神木です。
 アバターの「魂の木」をイメージしていただいた方が分りやすい。

アバターの「魂の木」

 この「スズキ(鈴木)」の苗木は、鵜葺草葺不合尊の末期に見つかりませんでした。
「スズキ(鈴木)」が枯れて6年経て「武仁尊(神武天皇)」が誕生し、この御神木中の御神木の苗木が見つかることが期待されたのですが、苗木が発見されることなく、現代まできています。
 この結果、紀元前717年以前に神が製作に関わった御神器は日本に回収されることになります。
 契約箱は、神の力があって効力を発揮するのに、神の力の源泉である「スズキ(鈴木)」の苗木が見つからないため、契約箱、アロンの杖、マナの壺の回収が急がれたのだろうと思います。

 特に契約箱は超常的能力を秘めたエネルギーボックスです。

「スズキ(鈴木)」が枯れ、神々の能力の源泉が失われたので、神々が急速に神上がり始めます。
 アブラハムを指導された出雲の天之蕗根命(大己貴命)は、神武天皇が誕生されると同時に神上がります。

出雲の天之蕗根命(大己貴命)

アブラハム

 鵜葺草葺不合尊は武仁尊(神武天皇)が15歳の時に神上がります。
 天子屋根命は武仁尊(神武天皇)が26歳のときに神上がります。
 多くの神々が神上がってしまったため、日本は乱れはじめ、ついに武仁尊(神武天皇)45歳の時、大和の長髄彦の乱を鎮める必要が生じます。
 乱れ始めた世界に、契約箱のような超常的御神器があると、この超常的御神器の争奪戦が始まるのは時間の問題だったのでしょう。
 こうして、回収が急がれた。
 契約箱(アーク)を淡路島に運び入れ、契約箱(アーク)が焼却されるときの衝撃波を和らげるために、アロンの杖とマナの壺はそれぞれ山口県と丹後半島に運び込まれた。
 淡路島でも、契約箱(アーク)が焼却されるときの衝撃波を和らげるために、いくつかの山々に衝撃波を分散させる手配をとり、西日本全体の土地のエネルギーを使って焼却せざるを得なかったのでしょう。
 しかも、伊弉冉命が神上がる原因となった「ミホト」の火傷跡を使わざるを得なかった。
 それほど契約箱(アーク)というのは強力な御神器だったのだろう思います。

白山義高が発掘した古代ユダヤ遺跡

白山義高が古代ユダヤ遺跡

 

 『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』PP 37 - 38で武智時三郎氏は次のように述べている。

「 或いは、これがモーゼのもたらしたイスラエル文化の記念塔としての遺跡ではあるまいか、と疑問を以て調査すればするほど、その濃厚の度合が増していく。現在のところ、これがモーゼの墓であるとの断定はできないがモーゼの宗教文化を伝えた記念塔であるとの考証は立派に成り立つ。それは、この塚の名が小磯神社の名教を以て、エル、エロヘ、イスラエルの家のマナの体系を、その施設に遺憾なく発揮していることに於いてである。 」

 武智時三郎氏は「モーゼのもたらしたイスラエル文化の記念塔」という感想を持たれていたようだ。

 そうだとすると、モーゼが最初に日本に立ち寄られたのは淡路島だったということになり、この淡路島から三重県菰野に渡り、近江に渡り、能登半島に渡って行ったのだろう。
 能登半島では、
「モーゼは天之鳥船に乗ってやってきた」
 と伝えている。

 『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』PP 8 - 14

 皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される(白山義高) 

 其の当時(昭和10年)の私には、出口聖師の曰はれた、
「お前は一宗一派に囚はれてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ。」
 と。
 教えられたお言を理解することができませんでしたが、聖師は、当時の情勢の変遷に就て、次の如く語られました。

 

「現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。
 如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤ日本の完全な提携によることは、既定の事実である。
 さうしない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
 眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることはできない。
 眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、まことの宗教を知る者はない。これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた気違ばかりの世界となる。皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか。」
 と相談をもちかけられました。

 

 私は一議に及ばず従順に「私の出来る事なら」とお引受けをいたしました。
 すると聖師のいはれるには、
皇道大本の究極の宗教原理を示す雛形建設の必要がある。それでは淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。然し実際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、淡路島の古文化遺跡の史料調査をして欲しい」
 と要所要所の差図を受けました。

 

 間もなく第二次大本弾圧があって、出口聖師は投獄され、同時に皇道大本の宗教的雛型たる神殿は取拂はわれてしまいました。これも何かの雛型の教の部類に入るのでありませう。
 昭和十七年八月、私共の井戸掘の機が熟して、着手の段取になると出口聖師は仮出獄の恩典に浴しました。私は井戸掘着手報告のために、京都府亀岡町に向ひました。当時はまだ面会禁止でありましたが、秘かにお会ひすることが出来ました。同伴者は井上功氏でありました。

 

 色々とお話のあった後、
井戸掘が始まる相で目出度い。これは私の無上の歓喜とするところだ。この井戸は元井戸と命名する。最早元井戸さへ出来れば、一安心だ。この意義と目的に就ては、これから月に三四日づゝ講義すれば、大体が解るであらう。但し時節到来まで、他言は無用。元井戸が出来たなら、宗教の目標が出来る訳であるから、そのうち、お前にも解るやうになるであらう。解って貰はねば大事のことを頼むことも出来ぬからな。元井戸が完成する時分には、この戦争も終るであらう。勝つべき戦争がな。忘れんようにせんと負けて勝つ秘法も消えてしまふがな。本当の神業奉仕は、それからだがな。兎に角、元井戸は永久保存の方法をとって貰い度い。こゝも世界の聖地になるだらう。一隅にお宮を建てて、祭るよう。御神体は、その時に下げませう。さうしているうちに、時機が到来して、ユダヤ人とのつながりが自然に出来るであらう。そのためにはアメリカユダヤに重点を置いて大いに研究するがよい。そのうちに、ユダヤ人もユダヤ国を再建するであらう。これも世界国の雛型だ。」

 

 それ以来、私は元井戸の工事を急ぐと共に、毎月のやうに二三日づゝ京都府亀岡へ通ひました。終戦近くの十九年十月には、元井戸が完成し、元井戸の敷地内にささやかな神の祠も出来上ったので聖師に報告すると、聖師は、大本開教当時から保存されてあった銀紙の短冊に御神号を認められて
 「これを御神体とせよ」
 と下されました。その時の聖師のお話は、
「この御神体は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差図する。この雛型行事の上にも、第一に淡路の神秘が開発されねば、「不二と鳴門の大本の仕組」は完成せぬ。不二と鳴門の仕組に就ては、皆の者が知ったか振をして、種々と取沙汰をするが、この「大地六変に震動す」の世界文化界の大問題は誰にもわかっていない。」
 と語られました。それから間もなく、終戦となり、聖師から御神体を近江へ移せと指示されたので、滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸は、その儘の姿で保存してゐます。

 

 私は昭和二十二年十二月聖師にお目に掛ったのが最後でありました。
 その時のお話に
元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教が子の一同に会する塲面となる。この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。淡路の霊山諭鶴羽山の山腹にある子宝温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開発することが大切である。その時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を広く世界に告げ知らす必要がある。
 かうなると、日本とイスラエルに、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣伝が始る。その頃には、自然に之に当るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰ひ度い。然しわしはモー来月からお前の世話することが出来ない。」
 と申渡されましたが、聖師は翌年一月十九日に昇天されました。

 

 私は不二の仕組も、鳴門の仕組も、何が何やら判らないけれども、只管、忠実に出口聖師の筋書通りに突進して、遂に古茂江小磯の古代イスラエル文化遺跡の聖地に日本の国旗とイスラエルの国旗を交叉して、これを広く全世界に告げ知らすまでの役目は果しました。
 これから聖師の示された雛型通に進んで行けば、諭鶴羽の山腹の子宝温泉でも開鑿して、脉々と涌き出る温湯の出口でも発見すれば、其の血(智)湯津石村に走りつきて、成りませる神の名は、石拆神、次に根拆神次に石筒之男神となるのでありませうが、徒に稱名ばかりしていても、何の利益もありさうにもありません。問題は走りつくべき地(智)の在り方であります。さて、これから先はどう行むだらよいでせうか。
「その心配には及ばない。神業に当るべき人材は用意してある。」
 と。
 聖師は、この預言を遺して昇天されたのであります。考へるまでもなく、天のエルサレム(平和神)の、雛型を地上に移す大神業が、一人や二人の少人数で出来るものではない。ヨハネ黙示録を見ても、
 視よ羔羊シオンの山に立ちたまふ。十四万四千の人、これと偕に居り、その額には羔羊の名及び羔羊の父の名記しあり
 とありますから、そのうちにこれ等因縁の用材が集って、全世界国家建設といふ大神劇を始め呉てれるであらうと、高を括って納っていることの出来ないのは、差迫った今日の問題、発掘した古代イスラエル文化遺跡の歴史科学的の実證であります。この実證的証明によって、この遺跡の久遠の文化価値を高揚するの挙に出なければならぬは申すまでもありません。



 問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは

 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、四州園内の小磯とよばれる景勝地の 海岸に突出した盤岩の岬に秘められた問題の 古代淡路文化遺跡の実相が、遂に多人数立会いの許に確認されました。
 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる 火と水との作用で製作した 女の陰所(ほど)の彫像でありました。
 今から三十年程前に一度発掘したことがあって、この預期せぬ工作物を発見したことがあるが、祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。



【地図】洲本市古茂江の小磯で契約箱(アーク)はどこにある?

 古茂江の小磯で契約箱(アーク)はどこにある?周辺  

【地図】淡路島の元井戸周辺

 【地図】淡路島の南部  

【地図】淡路島の南部