辻天水と白山義高の淡路元井戸神業【1】ここだけは紹介しておきたい!|兵庫県

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辻天水と白山義高で行った淡路島の元井戸神業・・

 辻天水と白山義高で行った淡路島の元井戸神業

淡路島の元井戸神業白山義高が発掘したイスラエル遺跡魚谷佳代氏が開いた紫苑山(千ヶ峰トライアングルの中心)
元井戸の地図

参拝履歴

出口王仁三郎に「とどめの神業」を託されたのは白山義高ではないか

 『岡本天明伝 [日月神示]夜明けの御用』ヒカルランド 黒川柚月著 PP 352 - 354

 ◆「最後の示し」と天明の最後( PP 352 - 354 )

 昭和63年4月9日の『至恩通信 163号 』に、次のような記載がある。
 天明の死の一年前の話・・・(昭和37年ごろ)
 或る日、突然ポツンと
「カタは他で出ているそうだ」
 という。
 私は息が止まる程驚いた、その瞬間心が音をたててくずれていくようであった。昭和20年、終戦直前に、初めて天明と会って以来、この人こそ理想の行き型の人格者と思い、信仰して
「天明96歳7ヶ月(1994年7月4日)ひらく」
 とあるから、長命な人だと信じていたのに、今更自分でない。といわれても、全く困ってしまった。が、それ以来ずっと「二(つぎ)の世の型の人」を探し続けてきた。「二(つぎ)」の意味が解らなかった。
 三典夫人は「二(つぎ)の世の型の人」の人を探し続けた。そして探しあぐねた(注1)。
 天明自身、晩年は自分こそが、大本で降りなかった最終的な神示の伝達者と信じていたが、それが自分でないと、最後の示しにたいへんなショックを受けていた。
(注1)
 二は「つき」で、出口直が信じた「有明の月を待ちかねる」の心境と、同じ心境を表す。

 岡本天明の『ひふみ神示』の発表時期は、白山義高氏の業績に呼応している感がある

 淡路島の元井戸の掘削が完了近くになって、『日月神示』(昭和19年6月10日)が降ろされていること。
 淡路島のイスラエル遺跡の発掘が完了するのは昭和27年10月だが、『日月神示』の30巻までの書記は昭和27年5月で終了している。
 岡本天明の『日月神示』と白山義高氏の業績は表裏一対の関係にあるかのようだ。
 白山義高氏が浪上千代鶴に元井戸を託して淡路島を離れた昭和30年に、岡本天明たちは三重県菰野に迎え入れられることになる。

 さらに、元井戸神業をやられた人を中心に3つの宮ができた。

 淡路島には桃之宮。

 三重県菰野には錦之宮と至恩郷。

 淡路島元井戸を起点とする流れが3つに分かれることは、出口王仁三郎の大本教が内紛によって3つに分裂する型を示しているともいえなくもない。
 こうみると出口王仁三郎が昇天した後、「とどめの神業」(最後の型)は白山義高氏の生き様のなかで示されたとみてもいいのかもしれない。

 白山義高氏は淡路島を離れたあと神戸の病院で亡くなられたのだという。

 昭和19年生まれのご長男と、妹さんがいたようだ。
 白山義高氏の奥様は武智時三郎の娘さんでもあったので、白山義高氏が亡くなられると、宗教関係者の来訪を嫌って白山義高氏の遺品全てを本人と一緒に天に持っていってもらったという。
 白山義高氏の元井戸やイスラエルの遺跡関係の資料は焼却されて残っていないらしい。

 白山義高氏の遺品が焼却されてどうなった?

 まず、昭和58(1983)年11月23日 に淡路島「桃之宮」(元井戸)が焼失し、浪上千代鶴氏焼死。
 次、平成10(1998)年3月23日に武智時三郎と岡本天明の至恩郷「日の宮」焼失。
 次、平成22(2010)年8月14日に大本・亀岡にある熊野館(出口王仁三郎の館)が漏電によって焼失。
 以上のように「白山義高氏の遺品が焼却」に暗示されているかのごとく3つの宮が焼失している。

 白山義高氏が関わってきた事柄の全てが、「とどめの実地」になっているかのようだ。

 その後は、

 2002(平成14)年に「桃之宮」は魚谷佳代氏によって再建。
 2007(平成19)年 6月10日 岡本三典氏が至恩郷(ひかり教会)の解散式。
 2007(平成19)年 11月7日 魚谷佳代氏によってシオン山の山開き。
 2008(平成20)年には、錦之宮の辻恵子氏(1962年奈良県出身)逝去。

  錦之宮は現在、辻天水直系の辻公壽氏とは全く関係のない方たちの宗教団体になっているらしい。

 白山義高氏が発掘調査にあたった小磯のイスラエル遺跡があった洲本温泉の旅館「四州園」(洲本市小路谷)は、2009年11月に差し押さえられ、2010年5月の競売で同温泉旅館の海月館グループが取得し、四州園なぎさに貸し出す形で営業を続けていた。
 しかし「四州園」は、2011年3月31日で営業を停止し、経営会社の「なぎさ別館」(森敏行社長)が自己破産。土地と建物は同温泉のホテルニューアワジグループが取得。旅館は現在 「ホテルニューアワジ」 系列として建物もつながり、『ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景』になっている。


白山義高の淡路島での元井戸神業とイスラエル遺跡の発掘作業の年表

1935年(昭和10年)  月 日 出口王仁三郎より淡路島の元井戸神業とイスラエル遺跡の発掘の要請を受ける。
1942年(昭和17) 8月7日 元井戸の掘削が整うと出口王仁三郎が保釈される。
辻天水と白山義高を中心に元井戸の掘削開始。
1944年(昭和19) 6月10日 岡本天明による『日月神示』の書記開始。
1944年(昭和19) 10月 元井戸が完成(水はでない)。
1948年(昭和23) 1月19日 出口王仁三郎逝去。
1952年(昭和27) 5月5日から 『ひふみ神示』第30巻冬の巻の書記開始
1952年(昭和27) 10月14日 白山義高が淡路島でユダヤ遺跡を発見。
洲本市でユダヤ教大司教とともに式典を行う。
1955年(昭和30)  月 日 白山義高は浪上千代鶴に元井戸を託し、淡路島を離れる。
1955年(昭和30) 8月21日 岡本天明が北伊勢菰野に移る。
1956年(昭和31) 6月10日 菰野の丘に神殿(日の宮)を建立、『大国常立大神』短冊の御神体をまつり、至恩郷と命名。
1958年(昭和33) 5月10日 『大国常立大神』短冊の御神体が「錦之宮」に戻る。
(至恩郷に祀ってから700日目)。
1959年(昭和34)  月 日 辻天水と登美古夫人との間に公壽氏が生まれる。
1960年(昭和35) 12月6日 武智時三郎逝去。
1961年(昭和36) 5月〜 岡本天明に五十黙示録が降りる。
1961年(昭和36) 9月10日 辻天水逝去。
1963年(昭和38) 4月7日 岡本天明逝去。
1983年(昭和58) 11月23日 淡路島「桃之宮」(元井戸)焼失。浪上千代鶴氏焼死。
1995年(平成 7) 8月6日 至恩郷の「月の宮」の落成式。
1995年(平成 7) 10月 錦之宮の登美古夫人が交通事故。息子の公壽氏が錦之宮へ。
1998年(平成10) 3月23日 至恩郷の「日の宮」焼失。
2007年(平成19) 6月10日 至恩郷(ひかり教会)の解散式。
2007年(平成19) 11月7日 魚谷佳代、淡道島の洲本のシオン山の山開き。
岡本三典氏の至恩郷(ひかり教会)の解散式を踏まえて、「シオン」の名が引き継がれたかのような感想を私は持つ。
2008年(平成20) 月 日 錦之宮の辻恵子氏(1962年奈良県出身)逝去。
2009年(平成21) 6月23日 岡本三典氏(本名、高木多恵子)享年92歳で逝去。
1917(大正6)年11月9日、京都鴨川端荒神橋のたもとで生まれる。
2009年(平成21) 11月 白山義高氏が発掘調査にあたった小磯のイスラエル遺跡があった洲本温泉の旅館「四州園」(洲本市小路谷)は、2009年11月に差し押さえられ、2010年5月の競売で同温泉旅館の海月館グループが取得し、四州園なぎさに貸し出す形で営業を続けていた。しかし「四州園」は、2011年3月31日で営業を停止し、経営会社の「なぎさ別館」(森敏行社長)が自己破産。土地と建物は同温泉のホテルニューアワジグループが取得。旅館は現在 「ホテルニューアワジ」 系列として建物もつながり、『ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景』になっている。
2010年(平成22) 5月 白山義高氏が発掘調査にあたった小磯のイスラエル遺跡があった洲本温泉の旅館「四州園」(洲本市小路谷)は、2009年11月に差し押さえられ、2010年5月の競売で同温泉旅館の海月館グループが取得し、四州園なぎさに貸し出す形で営業を続けていた。しかし「四州園」は、2011年3月31日で営業を停止し、経営会社の「なぎさ別館」(森敏行社長)が自己破産。土地と建物は同温泉のホテルニューアワジグループが取得。旅館は現在 「ホテルニューアワジ」 系列として建物もつながり、『ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景』になっている。
2010年(平成22) 8月14日 大本・亀岡にある熊野館が漏電によって焼失。
2011年(平成23) 3月31日 白山義高氏が発掘調査にあたった小磯のイスラエル遺跡があった洲本温泉の旅館「四州園」(洲本市小路谷)は、2011年3月31日で営業を停止し、経営会社の「なぎさ別館」(森敏行社長)が自己破産。土地と建物は同温泉のホテルニューアワジグループが取得。旅館は現在 「ホテルニューアワジ」 系列として建物もつながり、『ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景』になっている。


 『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』PP 8 - 14

 皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される(白山義高) 

 其の当時の私には、出口聖師の曰はれた、
「お前は一宗一派に囚はれてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ。」
 と。
 教えられたお言を理解することができませんでしたが、聖師は、当時の情勢の変遷に就て、次の如く語られました。

 

「現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。
 如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤと日本の完全な提携によることは、既定の事実である。
 さうしない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
 眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることはできない。
 眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、まことの宗教を知る者はない。これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた気違ばかりの世界となる。皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか。」
 と相談をもちかけられました。

 

 私は一議に及ばず従順に「私の出来る事なら」とお引受けをいたしました。
 すると聖師のいはれるには、
「皇道大本の究極の宗教原理を示す雛形建設の必要がある。それでは淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。然し実際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、淡路島の古文化遺跡の史料調査をして欲しい」
 と要所要所の差図を受けました。

 

 間もなく第二次大本弾圧があって、出口聖師は投獄され、同時に皇道大本の宗教的雛型たる神殿は取拂はわれてしまいました。これも何かの雛型の教の部類に入るのでありませう。
 昭和十七年八月、私共の井戸掘の機が熟して、着手の段取になると出口聖師は仮出獄の恩典に浴しました。私は井戸掘着手報告のために、京都府亀岡町に向ひました。当時はまだ面会禁止でありましたが、秘かにお会ひすることが出来ました。同伴者は井上功氏でありました。

 

 色々とお話のあった後、
「井戸掘が始まる相で目出度い。これは私の無上の歓喜とするところだ。この井戸は元井戸と命名する。最早元井戸さへ出来れば、一安心だ。この意義と目的に就ては、これから月に三四日づゝ講義すれば、大体が解るであらう。但し時節到来まで、他言は無用。元井戸が出来たなら、宗教の目標が出来る訳であるから、そのうち、お前にも解るやうになるであらう。解って貰はねば大事のことを頼むことも出来ぬからな。元井戸が完成する時分には、この戦争も終るであらう。勝つべき戦争がな。忘れんようにせんと負けて勝つ秘法も消えてしまふがな。本当の神業奉仕は、それからだがな。兎に角、元井戸は永久保存の方法をとって貰い度い。こゝも世界の聖地になるだらう。一隅にお宮を建てて、祭るよう。御神体は、その時に下げませう。さうしているうちに、時機が到来して、ユダヤ人とのつながりが自然に出来るであらう。そのためにはアメリカユダヤに重点を置いて大いに研究するがよい。そのうちに、ユダヤ人もユダヤ国を再建するであらう。これも世界国の雛型だ。」

 

 それ以来、私は元井戸の工事を急ぐと共に、毎月のやうに二三日づゝ京都府亀岡へ通ひました。終戦近くの十九年十月には、元井戸が完成し、元井戸の敷地内にささやかな神の祠も出来上ったので聖師に報告すると、聖師は、大本開教当時から保存されてあった銀紙の短冊に御神号を認められて
 「これを御神体とせよ」
 と下されました。その時の聖師のお話は、
「この御神体は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差図する。この雛型行事の上にも、第一に淡路の神秘が開発されねば、「不二と鳴門の大本の仕組」は完成せぬ。不二と鳴門の仕組に就ては、皆の者が知ったか振をして、種々と取沙汰をするが、この「大地六変に震動す」の世界文化界の大問題は誰にもわかっていない。」
 と語られました。それから間もなく、終戦となり、聖師から御神体を近江へ移せと指示されたので、滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸は、その儘の姿で保存してゐます。

 

 私は昭和二十二年十二月聖師にお目に掛ったのが最後でありました。
 その時のお話に
「元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教が子の一同に会する塲面となる。この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。淡路の霊山諭鶴羽山の山腹にある子宝温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開発することが大切である。その時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を広く世界に告げ知らす必要がある。
 かうなると、日本とイスラエルに、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣伝が始る。その頃には、自然に之に当るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰ひ度い。然しわしはモー来月からお前の世話することが出来ない。」
 と申渡されましたが、聖師は翌年一月十九日に昇天されました。

 

 私は不二の仕組も、鳴門の仕組も、何が何やら判らないけれども、只管、忠実に出口聖師の筋書通りに突進して、遂に古茂江小磯の古代イスラエル文化遺跡の聖地に日本の国旗とイスラエルの国旗を交叉して、これを広く全世界に告げ知らすまでの役目は果しました。
 これから聖師の示された雛型通に進んで行けば、諭鶴羽の山腹の子宝温泉でも開鑿して、脉々と涌き出る温湯の出口でも発見すれば、其の血(智)湯津石村に走りつきて、成りませる神の名は、石拆神、次に根拆神次に石筒之男神となるのでありませうが、徒に稱名ばかりしていても、何の利益もありさうにもありません。問題は走りつくべき地(智)の在り方であります。さて、これから先はどう行むだらよいでせうか。
「その心配には及ばない。神業に当るべき人材は用意してある。」
 と。
 聖師は、この預言を遺して昇天されたのであります。考へるまでもなく、天のエルサレム(平和神)の、雛型を地上に移す大神業が、一人や二人の少人数で出来るものではない。ヨハネ黙示録を見ても、
 視よ羔羊シオンの山に立ちたまふ。十四万四千の人、これと偕に居り、その額には羔羊の名及び羔羊の父の名記しあり
 とありますから、そのうちにこれ等因縁の用材が集って、全世界国家建設といふ大神劇を始め呉てれるであらうと、高を括って納っていることの出来ないのは、差迫った今日の問題、発掘した古代イスラエル文化遺跡の歴史科学的の実證であります。この実證的証明によって、この遺跡の久遠の文化価値を高揚するの挙に出なければならぬは申すまでもありません。



元井戸神業で出口王仁三郎から下げられた御神体

辻天水氏が昭和17(1942)年8月に出口王仁三郎から下げられた御神体

 画像引用先:http://ww91.tiki.ne.jp/~spiral_jp/info/tengen.html#kanayama

辻天水氏が出口王仁三郎から下げられた御神体

 天水は、昭和17年に保釈出所後の王仁三郎と面会を果たしたが、その際、王仁三郎は彼に『大国常立大神』と書いた御神体の短冊を授けた。王仁三郎によれば、この短冊のある場所が、神業の中心地になるというのだ。
 そして、この御神体について
「近江で祀り、淡路に入り、あとは伊勢に入らなならん」
 といったという。
 そこで天水は、この御神体を近江にあたる滋賀県甲賀郡大原市場で実際に祀った後、その旨を報告すると、王仁三郎は淡路島神業について切り出した。
 その神業とは、淡路島で元井戸を掘ることであった。
 天水は最初、元井戸を掘れといわれてもなんのことかわからなかった。
 そこで改めて
「井戸ですか」
 と聞くと
「そうや、大きな井戸を掘るんや」
 という。
 怪訝な顔つきをしている辻天水を見て、王仁三郎は続けた。
「直径一間半(約2.7メートル)、深さは60間(108メートル)や」
 だがこのとき、天水は淡路島のどこを掘ったらいいのか、王仁三郎からまったく何も示されてはいなかった。
 そのため、天水は大本裏神業の同志で天才的な霊能者でもあった、三雲龍三の神示によって元井戸を掘る場所を特定することになる。
 三雲によれば、元井戸を掘る場所は、淡路島の三原郡神代村久保(現在の三原町神代)と出た。
 念のため王仁三郎に確認すると
「まさしくそこや」
 という。

昭和19(1944)年10月に白山義高氏が出口王仁三郎から下げられた御神体

 『日月神示はなぜ岡本天明に降りたのか』(岡本三典著 P204)

白山義高氏が出口王仁三郎から下げられた御神体

 元井戸が完成したのは、昭和19(1944)年10月であった。元井戸の敷地内には小さな祠も建立した。
 それを報告すると、王仁三郎は短冊に神号をしたためて、
「この御神体はやがて近江に移り、さらに北伊勢へ移されるときが来るが、その都度指図する」
 と告げた。
 それから間もなくして終戦となり、王仁三郎は白山義高に御神体を近江へ移せと連絡してきたので、滋賀県甲賀郡大原市場へと移したという。
 白山義高が王仁三郎と最後に会ったのは、王仁三郎が昇天する1ヶ月ほど前の昭和22(1947)年12月のことであった。
 その際、王仁三郎は
「元井戸の御神体を北伊勢に移すこと」
 の重要性を強調した。
 さらに、北伊勢に「最後の宮殿」を建てることによって神業が成就する、という意味のことを述べたという。それが北伊勢神業として、辻天水や岡本天明らに引き継がれることになるわけである。

(※)出口王仁三郎から下げられた御神体についての伝えられ方が違う。

現在の元井戸の景色

現在の元井戸の景色

 上記画像の引用先:http://pontosu2011.blog12.fc2.com/blog-entry-162.html

現在の元井戸近くの地蔵  現地のことを知っている方のお話だと、左の地蔵は「元井戸」には関係のないものだということであった。
 左記画像の引用先も上記と同じ:http://pontosu2011.blog12.fc2.com/blog-entry-162.html

淡路島の神代社家の元井戸周辺

 淡路島の神代社家の元井戸周辺  

【地図】淡路島の元井戸周辺

 【地図】淡路島の南部  

【地図】淡路島の南部