斉藤道三|「月の光」

斉藤道三

新しいウィンドウで開いています

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 庄五郎(道三)は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎(道三)は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
 勘九郎(道三)はその武芸と才覚で次第に頭角をあらわし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄土岐政頼との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。頼芸の信任篤い勘九郎(道三)は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀(道三)を名乗った。

(注記)
 上記の所伝には、父新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。同年11月の文書は、長井景弘との連署であり、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。

 天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(道三)と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。

美濃国盗り

 天文10年(1541年)、利政(道三)による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政(道三)との対立抗争が開始した。一時は利政(道三)が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政(道三)は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の次郎を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。
 しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた政頼と連携を結ぶと、両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を背景として、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城に復帰した。天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政(道三)は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。一方、政頼も同年11月に病死した。この情勢下において、利政(道三)は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
 この和睦により、織田家の後援を受けて利政(道三)に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城にとどまっていた土岐頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。